第2話 友達アレルギー
真正面から「友達になって」と言えるような純粋な人間がいるとは思ってもみなかった。
「断る」
「な、なんで」
「……おれ、友達アレルギーなんだ」
「それってどんな症状なの?」
「……目がかゆくなる」
「花粉症だ……」
実際のところアレルギーみたいなものなのだ。身体に拒絶反応は出ないけど、友達という言葉を心が受け付けないのだ。
特に異性の友達はもめごとの火種になりやすい。だいたい友情と恋愛の線引きが曖昧になって関係がぶち壊れるし、ほかの男友達を巻き込んで三角関係に発展する。
ところが琴守はそんな事情などおかまいなしに食らいついてくる。
「そ、そんなの信じないよ! だからわたしと友達になって」
「かゆっ! 目がかゆい! 友達アレルギーの症状が! そういうわけだから帰るな」
「ちょ……」
琴守の脇をするりと抜けて病室を出た。
申し訳ないけど友達は募集していないのだ。
それにしても不思議な子だった。病気を抱えているようには見えないくらい元気があり余っていた。そのせいか、廊下がひどく静かに感じる。
「ちょっと!」
さっさと帰ろうと思って廊下を歩いていると、ベルトを掴まれ腰が引っ張られた。
振り返ると涙目の琴守がいた。
「ほんとに帰るの……?」
「そうだけど」
「友達アレルギーって冗談なんだよね?」
「まあ、友達を作りたくないのは本当だ」
「それならそうと言ってよ!」
おい、ベルトを握ったまま振り回すな。ズボンが脱げるだろ。
「仕方ないだろ。そういう主義なんだから」
むう、と琴守が頬を膨らませる。
「お友達になってくれるまでこの手は放さないよ!」
琴守はおれのベルトを両手で握りこんだ。
「こ、このときのために握力は鍛えてあるから! ずっと入院してたから体力はないけど握力だけはベッドの上で鍛えたの。だから簡単には振りほどけないよ」
「で、何キロなの? 握力」
「この前、20キロのグリップを握れるようになった。……両手で」
入院生活が長いのなら仕方ない。笑うのはよくないな。よくないんだけど……。
おれが堪えきれずに肩を揺らすと、琴守は赤くなって地団駄を踏んだ。
「な、何がおかしいの! ふつうの女の子は握力何キロくらいなの!」
それにしても、片手あたり10キロか。振りほどくまでもないな。
おれは脚に力を込めて一歩踏み出す。
「ちょ、動かないで! 引きずらないで!」
非力なうえに体重も軽いらしく、琴守を引きずっていくのは簡単だった。
このまま引っ張っていけば諦めるだろう。そう思っていたのだけれど。
「おねがいなの!」
琴守はおれの腰に抱きつき、力いっぱいに踏ん張ってきた。
おれの腰にふたつの柔らかい感触が密着し、おれは驚きで足を止めた。
身体は細いのに胸はなかなかに立派なものをお持ちらしい。
琴守はおれの背中にぐりぐりと額を押しつけながら言う。
「だれでもいいわけじゃないの。西織高校の一年生じゃないとだめなの。ちがう、一年生のなかでも
琴守が大声を出したせいで入院患者がわらわらと廊下に出てきて、好奇に満ちた視線があちこちから飛んでくる。
この状況、第三者から見れば修羅場だろうな。逃げようとする男と、抱きついて引き留めようとする女。
どう見ても痴情のもつれ。明日には井戸端会議の話題になることだろう。
「琴守、はなせ。このままだと周りに誤解される」
「どんな誤解?」
「それはほら……。男と女の仲とかそういう」
「雨谷くんとなら別にいい」
「おれはよくないんだよ! 恋愛関係の噂はな、本当にめんどくさいんだよ……」
ひとつ下の階にはじいさんが入院しているのだ。変な噂が広がると、じいさん経由で親族全員に知れ渡ることになる。
それだけは、こう、なんというか……恥ずかしいだろ!
