57:すふれの涙

 朝起きたら、異様に頭が重かった。それに、喉の奥がひどく乾燥していて吐きそうな感じがする。

 ベッドの上に仰向けになったまま、気怠い右手を持ち上げて額の上まで持って来る。熱はそれほど高くない。

 枕元でスマホのアラームが鳴り始めた。私はそれを止めることもせず、しばらくの間、ぼんやりと部屋の天井を眺めていた。


 なんとか身体を起こし、身支度を済ませて大学へ向かう。

 家を出る前に熱を計ったら37.6度だった。強い頭痛と吐き気、加えて倦怠感があったので欠席することも考えたが、「単位」の二文字が頭を過り、休むに休めなかった。

 

 当然のことながら、その日の授業の内容はほとんど頭に入らなかった。

 学校内では私以外にもマスクを付けた生徒の姿が多く見受けられる。そういえば、今年はインフルエンザが大流行しているとニュースで見た気がする。

 頭痛と吐き気、倦怠感は強くなるばかりで、もしかしたら私もインフルエンザなのかもしれないと思った。

 病院へ寄って帰ろうかと悩んだが、やっぱり今日は真っ直ぐ家に帰ることにした。

 今日の夜に配信をするとSNSで事前に告知しており、病院の待ち時間などを考慮すると、間に合わない可能性があるからだ。


 ドラッグストアで買った風邪薬を水で流し込み、晩ご飯の冷凍パスタを食べながらパソコンに向かう。配信を開始する前にSNSをチェックしておこうと思ったのだが、文字が霞んでよく見えない。目薬を差すことで視界は正常に戻ったが、こんな状態で配信ができるのか。

 だけど、SNSで告知していた配信開始時刻まではあと30分もない。今更「やっぱり今日の配信やめます」なんて、言えるわけがない。


 その時、スマホが鳴った。画面を確認すると、そこには晴見くんからのメッセージが表示されている。

『今日の配信も楽しみにしてる。気楽に頑張って!』

 そのメッセージを見て、私は一昨日の夜から晴見くんに返信を返し忘れていたことを思い出した。

『返信遅くなってごめんなさい。ありがとう。頑張る!』

 送信ボタンを押した後、私は小さく溜息を吐いた。

 気楽に配信なんて、出来るわけがないじゃない。


 喉は痛みはほとんどなく、声も普段通り出ることが幸いだった。

 私は配信を始める。


「みなさん、こんすふれ~!真白すふれです!」

 その瞬間、コメント欄に流れ始める大量の『こんすふれ~!』という言葉。自分が考えたなのに、どうしてかこの時は『こんすふれ~!』というその言葉が異星の言語のように思われた。

 一瞬、吐き気が強まったが、なんとか堪えて笑顔を作る。


「みなさん、今日は前回の配信で言っていた通り、事前に募集していた質問に答えていこうと思いまーす!」

 配信内で答える質問は既にピックアップしてある。SNSに寄せられた質問の中には答えにくいものや下ネタもあったが、そういった質問を扱う必要はない。


「それでは、早速答えていきますよ~。

『すふれたんが最近ハマっていることは何ですか?』

 えーっとねぇ、すふれは最近、ドーナツにハマってるんですよ!お店を見かけたらついつい買って帰っちゃいますね~」

『ドーナツおいしいよね』

『この時間にしちゃ駄目な話題』

『お腹空いた』


「それでは次の質問いきまーす。

『すふれたん大好きです』わーありがとうございますすふれも大好きでーす!

『すふれたんはご自分で絵を描かれているとの事ですが、絵が上手くなる為のコツはありますか?』

 そうですねー、もうこれは描いて描いて描きまくること!としか言えないんですけれども……!」

『すふれの絵、自分で描いてるのほんとに凄すぎる』

『すふれたんのキャラデザめっちゃ可愛いよね』


 コメント欄を流れる温かいメッセージを見ると、頭痛や吐き気を堪えてでも、今日配信をして良かったと思える。

 この人たちはみんな、今日の配信を楽しみにしてくれていたんだ。それは本当に、奇跡のように有難いことなのだ。


「次の質問いきますよー。

『すふれたん、いつも楽しい動画をありがとうございます』いえいえ、こちらこそですよ~。

『僕は男ですが、すふれたんをイメージした髪色や雰囲気になりたいなと考えています。美容院などでオーダーする際の、伝え方のコツなどはありますか?また、他にもアドバイスがあれば教えていただけると嬉しいです』」

