第10話 東京府丸山福山町新開地

青雲の気概に充ちた彼らのことを思うとさきほどの自嘲的な笑みとはまるで違う、なんとも愛しげな、あたかも血肉を分けた弟たちを思うような、やさしげな笑みが一葉の顔に浮かんでくる。ひょっとして彼らのうちの1人でも来て居はしまいか、重かった歩調がいささかでも軽くなる一葉であった。あとの2種類の男については今は述べずに後述しよう。一葉の本地へと深く介入してくる2種類の男たち、なかんずく1種類ではあるからだ。 

今の4車線もあるような広い通りとは比べものにならない、しかし人力車や荷車が行き交う白山通りを横切って本郷崖下の新開地へと入って行く。銘酒屋が立ち並ぶ、敢て云えばいかがわしい所へと、である。時刻は夕時で各銘酒屋の軒先には早くも女たちが立って、勤め帰りの職人たちや若旦那衆の袖を引いていた。どこかで見たような千陰流の達筆な筆跡で「御料理仕出し云々(しかじか)」と書かれている店の隣がわが家である。首尾を訊くだろう母や妹のことを思うと気が重い。ため息を吐いて二三軒前まで来た時にいきなり騒ぎが持ち上がった。「いやだ、触らないで!」と声を上げながら一人の酌婦(?)が表へと飛び出て来た。それを追ってかなり酩酊した風の男がすがりつく。「いいじゃねえかよ、いい玉のくせしてよ、なんで女給だけなんだよ。俺が買ってやろうって云って…」しかし男の手をはらいのけてその顔を女が叩いた。見ればかねてから一葉が気にしていた、異人のような顔つき身体つきをしていた若い女である。その女の母親が最近亡くなったのも一葉は知っていた。むろんお島だった。

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