第一〇話 戻ってきた記憶


「ソフィ、ア……」


 あれからほとんど時間は経っていないのだろう。

 彼女の頬は淫らに紅潮し、漏れ出る吐息には甘さが篭もっている。


 その艶めかしい姿に、しかし、俺は肉欲など微塵も抱かなかった。


 心の内側を占めるのは、強い懐かしさと……当惑。

 俺という存在の一部に、別の何かが入り込んできたような感覚がある。


 ただの村人でしかないはずの俺が、大賢者というような……


 そう、だからか。


「……思い出したよ、ソフィア」


 こちらの意思とは無関係に、気付けば口が勝手に動いていた。


「えっ」


 首を傾げる彼女へ、俺は衝動に駆られるような気分を味わいつつ、次の言葉を送る。


「ずっと、独りぼっちだった俺を……君が、救ってくれたんだよな」


 感謝の想いが沸き上がってきた。

 きっとそれは、この身に宿る大賢者としての俺がもたらしたもの。

 しかし村人としての俺は…………と、奇妙な感覚に苦しむ最中。


「お、思い出したって……ほ、本当、に……?」

「……うん。でも、全てじゃない。子供の頃の記憶を、少しだけ」

「そ、それでもっ! それでも、十分よっ!」


 満面に花が咲いたような笑みを浮かべるソフィア。

 そんな彼女を目にしたことで、さっきまでの苦悩めいた感情が和らいだ。


 自らの状態を完全に受け入れたわけじゃないが、しかし、この子の明るい顔を見ていると、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しく思えてしまう。


 ともすれば大賢者だった頃の俺は、この子に特別な情を抱いていたのかもしれないな。


「ふふんっ! やっぱり、あたしの読みは正しかったのね!」

「読み?」

「そう! 子供の頃にやってたことをすれば、懐かしくなって記憶が戻るのよっ!」


 言うや否や、ソフィアはこちらから身を離し、


「さぁ、次行くわよ、次っ!」


 俺が目を覚まして以降、見せたことのない明るさを振りまくソフィア。


 ……それから。


「ふふん♪ 相っ変わらずひ弱ね~♪」

「取っ組み合いで、君に勝てるわけないだろ……」


 記憶を呼び起こすために、俺達は。


「なに? この、変な踊り」

「村に伝わる伝統のダンスでしょうがっ! ていうかあんた、動きにキレが足りてないわ! そこの振り付けはね、こうやるのよっ!」


 幼少期に体験したという、様々な遊戯に興じてみたのだが。


 肝心の記憶はというと。


「どう? なんか思い出せた?」

「いや、まったく」


 全て空振りに終わった。


「う~ん、何がいけなかったのかしら……」

「脳を刺激するってアプローチ自体は間違ってないと思う。ただ恐らくだけど、さっきまでやってたような遊びじゃ刺激が足りないんじゃないかな」

「刺激。刺激、ねぇ……」


 うんうんと唸っていたが、しかし結局、何も思いつかなかったらしい。


「とりあえず、今日はここまでにしときましょうか」


 それから彼女は部屋の入り口まで移動し、そこで不意に立ち止まると、


「……希望は、あるわよね」


 その呟きは俺に向けたものではなく、己に対する決意表明だったのだろう。

 ギュッと拳を握り締めながら、ソフィアは部屋から出て行った――



 彼女の退室を見届けた後、俺はベッドに転がって瞼を閉じた。


 体感的には、目を覚まして数時間が経過した程度に過ぎない。

 普段なら眠気など微塵も感じないが……過ごした時間の密度があまりにも高すぎたのか、自分でも驚くほどあっさりと意識が遠のいていく。


 気付いた頃には――夢の世界へと誘われていた。


 ――悪夢というのはおよそ支離滅裂なもので、それが意味を持つことはない。


 自らが潜在的に恐れる何かがランダムで再生され、精神に強い負荷を掛けてくる。

 ただそれだけの現象、なのだが。


 今、目前にて展開されている悪夢は、あまりにも強い現実味を感じさせるものだった。


 開けた平野の只中で、人と怪物とが衝突し、互いに命を散らせていく。


 そうした凄惨極まりない戦場の中心に立つ、二人の存在。


 俺とソフィアだ。


 彼女はこちらの前に立ち、ただ一人の敵方を睥睨している。

 奴は隆々とした鋼体を誇示するように立ちながら、悠然と口を開いた。


『我が名はゾルダ。ゾルダ=ゴー=グラフト。貴様等がいうところの、《邪神》だ』

『あんたを、倒せば……!』

『応。この戦場だけでなく、極めて広範囲の《シード・レス》……貴様等が《眷属》と呼ぶ我が手勢は機能を停止する。もっとも、そうなったところでがな』


 憎らしい言葉を放つゾルダへ、俺達は射殺さんばかりの視線を送る。

 されど奴は涼しげな気構えを崩すことなく、


『まぁ、とにもかくにも。現状を覆すにはおれを討つ以外に道はないと思え』


 金属に覆われた顔面が擦過音を鳴らしながら駆動し、笑みの形へと変わる。


『さぁ、どこからでも掛かってこい』


 戦いが始まった。


 俺とソフィア、その顔に宿る情念は普段とまったく同じ。


 彼女の美貌に勇気が漲る一方で……俺は、恐怖を覚えていた。


 いつだってそうだ。

 臆病は生来のものであり、決して変えられはしない。


 それでも、ここに至るまではずっと、立ち向かうことが出来た。

 隣にソフィアが居る。

 その安心感が、戦いに臨む際の支えとなっていた。


 しかし。


『足りんなぁ。まだまだ、お前達は足りていない』


 奴の、暴力は。


『勇者には力が。大賢者には心が。それぞれ、足りていない』


 ソフィアがもたらしてくれる安心感を、軽々と消し飛ばすようなもので。


『おっと。少々力を込めすぎたか。殺すつもりはなかったんだが』


 目の前で彼女を殺されてなお、俺は。

 怒りよりも、恐怖の方が、先に来て。


『亡骸を連れて去るが良い。貴様には何か秘策があるのだろう? 一回りも二回りも強くなって、再びおれの前に立て。期待しているぞ、大賢者』


 この言葉に俺は、屈辱を感じながらも――



 と、ここで。

 沈んでいた意識が、現実へと引き上げられた。


 まどろみの中、俺は軽い眠気を感じつつ、起き上がろうとする。

 だがそのとき。


 ぐにゅんっ♥


 何か、心地の良い弾力が、掌から伝わってきて。


「んっ……♥」


 艶やかな声。


 それは、すぐ隣から生じたもの。


 おそるおそる瞼を開けて、そちらへ目を向けてみると――


「ふふ。目覚めて早々にメスの体を求むるとは。その剛胆さ、実に好ましい♥」


 蠱惑的な微笑を浮かべたエリザが、添い寝する形で、こちらの隣に寝そべっていた。

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