「なあ琴守、どれだけ粘っても無駄だぞ。おれは絶対に友達を作らない」
おれが頑として言い切ると、琴守は消え入りそうな声を漏らす。
「わたしのことが嫌いだからなの? わたし、雨谷くんに何か悪いことしちゃった……?」
「ちがう。これはおれの主義主張みたいなもので」
「よくわかんない……。嫌われてるだけにしか思えない……」
ずずず、と鼻をすする音がした。まさか泣いているのか。
いや待て、琴守。おれの背中に顔面を押しつけたまま泣くな。鼻水を垂らすな。
「う、う、う……」
ついに琴守がしゃくり上げはじめた。琴守の泣き声が廊下に響き、入院患者のおじさんとおばさんのあいだにざわめきが広がっていく。
「琴守! わかった、わかったから! ひとまず話をしよう。それでいいだろ?」
「う、うう~……」
泣いてないでひとの話を聞けよ!
こうなっては仕方ない。琴守の病室に戻ろう。
おれは抱きついたままの琴守を無理やり引きずり、もとの病室まで戻った。ひとまずこれでほかの患者の視線は気にしなくて済む。
「ほら、琴守。病室に戻ったから放せ」
腰に回されていた腕が緩み、琴守の体温がゆっくりと離れた。
振り向くと、琴守の顔はくしゃくしゃになっていた。目は泣き腫らしており、口元は鼻水でベトベトになっている。
ということは、おれの背中も鼻水でベトベトか……。
「……うう~」
琴守なまだ泣きべそを引きずっていた。
サイドテーブルの上にあったティッシュを渡してやると、琴守は真っ先におれの背中を拭きはじめた。
「うう~……ごべんなざい……雨谷くんの制服よごした……」
「あーもう! おれはいいから自分の顔を拭け!」
本当はほっぽり出して逃げたかったけれど、女の子を泣かせた罪悪感があった。
だからおれは自分の背中を拭きながら琴守が落ち着くのを待った。
琴守はたっぷり五分ほどかけて顔をきれいにすると、ベッドの端に腰掛けた。
そのあと、ふくれっ面でおれの顔をにらみつけた。
おれはしどろもどろに弁明の言葉を並べる。
「あのな、別に琴守が嫌いなわけじゃない。これは本当だ。そもそも出会って数分のやつを、どうやって嫌いになるんだ」
「じゃあ好き?」
話を飛躍させるな。
あえてため息をつき、会話をいったん区切った。
「これは生き方なんだ。おれはゆとりのある生活がしたいんだよ。だから部活もやらないし友達もいらない。放課後は寄り道するか、家に帰るだけ。そうするって決めてるんだ」
「つまり暇ってことだよね? 友達つくれるよね?」
がくりと肩が落ちる。琴守、理解しようとしてないだろ……。
「おれは忙しいんだよ! 何かに束縛されないためにエネルギーを使ってるんだ! 自由に空を駆ける鳥になるために尽力しているんだ! 暇でありたいから多忙なんだ!」
「それって暇ってことじゃないの?」
なんでわかってくれない!
闇雲に時間を浪費することが予定になるときってあるだろ。休日に友達から遊びに誘われても「きょうはちょっと……」と断って家でだらだらするなんてこと、よくあるだろ。
まあいい。理解してもらえないならアプローチの仕方をかえよう。
「そんなに友達が欲しかったらおれ以外を当たればいいだろ」
「ううん、雨谷くんじゃないといけない理由があるの」
琴守はもぞもぞとベッドから降りると戸棚をあけた。取り出したのは、なんと見慣れた西織高校のブレザーだった。
琴守はそれをパジャマの上から羽織ると、くるりと回って笑ってみせた。
「わたし、二学期から西織高校の一年生なの」
琴守のブレザーはまっさらで、ぴかぴかと輝いて見えた。
「うちに編入してくるのか……」
「なんでちょっと嫌そうな顔するの!」
いまは夏真っ盛りの七月中旬。
夏休みを終えたら、おれと琴守は同級生になるのか。
「退院するんだな」
訊ねると琴守が笑顔を咲かせる。
「うん! あと少し検査があるだけ」
知って納得する。入院患者の割に琴守が元気いっぱいに見えたのは、病気が完治するなり寛解するなりしたからだろう。
琴守はブレザーを戸棚に戻すと、ベッドの端に腰を沈める。
「これで西織高校の一年生を探していた理由はわかったよね? いろいろと不安だから、編入する前に同級生の友達が欲しいの!」
なるほど。だから西織高校の一年生を探していたのか。
