乾坤一擲 英傑伝 龍は雲を得て翼を広げ国を興す

響恭也

劉備の悔恨

「陛下! 我が君、しっかりなさってください!」

 普段の冷静さからはかけ離れた悲痛な顔で、水魚ともうたわれた我が家臣が声を荒げる。

 ああ、普段の取り澄ました顔からは想像もできないような表情を見ることができただけで、弟たちが居る泉下への土産話ができたと言うものだ。

 ただ、残っている悔いは……漢朝の復興を成せなかったことと、弟たちと同じ日に死ぬことができなかったことか。


「孔明よ、後事は汝に託す。禅がその器にあらずと思ったなら君が取り給え」

 我の絞り出すような声に、諸葛亮は目を見開いてその双眸から涙をこぼした。

「陛下、公嗣殿下は我が下で立派な君主に育て上げまする。臣がその座を奪うなどあり得ませぬ」

「そうか、ならばよい。ああ、悔やまれる。朕はなぜ汝が提言を幾度も退けたか。後世の名など今を生きるに何ら意味をなさぬ。そんなことすらわかっておらなんだ」

「陛下の生きざまはそれでよいのです。私を滅し、大義に生きるお姿に臣は感銘したのです」

「ああ、そうか。ならば朕のしたことにも意味はあったということであるな。されど雲長に益徳を死なせても漢の復興は成らなんだ。もしあの時、荊州を取り孟徳に立ち向かっておれば、何かが変わっておったかの」

「今となっては由無きことにございます。陛下、臣がその志を継ぎ、漢朝の復興を命に換えても成し遂げます故」

「そうか……そう言うてくれるなら安心して眠れるな。おお、雲長、益徳よ……」


 閉じた瞼の裏に浮かんだのは生涯を共にした義弟たちの姿だった。雲長の誇り高すぎて傲慢になるところと、益徳の元は下民であったという劣等感から来る横暴さをあらためれば、かような非業の死は遂げなかったかもしれない。

 無論乱世に生きた身である。流れ矢一つで将が討ち死にするところはいくらでも見てきた。

 むしろ戦場ではなくこのような寝台の上で死を迎えられるのは非常な幸運であり、後事を託すに足る臣下がいることはこの上もなく幸運なことであろう。

 かの曹孟徳すら志半ばにして病に倒れ、逝った。ならばそれよりも才の及ばぬ我が志を遂げられぬことに嘆くのは筋違いであろうか。


 そうつらつらと考えるうちに思考はどんどん闇に閉ざされていく。最後にその脳裏に浮かんだのは……若き日から相争った曹孟徳の顔だった。










 意識が浮上する。なにか夢を見ていたらしい。


「防げ! 賊どもを玄徳殿に近づけるでない!」

 田豫が声を荒げて周囲の兵を督励している。なにやら記憶が混濁している。目を閉じたまま今の自分の状況を思い出す。そう、叔父上が幽州刺史劉焉殿の要請を受けて賊討伐の兵を挙げたのに付き従って従軍していた。

 しかし、賊の奇襲を受け叔父上は討ち死に、従兄弟たちもみな死んでしまった。仇討のために兵を進めていたが倍する敵に囲まれて今死にかけている。

 ん? 死にかけてるって?