 この質問をSNSで初めて見た時は少し驚いた。

 だけどそれ以上に、雰囲気だけでも近付きたいと思うほど、すふれのことを愛してくれているということが凄く嬉しかった。


「ありがとうございます!いやー、嬉しい限りですよ本当に。

 けど、本当に申し訳ないんですけれども、実はすふれの髪は地毛でしてぇ……美容院でなんてオーダーしたらいいかはわからないんですよねぇ……あ、誰かわかる人いますか?」

『ホワイトブロンドとか?』

『ホワイトベージュ?』

『ホワイトミルクティーとか近いと思います!』


「ホワイトミルクティーってなんか美味しそうですね!あ、すふれ思ったんですけど、すふれの画像を美容師さんに見せちゃえばいいんですよ!それが多分、一番話が早い!」


 笑うと自分の──いや、すふれの甲高い声が頭に響く。

 なんだか寒気がするような、熱いんだか寒いんだかよくわからない感覚が全身を巡っていた。

 だけど、あともう少しで配信を終了できる。なんとかやり切ることが出来てよかった。

 そう思っていたのに──


『駄犬:男ですふれみたいになりたいとかキモすぎて草』

『駄犬:美容院ですふれの画像見せたりしたら、陰で美容師に笑われるわ』


 いつも通り相手にしなければいいとわかっていたはずなのに、そのメッセージを見た瞬間、私の中でなにかが壊れる音がした。


『あれ?フリーズした?』

『どこ行った?』

『すふれたーん』

『ネット切れた?』


 みんなの声が聞こえなくなり、自分のいる場所がわからなくなる。現実とバーチャルの境界が曖昧になり、互いの世界を侵食し合うかのように世界が崩落していく。


「おい」

 これは誰の言葉だろう。

「駄犬って奴。今すぐ出てけ。消えろ」


 コメント欄が凍りついたかのような、騒々しい静寂に包まれる。


「何なんだよお前配信の邪魔ばっかりしやがって。男ですふれみたいになりたくて何が悪いんだよ。キモいのはてめえなんだよ。二度と……」

 二度とコメントしてくんな、と言い終わる前に我に返った。

 私は、私は、私は、私は、私は。

 私は、今まで何を言っていた……?


「に、二度、と……」

 頭が痛い。画面が霞む。吐きそうだ。

 目には涙が滲み、顔を上げると『真白すふれ』も哀しそうな顔をしていた。

「二度とコメントしてこないでくださいっ!みなさん、ごめんなさい!ちょっと我を忘れてブチ切れてしまいました……!本当にごめんなさい!今日はこれでにします。またのご来店、お待ちしておりまーす!」

 それだけ言うと、私は半ば強引に配信を終了した。

 コメント欄には驚きや動揺、困惑など、様々な感情が入り混じったコメントが物凄い速さで流れている。


『すふれたん大丈夫??』

『駄犬ってヤツまじでクソ』

『すふれたんは悪くない!』

『さっきの声マジですふれ?』

『声変わり過ぎじゃね』

『中身男だったりして』

『口悪すぎるだろ』


 私はモニターの電源を落とした。

 終わった。

 なにもかも終わったのだ。


 ベッドの上に倒れ込む。身体が熱い。いっそのこと、このまま死んでしまえたらいいのになんて思う。

 涙が溢れて止まらない。これは私の涙なのか、それともすふれの涙なのか。


 デスクの上でスマホが鳴る。

 もう、スマホを取る為に立ち上がる気力すらない。

 翌日の朝知ったことだが、スマホには晴見くんからメッセージと、その後に着信もあったようだ。


『梓、さっきの配信見た。無理しないでいいから、落ち着いたら電話してほしい。

 心配だから、止められても会いに行く。だから絶対に待ってて。』

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