まあ、だからと言っておれの主義主張が変わることはないのだけれど。
「……実はおれな、厳密には同級生といえないんだ。ほかを当たったほうがいい」
「え、なんで?」
「……実は留年してるんだよ。だから正確にいうと、おれは琴守の先輩だ」
「あっ……けっこう頭悪いんだ……」
琴守の素のリアクションにカチンと来た。はったりのつもりだったけれど、おれは声を荒げて言い返す。
「嘘に決まってるだろ! 時間があるぶん勉強はやってるほうだ!」
琴守はわざとらしくため息吐きながら言う。
「また適当なこと言って逃げようとしてる……雨谷くん、嘘ばっかり……」
「仕方ないだろ。友達は作らないって決めてるんだから」
そのとき、琴守の顔に深い陰が映った。
「雨谷くんはさ、友達を作れる環境にいるのに友達を作らないんだね」
琴守の発言の意味がわからず、言葉が頭のなかを素通りした。
表情が暗く沈んだ理由もよくわからない。
「わたしね、ちょうど三年くらい入院してたんだ。中学生になってすぐ病気になって」
真冬の夜みたいなさみしさがにじむ声に、おれの背筋がこわばった。
「ずっと友達が欲しかったけど、ひとりも増えなかったな。学校に通っていたら『友達を作らない』なんて贅沢なことができるんだね。なんだかわたし、惨めだね」
瞬間、うしろめたさが胸を圧迫する。
琴守が入院患者だとわかっていた。それなのに、おれは想像力に欠けた発言を……。
「それは、ごめん」
「けっこう勇気を出して声をかけたんだよ? それなのに拒絶されて、これでもけっこう傷ついてるんだ……」
いまもまぶたの裏側には琴守の泣き顔が焼き付いている。
会話の行き違いや主義主張のちがいがあったとはいえ、おれが琴守を傷つけたのは紛れもない事実だ。
「悪かったよ……」
繰り返し謝ったけれど、琴守は何も言わずにティッシュを引き抜いて目元を拭った。まずい、また泣き出したか。
「思い出したら悲しくなってきちゃって……。ごめんね、そんなつもりじゃないのに」
静かな病室に、鼻をすする音が繰り返される。琴守はティッシュを両のまぶたに押し当てている。
困ったな。おれはどうやらトラウマをえぐってしまったらしい。
主義主張があるとはいえ配慮が足りなかった。
「さっきは本当にごめん。発言も行動も軽率だった」
「ほんとにそう思ってる……? 雨谷くん、嘘をつくから信用できない……」
ひどく震えた声だった。おれは焦って言葉を足す。
「嘘じゃない。反省してる。おれはまちがっていたよ」
琴守はゆっくりと顔を上げると、目に当てていたティッシュをゴミ箱に放り込んだ。
「そう、雨谷くんはまちがってた」
いやにハキハキとした声だった。さっきまで泣きじゃくっていたはずなのに、けろりとしている。
やられた。琴守の顔には泣き跡がない。
「嘘泣きかよ!」
琴守はにやにやと勝ち誇った顔を向けてくる。
「そうだよね。雨谷くんはまちがったことをした。『友達は作らない主義だ』とか言って、わたしと友達にならなかった。でも、もう反省してくれたんだよね? わたしと友達になる気になったんだよね?」
いまさら気づく。途中から琴守の術中だったのだ。
嘘泣きでおれを焦らせ、友達になるための言質を取ろうとしていたらしい。
悔しさに奥歯をぎりぎりと噛みしめた。ふつふつと感情が湧き上がってくるのを抑えた結果、無意味な負け惜しみだけがこぼれ出る。
「見かけによらず、ずいぶんと強かじゃないか……!」
「なんのこと?」
かわいらしく首をかしげる琴守に、おれはぐうの音も出ない。
琴守はいたずらを成功させた子供よろしく笑ってみせる。
「もう一度きくね。わたしとお友達になって?」
期待に満ち満ちた上目遣いを前に、おれはゆっくりと覚悟を固める。
一学期は充実していた。たっぷりと時間があって、ほどほどに勉強もやれて、家族の見舞いにも行けて、めんどうな人間関係とは無縁で……。
でも二学期からは琴守楓花が別世界に塗り替える。おおげさかもしれないが、直感がそう告げている。
「琴守、仕方ないからおまえと友達になってやる」
友達が欲しくてたまらない琴守と、友達をつくりたくないおれ。矛と盾がぶつかった結果、崩れたのはおれのほうだった。
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