不思議の王国
昼星石夢
第1話2024年9月
底冷えのする放課後の教室。女子はスカートと決められているから、仕方なく足を抱くように屈む。文化祭の準備で広げられたわら半紙に、劇の背景となる木々や動物を描く。
「ねえ、終わったらパークに行かない?」
同級生が友人に話す声。
「望月さん、そこはこの色使って。さっきも言ったけど」
望月明凛朱は、紫がかった青の絵の具を筆でしめす生徒に「ごめん」と微笑んだ。親しみを込めたつもりだったが、その生徒は不快そうに顔を歪めて離れていった。
「でも、あそこは変なカルトが造ったテーマパークだし、パーソン邸とかいう教祖の家が近くて危ないから近づくなって、パパが」
「え、行ったことないの? まだそんな人いたんだ」
「うるさいな。行ってもいいけど、着いたら閉まっちゃうんじゃない?」
「馬鹿ね、ナイトショーを見にいくの!」
弾んだ声を聞き流しながら、一心に筆を動かしていると、ガタン、と何かが壁に当たった音がして、教室が静寂に包まれた。
「無視してんじゃねえぞ」
坊主頭の男子生徒が、仲間の数名と三宅千弦に向けてガンを飛ばしていた。千弦の足元には筆洗バケツが転がっている。段ボールで作った看板が、完成してロッカーに立て掛けてあった。坊主頭とその仲間は、ずっと喋って何もしていなかったから、千弦が一人で仕上げたのだろう。看板から目をそらすと、こちらを見つめる千弦の視線とぶつかった。咄嗟に目をそらす。千弦は坊主頭達を一瞥すると、自分のリュックを掴んで出ていった。ほぼ入れ違いで担任が入ってきて、「出来たかーー、坂上?」と坊主頭を呼んだ。少しも手を動かしていない坊主頭は「うーーす」と答えると、目で看板を示した。
「おーー、いい出来じゃないかぁ」
という担任の声で、教室にさざめきが戻った。
「三宅って不気味だよね」
「ねーー、なんか目とかヤバいよね」
さっきパークの話で盛り上がっていた同級生の下卑た笑いが背中に聞こえた。
家に帰って、ありあわせの夕食を作っていると、母の「ただいま」という声がした。カン、と杖を靴箱に掛ける音がして、ゆっくりと台所に入ってくる。
「夕飯、ツナ缶とキャベツ炒めたのでいい?」
「なんでもいいよ。悪いわね、今日、バイトじゃなかった?」
「うん、今日は文化祭の準備があったから」
母は薬局の薬を入れた袋を、テーブルに放り投げて、椅子にどかっと座りこむと、ふうう、と大きな溜息をついた。数年前に倒れてからの後遺症で、疲れやすくもなっていた。千弦の母のように精神的な病で寝込むというようなことはないが、それでも翌日が休みだと、昼過ぎまでぐったりしていることも多い。だから家事は明凛朱の担当だ。行きつけのスーパーでたまに顔を合わせる千弦から教わった、大根のステーキも一緒に作る。できた皿を並べて、「うん、いける」と大根を頬張る母に、どのタイミングで話を切り出そうか迷っているうちに、すっかり平らげてしまった。「先にお風呂もらっていい?」
母が聞くので、頷き、ガタついた扉の向こうの小さな自室に戻る。一人きりになると、途端に疲れがどっと出た。スクールバッグから演劇部の有名な大学のパンフレットを取り出し、机に置く。また、母に相談できずじまいだ。だけど、やっぱり、今の状況で役者になりたいなんて、無理があるし、笑われるにきまってる。でもーー。思考は行ったり来たりして、眩暈がし、そのうち意識も回転しはじめ、ついには暗転した。
ハッとして目覚めると、窓から光が射していた。寝落ちしてしまったらしい。固まった体をなんとか動かし、シャワーを浴びにいく。今日が休日でよかった。時計を見上げると昼少し前だった。さっぱりして浴室からでると、腹が鳴った。七分袖のシャツとデニムのパンツを適当に合わせ、母の分もコンビニで朝食を買ってこよう。
