第5話 パジャマの名前


 あの話の流れで琴守こともりのお願いを断ることができるのなら、そいつはひとの心を持ち合わせていない。

 だからおれは決して優しさを発揮したわけではなく、仕方なく琴守のわがままを聞いているのだ。


 そう自分自身に言い聞かせながら、おれは駅の東口のほうへと自転車を走らせた。


 阪急はんきゅう京都きょうと河原町かわらまち線のかつら駅はやや古めかしいおもむきのある駅だが、大阪の中心街や京都の繁華街にアクセスできることもあってひとの出入りは多い。


 おれはバスターミナルに並ぶひとの邪魔にならない位置を選んで自転車をとめた。


 少しでも人目を避けたくて待ち合わせの時間は早い目に設定させてもらったが、それでも数人の西織にしおり高校の生徒が東口を抜けていった。

 おそらくは運動部の朝練だろう。


 数分後、ようやく琴守が姿を現した。

 一歩一歩たしかめるように階段を下ってくる。


 まぶしかった。まっさらな制服も、ぎこちない足取りも、琴守にとっては大きな意味を持つ。

 三年ぶりの登校なのだ。その一挙手一投足に期待と不安がにじみでている。


 階段を下りきったところで琴守はおれに気づき、とことこと駆け寄ってきた。


雨谷あまがいくん! 待たせちゃったね」

「……十三分くらい待った」

「そういうときは『ぜんぜん待ってないよ』って言うんじゃないの?」

「……いまは待った時間を相手に伝えるのがトレンドなんだ」

「また嘘ついてる。病院に引きこもってたからって騙せると思わないでよね」


 もっと琴守は緊張していると予想していたけれど、案外ふだん通りに会話ができている。


「それより雨谷くん」琴守がわざとらしい笑みを浮かべる。「きょうのわたしの恰好を見たら、真っ先に言うことがあるんじゃないかな」

「……おはよう、とかか?」

「あ、そっか。あいさつがまだだった。おはよう」


 琴守は再び笑顔を作って仕切り直し、おれに圧をかける。


「じゃあ二番目に言うべきことがあるよね?」

「……さっぱりわからん」


 実際はわかっていた。制服が似合ってるか聞きたいのだろう。

 でもそれを素直に伝えるのはどうにも気恥ずかしい。


「ほんとにわからないなら、それはそれで悲しいな……。雨谷くんの感想、楽しみにしていたのに」


 うつむく琴守の顔に物寂しそうな陰が見えた。


 いつもなら絶対に服装の感想なんて言ってやらない。でもきょうは琴守にとってハレの日なのだ。だから今回ばかりは特別サービスしてあげてもいいような気がした。


 おれは琴守のまっさらなブラウスとスカートを指で示す。


「制服」


 おれが口を開くと、ぱっと琴守が顔をあげた。


「かわいいな」


 琴守が大きく目を見開いた。そのあと、徐々に頬が朱に染まる。


「わ、わたしは『似合ってる』って言ってほしかったの! 制服は久しぶりだから、おかしくないか教えてほしかったの! それを通り越して『かわいい』とか言われるとびっくりするでしょ!」

