31:狙いはなんだ
人の感情はちょっとした環境の変化や相手の言動によって移ろい、本人でさえ驚くほどに変化していくものだ。
けれど、相手の気持ちが変わるのをただ待っているだけでは、現状が変わらない可能性だって十分に有り得る。
そういう時には自分自身を省みて、変化を恐れずに先立って一歩踏み出すこと。そうすれば、未来の二人の関係性がより良い方向へ向かっていくはずだ──そんなふうに、私は思いたい。
「お客さま、今日はどんな感じにされますか?」
思い切って行ったことのない美容院を予約してみた。小春ちゃんに話したら、「梓ちゃんは見た目は可愛い女の子だけど中身は男子……いや、もしかしたらオジサンなんじゃないか」と言われて地味にショックを受けたのだけど、これまで私は、家から一番近い美容院──いや、床屋さんと言った方が的確かもしれない──そのお店でしか髪を切ったことがなかった。
初めて訪れる美容院は店構えからしてお洒落で洗練されていて、扉を開けると同時にほんのりと良い香りがする。美容師さんお客さんも、店内にいる人たちはみんなお洒落で、私なんかが来てもいい所なのだろうかと不安になったが、優しい笑顔のお姉さんが温かく出迎えてくれた。
大きな鏡の前には表情筋の硬い黒髪の女と、にこにこ笑顔が眩しいお姉さんが映っている。
「……あまりよくわからないのですが、最近はどんな髪型が人気なのですか?」
「そうですねー、最近だと外ハネとか韓国アイドルっぽい髪型とかも人気ですけど、お客様はサラサラの黒髪が綺麗だから、私個人的には活かした方が良いと思いますよ!」
終始笑顔を絶やさないお姉さんに、床屋でしか髪を切ったことがない私がヘアスタイルを褒められるとは、なんだか可笑しい。
「……それじゃあ、3センチくらい切って、少し量を減らしていただけますか」
結局なんと答えたらいいかわからなくて、これまで通っていた床屋さんでお願いする時と全く同じことを言ってしまった。言った後に、見当違いなことを言ってしまったのではないかと不安になったが、お姉さんは嫌な顔一つせずに眩しい笑顔で頷いてくれた。
「かしこまりましたぁ!それでは、まずはシャンプーからしていきますね!」
初めて行く美容院の仕上がりは、正直言って近所の床屋さんで髪を切ってもらった時とあまり違いがわからない。(お値段は倍以上するけれど)
けれど、髪に触れた時の手触りが段違いに艶やかで、風で髪が舞った時にはトリートメントの良い香りが香ってくる。
美容院を後にして駅までの道を歩きながら、顔を隠せばシャンプーのCMにも出られるのではないかなどと調子の良いことを考えて、なんだか楽しくなっていた。
美容院へ行ったこと以外にも、美容系Youtuberのメイク動画を参考にして普段はほとんど買わない化粧品を買ってみたり、就寝前には軽いストレッチをしてみたり、お風呂ではアロマを焚いてみたりした。(長湯し過ぎだと怒られたので一日で止めた)
そうして朝、洗面所の鏡の前に立つと、これまでよりもほんの少しだけ自分が女の子らしくなったような、女子力が上がったような気がして気分が明るくなる。
「……お姉ちゃん、なに鏡見て笑ってんの?」
葵が気味悪そうに横目で私を見る。姉が自分磨きを頑張っているというのに、全く失礼な弟だ。
「べつに?ほら、早くしないと学校遅れるよ」
「お姉ちゃんがずっと鏡の前いるから~」
私が頑張っているのは外見を良くすることだけではない。それよりもまず、第一に優先すべきことは、真白すふれのような明るくて可愛らしい自分になること。
いきなりは難しいけれど、少しでも話しかけやすくて柔らかい雰囲気になれたらいい。それは晴見くんに好意を持ってもらう為だけではなく、他の人たちの為でもあるのだ。
「なんか氷結、最近ちょっと優しくなった気がしない?」
「わかる!この前スカート丈注意されたけど、言い方とか、いつもより棘が無かったよ」
「えー、たまたま機嫌良かっただけじゃないの?」
「こないだ氷結に髪色注意されたんだけどさ、いつもなら『髪色!早く戻しなさいって言ってるでしょ!!』ってうちのオカンみたいな怒り方する癖に、こないだの時は『もう、髪色はいつになったら戻してくれるのかしら?』って、なんかちょっと潮らしい感じでさ!いろんな意味でドキッとしたわ」
