第13話 ブレーキング

 おれにも見えていた。

 校門をくぐった瞬間、琴守こともりのネグリジェが制服へと戻ったのだ。


 ひじり会長は「ゼロ年生現象は秘匿される」と言っていたけれど、その効果は校外でも適応されるのだろう。

 だから制服がパジャマに変化するのは校内だけなのだ。


 そのとき、琴守の悲鳴でおれの思考が断たれた。


「来てる! 追いかけてきてる!」

「だろうな……」


 おれも後方を確認した。

 黒いセダンが動き出し、背後に迫っていた。

 さすがに事故が起きるような無茶はしてこないと思うけど、追いつかれるわけにはいかない。


 ふたり乗りの自転車で車と鬼ごっこか。なかなかの無理難題じゃないか。


「住宅街をジグザグに抜ける! 振り落とされるなよ!」

「うん……!」


 早くも脚には乳酸が溜まり始め、呼吸のペースは自然と上がってきている。


 こんなに身体を動かすのはいつ以来だろうか。たぶん中学三年の大会が最後……。


 全盛期と比べたら驚くくらい体力が落ちてきている。


 住宅街へと入る曲がり角が見えてきた。そのまま、全速力で突っ込んでいく。


「ごめんな、怖いよな」

「ううん。どきどきしてるだけ……」


 最低限のブレーキをかけ、身体を倒してコーナーを攻めた。ぎりぎりのスピードだ。


 すぐに後ろを振り返れば、セダンもウィンカーを出しながら左折しているところだった。

 やはり車のほうは曲がり角で大きく減速する。これなら住宅街を抜ける作戦でいけそうだ。


「どこに向かうつもりなの!」


 すぐ背後で琴守が叫んだ。


「川沿いのサイクリングロードだ! 車は入れないだろ!」


 桂川までは少し距離がある。

 おれの体力が尽きるのが先か、追いつかれるのが先か。


 直線で迫られ曲がり角で突き放す。つかず離れずのまま追いかけっこは続く。


「……あと……少し!」


 堤防の前、ゆるやかに長く続く坂でラストスパートをかける。


 脚は鉛のように重く、ハンドルのグリップは汗で滑る。心臓は破裂しそうだし、肺も破けそうだ。


 この苦しさをおれは知っていた。何度も経験していた。


 陸上競技のトラック、直線に入ってからの最後の百メートル。中学時代に飽きるくらい見た景色。


雨谷あまがいくん! もうそこまで来てる!」


 琴守が叫ぶのと同時に堤防の上にたどりついた。


 すぐに交差点を左折し、サイクリングロードへとおりるスロープに入った。

 もちろん車が入ってこられる道ではない。


 ブレーキをめいっぱいに握りしめ、ゆっくりとスロープをくだる。

 そのあいだに息を整え、サイクリングロードに入ってから再びゆるゆると速度を上げた。


「雨谷くん、ありがとう」


 ぎゅう、と琴守がおれの腰を抱きしめた。


「こんなふうに友達と下校するの、ずっと憧れてた。こうやってふたり乗りで……」

「……なあ琴守」

「なに?」

「……もうしがみついていなくていい。離れてくれ」

「えへへ、そうだね」


 琴守はおれの腰から腕を外し、代わりに肩の上に手を置いた。


「わたしね、やっぱり思うの。絶対に雨谷くんは優――」

「優しくない」


 はあ、と琴守はわざと声に出してため息を吐く。


「なんで『優しい』って言われるのが嫌なの? 感謝を伝えてるつもりなのに」

「嫌なものは嫌なんだ」

「じゃあ別の言い方をするね」


 背中越しに、琴守が身体を寄せてきた。それから耳元に口を寄せてささやく。


「大好きだよ、雨谷くん」


 心臓が飛び跳ねてペダルを踏み外しそうになった。

 五秒経って冷静になれば、正しい切り返しが理解できた。


「その『大好き』は友達として、だよな」


 またしても琴守は「はあ」とため息。


「つまらないなあ。もうちょっと驚いてほしかった」

「残念だったな」


 本当はかなりびっくりしたけど、ふたり乗りをしていたおかげで表情は見られていない。危ないところだった。


「でもちょっと照れたよね? 絶対に照れたよね?」


 後ろからうざったい声が飛んできたので、おれは思いっきりブレーキを握ってやった。


「うわあ!?」


 慣性の法則に従い、琴守が勢いよくおれの身体に追突した。


「ひどい! いくらなんでも危ないよ!」

「知ったことかよ」


 ぷりぷりと怒る琴守のせいで、わずかに自転車が左右に揺れる。それをロードバイクが勢いよく抜かしていった。


 溜まっていた乳酸もおおかた流れていったし、息も整った。

 嵐山の琴守邸に向け、少しスピードを上げた。


「わたしね、少し思い出したことがあるの」


 風を切る音に負けないよう、琴守は少し声を張っていた。


「病院にいてもね、少しくらいは中学校の話が入ってくることはあったの。それでね、わたしの同級生にすごく優秀な男の子がいるとかで……。生徒会長と陸上部のキャプテンを兼任していて、なんかの種目では府大会で一位になったとか」


「……そんなやつがいたんだな」


「みんなから慕われていて、先生からも信頼されていたんだって。それこそ聖会長みたいなひとだったんじゃないかな。その男子の名前がね、ちゃんとは憶えていないんだけど、雨谷くんにすごく似ていたような気がするの」


「……別人だな」


「そっか……。雨谷くん、すごい体力の持ち主だったからひょっとして……って思ったんだけど、そっか。別人か……」


 琴守の声が尻すぼみになって消える。

 その寂しそうな声色は、風にかき消されることなくおれの耳に届いていた。


 それでも、その過去に言及することは許されなかった。


「……そんな完全無欠な人間、聖会長くらいしかいるわけないだろ」

「うん……」


 琴守がきゅっと拳を握りしめ、おれの肩の上でシャツにしわが寄った。


「いつか……いつか気が向いたら教えてほしいな。雨谷くんの昔のこととか……。そういう話って親友っぽい気がするから」

「そういう日が、来ることがあったらな」


 西のほうで膨らむ雲の気配を見て、おれはさらにペダルを強く踏み込んだ。


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