「……わかった取り消す。別にかわいくない」

「なんで取り消すの! かわいいって思ってくれたんでしょ!? ありがと!」


 琴守がまとっている女子の制服は、カッターシャツとベストにチェックスカート。どこの高校にもあるような夏服だ。それでも、やっぱり制服姿の琴守はまぶしい。


 琴守は三年間も制服を着ることを渇望し続け、やっと袖を通すことができた。

 だれよりも制服を着たいと望み、制服を着ている。だから特別なのだ。


「一応訊くけど、きょうのわたし、ちゃんとかわいいんだよね?」


 琴守はくるりと回って制服を見せびらかす。

 体幹が弱くてきれいにターンできていないのはご愛嬌。


「はいはい、ちゃんとかわいいよ」

「えへへ。やっぱり照れちゃうね。でもうれしい」


 まだ琴守の頬はほんのり赤かったけれど、今度はおれの褒め言葉をしっかりと受け取って笑顔を見せた。


 琴守は照れても隠そうとしないから、こちらにも照れが移ってきそうで困る。


 おれは逃げるように自転車を押す。


「ほら、もう行くぞ」

「ねぇ、ふたり乗りしてみたい」


 おれの横に並びながら琴守がねだった。

 ふたり乗りで登校など、クラスのカップルでもやっているのを見たことがない。


「却下。この自転車はひとり乗り専用だ」

「でも乗るところ、ついてるよ」


 琴守が指さしたのは後輪の真上にある荷台。


「それな、耐荷重が決まってるんだよ」

「何キロまで?」

「……上限四十キロだ」

「そっか……わたしじゃぎりぎりアウトだね……」

「なるほど。琴守の体重は四十キロちょっとか」

「ああ! わざと体重を特定しようとしたでしょ! 最低! 本当は何キロまでなの!」


 知らなかったので調べてみたら、自転車の荷台の耐荷重は二十キロ前後が一般的だった。

 その事実を琴守に伝えると、すっかり落ち込んでしまった。


「二十キロ……どうやって痩せよう……」


 ふたり乗りのためだけに何キロやせるつもりだよ。骨と皮だけになるぞ。


「そもそも自転車はひとり乗り用だ。荷台は人間を乗せる場所じゃない」

「ぐうの音も出ない正論だ……」


 しょぼくれる琴守を連れて駅前のロータリーを抜け、線路沿いの道を南下した。サラリーマンと学生をぱんぱんに詰め込んだ列車がおれたちを追い越していく。


「でもさ!」ふいに琴守が力強い声をあげる。「学校に行ったらやりたいことがいっぱいあるんだ。だからふたり乗りくらい、できなくたって大丈夫!」


 琴守は道の少し先へと駆けて行き、おれのほうへ振り返る。


「わたし、もうパジャマの女の子じゃない。制服姿のどこにでもいる女子高生なの」


 近くで踏切が鳴った。

 声がかき消されないよう、おれは大きく口を開いてうなずく。


「そうだな」


 遮断機の矢印のランプはふたつとも点灯していて、数秒後、京都行きと大阪行きの電車がすれ違った。

 巻き起こる風に、琴守のスカートがわずかに揺れる。


「わたし! 友達百人つくるー!」

「なんだって!?」


 琴守が張り上げた声は電車の音にのまれ、あと一歩のところで聞き取れなかった。


 琴守は改めて腹から絞り出すようにして叫ぶ。今度は聞こえた。


「友達百人つくるのー! だからあと九十九人!」


 小学校一年生かよ、と小馬鹿にしそうになったけれど、おれは口をつぐんだ。


 琴守は冗談で言っているのではない。

 病室のベッドで思い描いていた理想の学生生活なのだ。それをだれが否定できるというのか。


「あと九十九人って、ちゃっかりおれも含まれてるのかよ」

「もちろん!」


 琴守が笑顔を弾けさせ、おれは苦笑する。


 再び自転車を押して歩き始めると、琴守はぴったりとおれの横に並ぶ。一歩踏み出すたび、かすかに肩が触れあった。


 そのまましばらく道を下ると、深緑の防球ネットが見えてきた。

 西織高校のグラウンドだ。朝練の野球部が金属バッドの快音を響かせている。


「あれ……! あれだよね、わたしの高校」


 琴守の歩みが自然と早くなり、おれも追って速度をあげる。


 グラウンドに沿って道を曲がれば、校門はすぐ目の前。時間が早いこともあって、それほど生徒は集まっていない。


 琴守は門の前で一度立ち止まり、校舎を見上げる。

 どこにでもあるような高校だ。校舎も立派なわけではない。なんなら琴守家の邸宅のほうが立派だろう。それでも琴守は遊園地に訪れた子供のように瞳を輝かせていた。


「行くね、雨谷くん」


 おれがうなずくと、琴守は校門をくぐった。そのときだった。


 瞬間、琴守の制服がまばゆい光にのまれた。制服が真っ白に光っている。


「な、なに!?」


 琴守はわけもわからず自身の姿を見下ろした。

 おれも目の前で何が起こっているのかわからず、凝視することしかできない。


 これはなんだ? 超常現象?


 すぐに琴守の全身を包む白光がそのシルエットを変えた。

 まるでアニメの魔法少女が変身するみたいに。


 この現象はおれの知る物理法則の外側にある。それだけのことしかわからない。


 やがて琴守をまとう光が払われた。

 光の内側から現れたのは、制服とはまったく性質を異にする服装だった。


 琴守は困惑の混じった悲鳴をあげる。


「ネグリジェ!? どうして……」


 病室で琴守が着ていたお姫様のようなパジャマ。ワンピースの形状をしていた真っ白なパジャマ。

 ずっとその名前を忘れていたけど、やっと思い出せた。ネグリジェだ。


 琴守の制服が、校門をまたいだ瞬間にネグリジェに変化した。


 しかしよく見ると、いつもの白いパジャマとは意匠が異なる。

 パッチワークのようにところどころ暖色のチェック柄が入っている。

 ふたつの服が混ざり合ったような、不思議なデザイン。


 とにかく琴守の制服は、見えざる者の手によって奪い去られてしまった。


 おれと琴守が顔を合わせて絶句していると、呼び出しのチャイムが校庭に響いた。


『生徒会長のひじり舞紘まひろです。琴守こともり楓花ふうかさん、初日から申し訳ないのだけれど、あなたの制服のことでお話があります。雨谷圭くんは彼女を生徒会室に案内してくれるかしら』

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