第4話 キッチンカーのアイス
入院棟を抜け出すのは存外に簡単だった。
院内を散歩している体を取り繕い、出口をするりと抜けるだけ。
自転車は置いたままになるけど、この際仕方ない。
ここ京都市は盆地になっていて、夏は猛暑日が多い。
空調が効いていた院内とは打って変わって、屋外はじとじとした空気が素肌にまとわりついてくる。
元病人の琴守が暑さにやられないよう、急いで用事を済ませよう。それで、早くゲーセンに行こう。
「で、どこに行くんだ? あんまり遠くはだめだぞ」
「近くのスーパーに行きたい。アイスクリームのキッチンカーが来るらしくて」
「ん、了解」
口喧嘩が収束したあとから、なぜか琴守は元気がなかった。
露骨に口数が少ないし、ずっと足下を見ながら歩いている。らしくない。
おれとしては琴守に振り回されるのは御免だからこれくらいおとなしいほうが助かるけど、こうも覇気がないと心配になる。
「なんでしょげてるんだ?」
「しょげてない……」
うん、この反応は間違いなくしょげてる。
また琴守が口を閉ざし、沈黙が降りた。
目指していたスーパーには数分で到着した。キッチンカーは駐車場にとまっていて、子供連れが列をなしている。
おれたちは示し合わせることもなくその最後列に加わった。
「琴守ってあんまりこういうの食べたことないから、ここを選んだんだよな」
「え」
せっかく病院を抜け出してきたのに、このテンションのままアイスを食べるのは間違っている気がした。だから話を振った。
「屋台とかキッチンカーとか、琴守はあんまり経験したことないのかなって。そういう意味では食べにこられてよかったな」
明るく声をかけたつもりだったけど、なぜか琴守の瞳に涙がにじみ始めた。
「え、おい。なんで泣きそうになってるんだよ……」
前に並んでいる親子に配慮し、できるだけ声を抑えた。
「だってぇ……
おれは慌ててポケットからハンカチを引っ張りだし、琴守の目尻にあてた。
「もうじき順番だから落ち着きな。深呼吸して。注文は決まってるよな?」
「決まってる……」
会計の番が回ってくるときにはなんとか琴守の涙は引っ込み、アイスを買うことができた。
おれは抹茶とバニラのダブル。琴守はキャラメルリボンとクッキーアンドクリームだ。
屋外にはちょうど空いているベンチがあって、そこに並んで座った。
どこでも食べられるようなふつうのアイスクリームだけど、炎天下で食べると格別においしく感じる。
おれが舌鼓を打っている一方で、琴守はアイスを持ったままぼうっとしていた。
キャラメルリボンの表面が溶けはじめている。
「食べないのか?」
声をかけると、琴守は思い出したかのようにひと口かじって飲み込んだ。
すると、琴守はぽろぽろと涙をこぼした。
「さっきのわたし、遺書とか言って脅すなんて、さすがによくなかったよね……。雨谷くん、困ったよね……」
まだそんなことを気にしていたのかよ。
おれなんてとっくに忘れていたんだけど。
「なあ琴守」
「なに……?」
「早くアイス食べろ。溶ける」
琴守はうなずき、大きな口でかぶりつく。
「雨谷くんは、優しい。優しいなあ……」
「やめろ。おれは優しいとかそういうのじゃない」
「ううん、優しい」
琴守はアイスを頬張りながら、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「さっきもね、ずっと反省してたの。雨谷くんも怒ってるだろうなって怖かったの。それなのに、雨谷くん、急に優しく声をかけてくるからびっくりして泣いちゃったの……」
そんなことで泣くのか? 涙腺こわれてない?