「俺も!この前氷結に注意された時そんな感じだった!何かあったのかねぇ」
「まあでも、ああいう風に言われるなら、ちょっとは言われた通りにしようかなって気になるよな」
これまでは何度注意しても校則違反をやめようとしない生徒たちに頭を抱えて苛立ちを募らせてきたけれど、校則違反を指摘する際に語気を強めないようにして、注意ではなくお願いをするような姿勢を見せるだけで、髪色を黒くしたり、アクセサリーを外して登校してくる生徒が少しずつ増えてきた。
周囲の変化を喜ばしく思う一方で、晴見くんとの関係には何ら進展の兆しは見えない。私の方から彼に声をかけて積極的に動くべきなのかもしれないけれど、晴見くんの過去を知ってしまったら、これ以上距離を詰めようとすることは迷惑なのではないかと不安になって、告白して以降、挨拶一つ交わせないままだ。
ある日の昼休み、ほとんど会話したことのない他クラスの男子生徒に声をかけられた。
「ひ、氷見谷さん!ごめん、ちょっとだけ時間いいかな?」
その男子生徒は校則違反で注意した覚えのない、背の高い真面目そうな人だが、一度も話したことがないので名前さえわからなかった。
「ええ。大丈夫だけど、私に何か用?」
その男子生徒は急に顔を赤らめて視線を逸らした。
「用っていうか……まあ、そうなんだけど……ちょっとここじゃ言いにくいことだから、ついて来てくれないかな」
「ええ……わかったわ」
見知らぬ男子に連れられてやって来たのは、人気の少ない校舎裏だった。今居る所から右上を見上げれば、私のクラスの教室が見える。
それにしても、いくら人気が無い所が良いとはいえ、七月の夏休み前になにもこんな所で話さなくても……と、少しだけ思った。
「あのさ……っ、氷見谷さん。俺、6組の西口っていうんだけど、実は氷見谷さんのこと、ずっと良いなって思ってて……」
その男子──西口くんは耳まで赤くして、少し早口でそう言った。
「……え?」
「氷見谷さんとクラス違うし、なかなか話す機会も無いからキッカケが掴めなくて……それでいきなりこんな所に呼び出しちゃったんだけど……」
西口くんが言っている言葉は理解できるけれど、何を伝えたいのかがわからなかった。私に好意を寄せてくれているということは何となく雰囲気でわかる。
けれど彼の目的は?狙いはなんだ?私とお付き合いをすること?それとも好きだと伝えること?
「氷見谷さん、風紀委員とかもやってて同い年と思えないくらいしっかりしてて、成績も良くて高嶺の花っていうか……」
高嶺の花、か……
そういえば晴見くんにも同じことを言われて、振られた。
西口くんが私への好意を一生懸命伝えてくれている中で失礼な態度であることはわかっているけれど、話があまりにも長いので、私はふと自クラスの教室を見上げた。
窓際にはつい先ほどまでは居なかった、晴見くんの姿があった。
晴見くんは机に頬杖をついて片手でスマホを操作している。イヤホンで音楽でも聴いているのだろうか。聴いているのはVTuberの曲だろうか。それともアニソンだろうか。何にせよ、私に気付く様子は一切ない。
「……だからさ、氷見谷さん、今度一緒にご飯でも行かない?なにかご馳走するよ!」
西口くんは自分が話すことに必死で、私が途中からよそ見をしていたことには気付いていないらしい。
若干申し訳ない気持ちを抱きつつも、私は彼の気持ちには応えられないのだから、ごまかさずに伝えた方が傷付けずに済むだろう。そもそも私は「好き」とも「付き合いたい」とも言われていないのだから、単にご飯に誘われただけなのかもしれないけれど。
「気持ちはすごく有難いのだけれど……ごめんなさい。ご飯には行けないわ」
「えっ!?なんで!?あ、いきなり二人で行くのが嫌なら、友達とか誘ってみんなで行く?」
私は静かに首を横に振った。
「ごめんなさい。私、あまりそういうの得意じゃなくて……」
西口くんには申し訳ないけれど、きっと彼は私じゃなくても大丈夫なのだろう。
結局、晴見くんは一度もこちらを見なかった。
私が晴見くんを見ていることに気付く様子もなかった。
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