烏桓征討 凱旋
「よくやった!」
丘力居は陣の中に最高指揮官がいると踏んで、手勢の最精鋭を率いて突入した。果たしてその予想は当たっており、全軍を統率する曹操が陣の中で指示を出している。
「騎馬はいない。もらった!」
歩兵中心の曹操の部隊を見て、丘力居は舌なめずりして突撃に移る。
「ほう、少しは目端が利くようだな。我の居場所を見抜くとは」
「殿、危険です。お下がりくださいませ」
「なに、そちがおれば鬼神すら退けよう。頼んだぞ我が悪来よ」
「ふふ、そう持ち上げられてはやるしかありませんなあ」
悪来と呼ばれた典韋は、配下の兵を率いて丘力居の騎兵に立ちふさがる。典韋自身は飛刀の名手で、陣幕が燃えて明るくなった中とはいえ、十本を投げてすべて敵兵を射抜いた。
「ぐぬ、小癪な。踏みつぶしてくれる」
剣をかざして突進してくる丘力居の攻撃を盾で受け止め、そのまま馬の手綱をつかんで押しとどめた。
誰も掲げるどころか、一人では持ち上げる事すらできなかった巨大な牙門旗を持ち上げ振って見せたといわれる怪力をいかんなく発揮し、そのまま馬ごと丘力居を引きずり倒す。
落馬して背中を強打し、身動きが取れなくなっている丘力居に向け自らの剣の切っ先を突き付ける。
「悪来典韋が敵将を捕えたぞ!」
総大将たる丘力居が捕らえられたことを知った烏桓の兵は散り散りに逃げ出す。
「追撃だ!」
夏侯淵の騎兵は周囲に分散して伏せており、次々と逃げる敵兵を打ち倒して行く。こうして日が昇るころには丘力居が率いてきた大軍は跡形もなくなったのである。
戦いの痕跡として倒れ伏す兵や傷つき悲しげな嘶きを上げる軍馬がそこかしこに見える。
戦闘が終わればすぐに戦場の処理に入る。死体を放置すれば疫病の原因になりかねない。古代中国では、腐敗した死体を城内に投げ込んで疫病によって城を弱体化させる策があったほどだ。
「うはははははははは!! 素晴らしい、すばらしいぞ!!」
曹操は有頂天になって高笑いを上げていた。それぞれの将は予想を大きく上回る戦果を上げた。損害も予想をはるかに下回り、陣の普請を行った兵の力を改めて認識する。
さて、高笑いする曹操は、縛り上げられて転がされている丘力居よりも、戦利品として鹵獲された軍馬の方に目が行っていた。
「うむ、この馬は殿に献上せねばな」
飛電と名付けられた駿馬は非常にたくましい体つきをしており、一日戦場を疾駆して疲れを見せる様子がなかった。
「くっ、殺せ!」
曹操の前に引き立てられた丘力居は憎々しげな表情を隠さずに告げる。
「なんだ、死にたいのか? ならば今すぐに首を刎ねて進ぜよう」
「うぬ、待て。わしも漢に逆らう気などなかったのだ。張純という男に騙されたのだよ」
「ほう、ならばこの混乱の元凶はその張純とかいうものの仕業か。ならば厳罰に処さねばならぬな」
眦を釣り上げ怒りの表情を見せる曹操の気迫に丘力居は縮み上がる。先ほど殺せと宣言した姿は見る影もなかった。
「貴様はそそのかされただけと言うたな? なれば降ると申すか」
「ひぃ! 降りまする。どうか寛大なるお心をもってお慈悲を賜りますよう……」
「……よかろう」
「ありがたき幸せにございます!」
丘力居は完全に曹操の威にのみこまれ、土下座して額を擦り付けるように頭を下げる。
そこにふらっと荀彧が現れた。文官である彼は戦闘に巻き込まれない場所で物資の管理をしていたが、戦いの決着がついたとみるや馬にまたがって本陣まで走ってきたのだ。
「おう、これは良い時期に来ることができましたな」
荀彧はニカッと笑みを浮かべる。
「おう、文若殿。丘力居殿は我らに降るとのことだ。されば条件面はおぬしに任せてよいか?」
「はっ、取りまとめましょう」
「うむ、頼んだ」
曹操はそう告げると、ごろりと敷物の上に横たわり、いびきをかき始めた。
その姿に丘力居は唖然とした顔をしている。
「ふむ、孟徳殿はまたいつもの悪癖が出たか。まったく……仕事が一区切りつくまで休もうとしないのは良くないですぞ」
荀彧はぼやきつつ近くにいた兵に命じて曹操を寝台に移させた。
「さて、では貢納のことからお話ししましょうか」
にっこりを笑みを浮かべる荀彧の眼を見て丘力居は再び震え上がった。年若いのにすでに深淵を覗き見たような深いまなざし。恐れていると悟られては交渉にならぬ。そう自らに言い聞かせるが、本能的な恐怖にからめとられて身動きが取れない。
「なに、無茶を言うつもりはありませんよ。代価も支払いますし。共存共栄と行こうではありませんか」
このとき彼は思いだした言葉があった。笑みとは猛獣が威嚇のために顔をゆがめる時の名残だと。
数刻の後、げっそりと老け込んだように見える丘力居はそれでも乗馬を返され、一緒に捕らえられた供回りの兵と共に戻ることができた。
この戦いで失った兵馬は三千近い。また捕らえられた軍馬の数もそれに近い。彼は配下の一万騎の過半を失うこととなった。
ここ数年続いた天候の不良で食料が不足しているため、北平で略奪を働こうとしたことが侵攻のきっかけではある。敗れはしたが、食料の支援を取り付けられたので、ある意味で目的は達せられたといっていい。
貢納の品としてはやはり馬を強く求められた。北方の軍馬は足が速く、力が強い。また、馬上で引く短弓の職人も数名薊に常駐させることになった。
多くの戦果を得て、曹操は鄴に帰還すると、劉備を先頭に大歓迎を受けた。
「よくやってくれた。貴公の働きによって北辺の憂いは取り除かれた」
「はっ、我が君の威光と恩徳によるものにございます」
戦果の報告と共に戦利品も献上されたがその中でも目を引く名馬があった。
「ほう、これは素晴らしい駿馬ではないか」
「はっ、王にふさわしき乗騎と存じまする」
「ふむ、なればこれは貴公に授与せん。王が馬に乗って駆けるのはふた通りのときだ。突撃の先頭に立つか、それとも敗軍の中逃げる時だ」
「ふむ、どちらも王たる者にはふさわしくありませんな」
「であろう。さればこれは貴公の乗馬とするがよい。戦場を疾駆して命をいきわたらせ、万一の時には貴公の命を救うこととなろう。余が先陣に立つことも戦場で逃げまどうことも貴公が居ればそのようなことにはなるまい?」
「はっ、ありがたく頂戴仕る!」
劉備と曹操のやり取りを聞いた将兵は君臣のつながりに感銘を受けたという。
「だあああああああああああああああ、俺はもう寝る、寝るからな! 起こすんじゃねえぞ!」
「ふむ、しかし報告すべきことは……」
「お前が替わりに聞いておけ! 孫でヤベエのだけ俺に通せ! いいな!」
曹操が出征している間のひと月余り、荀攸と陳羣による報告責めに疲れ果てた劉備は久々に寝台で眠るのだった。
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