「それは勘違いだ。おれは優しくない。きょうは午前授業だから付き合ってるだけなんだ。優しくしてるわけじゃない」
琴守は左手の甲で涙を拭うと、空を見上げた。
小さな雲をちぎって並べたような、夏の空。そこに向かって語りかけるように琴守は言う。
「ううん。雨谷くんは優しいよ」
「やめろって」
琴守はおれの顔をのぞき込み、脇腹をつつく。
「ふふふ、雨谷くんは褒められるのが苦手なんだ」
にやにやと琴守が笑う。いつものような、相手の懐に潜り込むくすぐったい笑顔だ。
もうそこに涙の気配はない。
一方で、おれの反論は虚しいくらい尻すぼみになる。
「……本当に……そういうのじゃないんだ」
おれは高校から人間関係をすっぱりと切り捨てた。要するに、だれかに優しくするのをやめたのだ。だから褒められる道理がない。
「そうなのかな」
琴守は唇の端についたアイスを舐めると、まっすぐにおれの目を見た。
「わたし、雨谷くんが本当は優しいひとだってわかるよ。友達は作ろうとしないし、ときどき突き放すようなこと言うけど、それでも雨谷くんは優しい。だれかと関わるのが嫌いなひとじゃない」
どくんと心臓が鳴った。
琴守はどこまでおれのことを見透かしているのだろう。
昔のことは話していないから見抜かれることなんてないはずなのに。
鼓動の乱れが琴守に伝わるのが怖くて、おれは無理やり呼吸を浅くして答える。
「……友達アレルギーだと、どうかんばっても友達と関わるのがしんどくなるんだ。猫が好きでも猫アレルギーのひとっているだろ? あれと同じようなものだ」
誤魔化すため、いつもみたいにくだらない嘘を並べた。
話題をズラしたつもりだったのに、琴守は静かに目を伏せるだけだった。
「雨谷くんね、本気になれば簡単にわたしのことを拒絶できたよね。わたしは体力がないんだから逃げようと思えば逃げ切れるし、わたしからのメッセージだってブロックすることもできた。でも呼んだらちゃんと病院まで来てくれたし、ちゃんと仲良くしてくれた。だから本当の雨谷くんは、意地悪でひとりぼっちの男の子じゃないよ」
とっさに反論しようと口を開いたけれど、空振るように短い息が漏れただけだった。
動揺を悟られたくないのに、その場しのぎに言葉すら出てこない。
「アイス、落っこちちゃうよ」
指摘されて我に返ると、右手に持ったアイスがやわらかくなって崩れかけていた。
「これくらい溶けたほうが美味いんだ」
おれは大きな口でアイスにかぶりつく。
琴守のほうのアイスを見ると、残りはコーンだけになっていた。いつの間に……。
「雨谷くんは、わたしと友達になれてよかった?」
「……なんにもいいことなんてなかったよ」
強めに否定したはずなのに、琴守はにんまりと笑った。
「それなら、これからいい友達になっていこうね」
琴守の笑顔が苦手だ。
この表情を前にすると言い訳とか誤魔化しが利かなくなって、ぜんぶペースを持っていかれてしまう。
「おれから琴守に歩み寄ったりはしないからな。勝手にしてくれ」
「うん! 勝手に仲良くするね」
おれは溜まったガスを抜くように鼻から息を吐く。
高校に入学してからは友達を作らない主義を貫いてきた。
でも、ひとりだけ例外ができてしまった。友達ができてしまったのだ。
「そうそう」琴守は手の中でコーンをもてあそびながら言う。「もうひとつ雨谷くんに頼みたいことがあったの」
「それは無理だな。わがままは一日一回までだ。きょうはもう閉店」
さすがにもう解放してほしい。早くゲーセンにも行きたい。
「ううん、きょうじゃないよ。夏休みが明けてからのこと」
琴守は携帯のロックを解除すると、カレンダーのアプリを開いた。
「二学期の初日、いっしょに登校してほしいんだ。久しぶりの学校、緊張するだろうし」
「いっしょに登校ね……」
正直、琴守とふたりで登校するのは嫌だった。つい忘れそうになるけれど、琴守は第三者から見ればとびきり透明感のある美少女なのだ。いっしょに登校したら悪目立ちするに決まっている。