近所のコンビニでささみのサラダと、母には親子丼を買って帰り、マンション入り口の郵便受けをついでに覗くと、ダイレクトメールに混じって封筒が二通入っていた。取り出してみると、一通には消印がない。一通は家宛てではなく、宛名はイザベラ・パーソンとなっていた。
「誰? というか、なんで家に? 間違えたのかな」
独り言を呟きながら、家に戻る。だがよく見ると、その封筒は封が開けられていた。母はまだ起きておらず、自室に籠って、二通の封筒を眺めた。束の間逡巡したあと、好奇心に負けて中身を取り出す。
「拝啓 突然のお手紙誠に恐縮に存じます。メアリー・パーソンと申します。私の父の死亡に際し、本来絶縁状態にある兄であり、貴女の夫、アレクサンダー・パーソンには連絡は不要かと存じますが、相続手続きには相続人の同意が必要なため、下記の通り、同意いただけますよう、ご協力お願いいたします。尚、住所につきましては、貴女のご両親に問い合わせた次第です。ご了承ください」
明凛朱は自分と全く関係なさそうな、なんだか大変そうな、一方的な印象の手紙を脇に置く。消印のないもう一通は、きちんと明凛朱宛になっている。唇を噛んで、いったいどういうことかと首を捻りつつ、洒落た封蝋印を剥がす。中には便箋と、USBメモリ、小さな懐中電灯に点と棒線が書かれた紙片が入っていた。
「初めまして、望月明凛朱さん。突然でごめんなさい。私は麻矢・パーソンといいます。信じられないでしょうけど、あなたの腹違いの姉よ。実は今、私は微妙な立場で。あなたに関係ないことはわかってる。だけど他に託せる人がいないの。これはあなたも知っているテーマパークとカルト、それに私達家族の真実よ」
USBメモリを家に一台あるパソコンに繋げる。再生された映像をぼんやり見つめる明凛朱の目が徐々に見開かれていった。
「紙に書かれているのは、パークのシーエリアのシーワールドで、乗り物についている緑のボタンを点は短く、棒線は長押しすると別のエリアにいけるの。その押し方よ。ALSライトはホーンテッドエリアの鏡の迷路で使えるの。念のため、預けておくわ」
これは悪い冗談だろうか。
辺りは真っ暗で、パーソン邸の明かりだけが頼りだった。三宅千弦は変な手紙をもらってから三度目のパーソン邸への小高い丘を登りながら、パンツのポケットに入っている二つの物を弄んだ。一つは手紙に同封されていたハンコで、もう一つは折りたたみナイフだ。ハンコのほうは手紙に、これは倉庫を開ける鍵で預かっておくだけでいい、と書いてあった気がするが、そんなことはどうでもよく、千弦がその手紙に関心を持ったのは、自分を幼い頃に捨てた父の娘がパーソン邸に預けられている、という箇所だった。その娘は自分の実父が、たまにパーソン邸を訪れる養父の友人であるとは知らず、養父のほうも、友人の子であることをおそらく知らないという、なんともややこしい関係で、これは内密にしてほしい、そして願わくば、異母妹を守ってやってほしいなどと書かれていた。もちろん千弦に守ってやる気などなく、あるのは復讐、それだけだった。父は自分を捨てたうえ、まだどこかの女と関係を持ち、挙句、出来た子を友人に預け、たまに可愛がっているという。そんないい加減なヤツには、思い知らせてやることだ。だがよほどのことでなければ、ヤツは堪えないだろう。例えば大事な者を奪われるような。考えついて、今ここにいる。下見で二階のベランダ越しの娘の部屋は、出掛ける時以外は無施錠と確認している。夜九時のパーソン邸は、一階に明かりがついているおり、微かに音楽が流れていた。千弦は裏手に回り、雨どいを器用に上っていった。屋根で一息つくと、落ちないように気をつけつつ、四足歩行で娘の部屋のベランダに音をたてないよう、降り立った。