 そう気づくと目を見開き身体を起こした。ズキンと後頭部が痛む。どうやら頭を打って昏倒していたらしい。


「田の字、状況は?」

「玄徳殿! 目覚められましたか!」

「おう……ってこりゃまずいな」


 周囲で味方の兵は懸命に戦っているが、四方を包囲されぎゅっと押しつぶされてまん丸になっている。これではどこかを突き崩して逃げることもできない。


「玄徳の兄い! 無事かい!」

「おう、憲和(簡雍)」

「前の方はもう持たねえぜ。尻まくる準備しねえと」

 喚声が徐々にこちらに近づいてくるのを感じる。味方の兵の悲鳴が多いようにも聞こえ、士気は崩壊寸前だ。


「仕方ねえな。田の字、憲和、続け」

 ぽつりと告げると剣を抜き放った。もともと勉学より剣を振るうのが好きだった。今でも儒者よりは武人の方が合っていると思う。


「らあああああああああああああああああああああああ!!!」


 自分でもよくわからない声をあげつつ目についた敵兵に斬りかかる。不意を突かれた兵は自分がなぜ死んだかもわからないまま果てた。

 後ろでは田豫が同じく剣を振るって敵兵を斬り倒し、簡雍はやたらめったらに手槍を振り回している。自分の直属の兵が続き、敵の前衛に斬り込んで行く。


「玄徳殿の前で恥ずかしいいくさを見せるでないぞ! 者ども、奮え!」

 田豫のあげた鬨に周囲の兵が奮い立つ。崩壊しかけていた士気は何とか持ち直しそうだ。それでも敵は次つぎと新手を繰り出してくる。斬っても斬っても次が沸いてでる。

 そうするうちに一人、また一人と兵が倒れて行った。


「いけねえ、息が切れてきやがった。田の字、逃げられそうかい?」

「いやあ、これは無理かもしれませんな」

 周囲には賊兵がこちらを遠巻きにしている。逃がすものかと半円状に兵を配っていた。


「しゃあねえ、兄いと一緒ならなあ」

「憲和、諦めるにゃまだ早かろうぜ」


 周囲にいたはずの味方の兵は散り散りになり、周囲には頭役である田豫と簡雍ほか、数名の兵しかいない。簡雍のこぼした諦めの言葉は特に違和感はないほどの絶体絶命の状況でもなぜか自分は死なないと思っていることに驚いた。


「てこずらせよって、者ども、一斉にかかれ、槍衾じゃ!」

 賊の頭役が周囲の兵に命令を飛ばしている。剣と剣ならまだ何とかなるが一斉に槍先をそろえられるとどうしようもできない。


「玄徳殿、無念にござる」

「田の字。ありゃあなんだろうな」

 歯噛みする田豫の言葉を尻目に、敵陣の背後に土煙が上がっていたのが見えた。少なからぬ兵が槍先をそろえ賊軍の背後から突撃を仕掛けている。


「味方か!?」

「わかんねえ。それでも賊の敵ってこたあ間違いねえな」


 背後にあがった喊声に目の前の兵が動揺する。

「よっしゃあ! 続け!」


 毀れてボロボロになった剣を振るい、槍兵の隙間にもぐりこんで剣を振るった。背後から攻撃を受けてこちらに向いていた兵たちも浮足立ち、我先にと逃げ始める。

 敵の後背を突いた軍の先頭を駆けるのは、赤ら顔の髭男。刀というよりも鉄板に柄を付けたような長物を縦横に振るっている。

 その横で矛を振るう男もまた人並外れた武勇だった。矛で貫いた敵兵ごと振り回してなぎ倒している。


「なんじゃあ、ありゃあ……」

 簡雍がぽかんとした声を上げるが全くの同感だった。

「いにしえの項羽のようにございますな」

 

 崩れ立つ敵兵を前に田豫も一息つくことができたようだ。

 槍兵が崩れたとみるや逃げを打った賊の将であったが、髭男の振るう大刀に斬られるというよりは捻りつぶされていた。あの勢いなら痛みを感じる暇もなかっただろう。


「そこのお二方、助けてもらった恩人の名を聞かぬは一生の恥にございます。どうかその尊名をお聞かせ願いてえ!」


 戦闘がひと段落着いて、兵をまとめている頭役の二人に声をかける。逃げ散っていたこっちの兵もなんとか集まってきていたので、何とか格好は付いたと思いたい。


「姓は関、名は羽。字は雲長と申す。河東の生まれにござる」

「俺の名は張飛、字は益徳じゃ」


 返り血を浴び全身を朱に染めつつも二人の礼は立派だった。

 これが俺が生涯を共にする友との出会いだった。

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