断る理由を見つけるため、おれは探りを入れる。
「……琴守の家ってどのへんだ? おれと家が近くないと面倒だからな」
「
だいたいの場所はわかった。あのあたりは高級住宅街だ。
琴守の病室はやたらと広いから勘づいていたが、やはりけっこうなお嬢様らしい。
「とすると
「最寄りはね。でもいまはお手伝いさんが車を出してくれることになってるよ。雨谷くんがいっしょに登校してくれるなら電車にするけど」
頭のなかで疑問が飛び交った。お手伝いさん? 車? そんな登校手段、見たことも聞いたこともないけど……。もしかして琴守家ってとんでもない金持ちなのでは。
「琴守の家って……」
瞬間、頭のなかで情報が結びついてスパークした。
サイクリングロードの付近、嵐山の南のほう。琴守の家の場所がわかった。
あのあたりには一際目を引く大豪邸がある。高い塀と広い庭、洋風の装飾は華美すぎることはなく、上品な趣がある邸宅だ。
近くを通るたびに「どんなひとが住んでいるのだろう」と気になっていたから、表札に記された文字をかろうじて憶えていた。それが「琴守」だったのだ。
「あれか、琴守の家……!」
家のたたずまいだけでわかる。琴守楓花はかなりの良家のお嬢様だ。
そうと気づけば納得できる部分が多い。わがままなのに分を弁えていて、世間知らずなのに賢さを備えていて、品の良さと育ちの良さを感じられる。
いかにもじゃないか。
「琴守お嬢様。ずいぶんとご立派なおうちにお住まいで」
「わたし、そういうふうに扱われるの苦手なんだけど」
琴守が唇をとがらせた。
「わかってるよ。これまで通り雑に扱うから安心してくれ」
「雑にしてほしいわけじゃないんだけど」
しかしまあ、おかげで琴守の家の場所は把握できた。
「話を戻すけど、いっしょに登校はナシだ。おれ自転車通学だし、家の方向もちがう」
なんとか琴守と登校するのを回避できそうだと思っていたけど、琴守は諦めが悪かった。
「じゃあ桂駅までむかえに来て。そこからいっしょに学校まで歩こ?」
「こっちは自転車なんだぞ。なんで駅まで行かないといけないんだよ」
「でも、いっしょがいい……」
琴守は上目遣いですがるような声を漏らす。でもおれはどうしても別々に登校したくて言い返す。
「想像してほしんだ。おれは前も言ったけど学校でぼっちをやっている。そんなやつが、急に編入生の女子とふたりで登校したら、周囲はどんな反応をすると思う? しかも、琴守の家ってそうとうな金持ちだろ? おれは目立つようなことはしたくないんだよ」
「じゃあ雨谷くんも想像してみて」
おれの真剣な訴えに、琴守は反論の姿勢を取った。
「新学期の初日、学校の前に真っ黒な高級セダンがとまって、そこから編入生の女子がすましたかんじで下りてきて校門をくぐるの。そんなの嫌でしょ? きっとみんなから一線引かれちゃうし、壁を作られちゃう」
あいにく西織高校はありふれた公立高校なので、車で送迎されるようなお嬢様はいない。
嫌な目立ち方をするのは間違いないし同情するところではあるけれど。
「……じゃあひとりで駅から校門まで歩けばいいだろ」
「わたしのお父さんね、心配性なの。友達と登校するって言えば電車通学を許してくれるだろうけど、ひとりなら無理やりでも車に乗せると思う」
さては琴守、父親から溺愛されているな。
まあ三年間も闘病していた娘のことだから心配する気持ちはわかるけど。
「二択だよ、雨谷くん」
琴守はおれの回答を確信しているらしく、楽しそうに選択を迫る。
「わたしに車で登校させて恥ずかしい思いをさせるか、それとも駅まで迎えに来てくれるか。さて、どちらにする?」
最悪だ。琴守はいつもそうやっておれの行動を縛り付けてくる。
深くて長いため息が漏れた。
「わかったよ。
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