それからそっと引き戸を引く。娘は奥のベッドで眠っていた。ポケットに手を突っ込み、折り畳みナイフを手に近づく。物は少なく、寒々しい印象の部屋。娘の真横まできたとき、彼女の目が開いた。咄嗟に右手で口を押さえた。だがその拍子に、ナイフを持っていたことを忘れて、落としてしまった。なんとか左手で掴もうとするが、うまくいかない。視線を娘に戻すと、右手の位置が口からずれていた。そして気づいた。娘は全く抵抗していなかった。ただ瞬きをしてこちらを見ている。ようやくナイフを拾いあげたが、娘に切っ先を向ける気にはならなかった。あまりに落ち着き払ったその瞳に、自分が何をするつもりだったか、忘れてしまった。
「どうしたの。殺さないの」
突然娘が喋った。千弦はパニックになって、おろおろと部屋中を見渡した。何か、打開策を探すように。どちらが侵入者かわからないほどの狼狽ぶりだった。と、そこへ、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。ハッと扉のほうを見る。
「どうする? 帰る? 間に合うかしら」
娘は澄ました声で千弦に言うともなく呟くと、千弦の袖を掴み、クローゼットへ引っ張り入れた。
「あら、レイラ。相変わらず早寝ね。そんなに早く眠れるなんて羨ましいわ」
クローゼットを閉じると同時に、艶のある声の女性がゆらりと部屋に入ってきた。
「ねえ、なんだか屋根のほうから音が聞こえなかった? 私、てっきりあなたかと思ったんだけど」
「私じゃないわ。それに、私には聞こえなかったけど」
女性はそろりと、レイラとクローゼットに目を向けてから、
「そう? なら、いいわ。おやすみなさい」
と出ていった。
「もういいわよ」
千弦は服の間から、のっそり出てくると、改めてレイラと呼ばれた娘と向き合った。
「どうして庇った?」
「さあ。でも、やめていく信者も多いもの。いずれはこんなことになりそうな気はしてたの」
レイラは千弦を信者と勘違いしているようだ。千弦はふと、机の上に無造作に置かれた手紙に目をとめた。
「この封蝋……俺に届いたものと一緒だ」
「麻矢姉ちゃんを知ってるの? ひょっとしてこの暗号の意味もわかる?」
「俺にも手紙がきて――。ここの詳しい位置と、鍵を預かったけど。ああ、これはポリュビオス暗号だ」
「なにそれ」
「こうやって、一マス空けて縦横に、1、2、3、4、5と順に書いていくだろ、それから(1・1)がa、(1・2)がbって順番に並べるんだ。この数字を変換すると――」
今どき古風な鉛筆で、ノートの表をもとに封筒の裏にアルファベットを書いていく。
「v、w、r、m、n、o、i、k。なんだこれ。意味がないぞ」
「こっちの表のほうよ。明け方、巨大迷路をこの表の通り進めば、あの場所に着くらしいわ」
「あの場所って?」
「あなたも同じ手紙を受け取ったならわかるでしょ。安楽死する場所よ」
千弦はあのUSBメモリの映像を思い出した。まさか、信じているのか。
「私、行くわ。麻矢お姉ちゃんがいるかもしれないから」
「どういうことだ? ここに住んでいるんじゃないのか?」
「いないのよ。半年前から」
はや、千弦が侵入した場所から出掛けようとする。千弦はその背に、
「三宅京一がどこにいるか知っているか?」
と問いかけた。
「おじさん? 最近見てないわ。まあ、パパも最近見てないから、一緒にいるんじゃないかしら」
「一緒に行ってもいいか。俺の父親なんだ。君の姉と一緒にいるかもしれないし」
「――いいけど、さっきみたいなのはごめんよ。私はレイラ。あなたは?」
「千弦」
思いもよらず、同行することになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます