大雨の日に

鐘乃亡者

大雨の日に

 タクシー運転手の朝は速い。30分前には必ず会社に到着して、車の点検をしなければならないからだ。お客様を乗せるんだから手抜きは絶対に許されない。

 

 その日も寝ぼけ眼を擦りながら出勤したのを覚えている。後から起きる事件のことなんて露知らず、今日はどれだけ乗せられるかを考えていた。


 確かサラリーマンのおっさんを乗せた後だったかな。もう外はすっかり暗くなってて、ライトを付けなきゃならない時間帯。帰宅ラッシュも過ぎてたから、走る車も少なかった。

 今日はもう終わりかなって思った時だった。


 土砂降りの中、道路沿いで手を挙げる女を見つけたんだ。傘もささず、街灯の下に一人ポツンと立っていて、ほとんど動かない。着ているのは真っ赤なワンピースで異様に目立つ。俯いている顔は長い黒髪に隠れてよく見えなかった。


「マジか」


 俺は思わず呟いた。

 当時はあまり信じていなかったが、どうもこの業界では偶に死人を乗せてしまう事があるらしく、定期的に怪談話が同僚間で共有されていた。話に出てくるのは大体が一人の女で、明らかにおかしな雰囲気を身に纏っていることが多い。

 視線の先にいるのは、間違いなくソレの類。でも普通の人間だったら無視するわけにはいかない。我が社が大事にするお客様だ。


 俺は深呼吸をしてから彼女に車を近づけた。自動ドアを開けると、戸惑うことなくスーッと入ってくる。


「どちらまでですか?」


 緊張が表に出ないよう注意しながら聞く。

 ちょっとしてから、冷たい声で答えが返ってきた。


「N町の森林公園まで」


 そこで俺は確信した。コイツは生者ではないと。

 N町の森林公園は、昼間でも子供が寄り付かないほど廃れた遊び場である。深い森に囲まれているせいでアクセスも最悪、街灯も無くて夜は真っ暗な筈だ。

 そんな所に一人の大人が行って、何をしようというのだろうか? しかもそこは曰く付きの場所としても有名だった。心霊好きの人間が寄り付かないほどの。

 

「わかりました」


 俺は唾を飲み込んで、車を発進させた。

 ここからはそう遠くない筈の場所だが、一分一分がいつもより長く感じる。


「今日は天気が荒れましたね。災難だったでしょう」


 緊張を紛らわす為と、微かな希望に賭けて聞いてみる。しかし全くの無反応。俯いたままで、車の揺れに合わせて微かにゆらゆらとするだけ。全身が濡れていて生気さえも感じられない。

 ハンドルを握っているうちに、俺の唇は乾いていった。


「そろそろ着きますよ」


 永遠と思える時間が過ぎ、ようやく森林公園が見えてくる。案の定、車のライトが無ければ何も見えない状態。明かりの先には鬱蒼とした森が続いている。

 奥にまで進むことはできないので、『森林公園はここから』と書いてある錆びた看板の前で停車した。恐る恐るルームミラーを見ると、後部座席には女がまだ居た。


「1600円になります」


 幽霊に運賃を請求するのもおかしな話だが、俺は一応聞いてみた。多分払えないだろうな、なんて思いながら。

 すると女は財布を取り出して、コイントレーに置いた。


「これでお願いします」


 か細い声でそう言うと、女は自分でドアを開けてしまい、森林に吸い込まれるように行ってしまった。すぐに暗闇に包まれて彼女の姿は見えなくなる。


 財布を覗いてみると、そこには野口英世が二人いた。小銭は1円玉や5円玉ばかり。カードの類はない。


「……金払える幽霊もいるんだなあ」


 しばらく俺は呆気に取られていたが、会社から掛かってきた電話で現実に引き戻された。出てみると『時間を過ぎているが何処にいるんだ』という内容だった。

 俺は詫びを入れて、電話を切った。そして車を発進させようとシフトレバーに手を掛ける。

 その時だった。


 ――――コンコン


 運転席の窓を叩く音が聞こえたんだ。若干恐怖体験でナーバスになっていたもんだから、俺は叫びながら目を向けた。


 そこには一人の中年男性が立っていた。反射ベストを着ていて、頭には青いキャップ。しわが刻まれた顔は火照っていて、人差し指で窓を叩いていた。何か喋っているらしいが、雨音にかき消されてよく聞こえない。ジェスチャーを見る限り、早く開けろと言っている。

 俺は慌てて窓を開けた。


「どうかしましたか!?」


「どうかしたって、オメェここで女降ろしただろ!」


「は、はい? 降ろしましたけど……」


「なんで引き留めなかったんだよ!」


「え、いやそれは……」


「オメェも知ってんだろ! ここが自殺の名所だってのはよ!」


 唾を飛ばす男の前で、俺は絶句した。

 どうして忘れていたのか。森林公園はこの世に未練を残した霊が漂っている曰く付きの場所。中央には大きな調整池があって、そこでは度々溺死体が発見されるということを。

 それまでの体験から、俺は女を幽霊だと信じて疑っていなかった。数日前に聞いた怪談話がかなり似ていたから、というのもあるかもしれない。

 第一、本当に生気が感じられなかったのは事実だ。何というか、人間の形はしてるけど何だか朧げだった。まるで生と死の狭間にいるかのような。


「てっきり幽霊かと……」


「馬鹿か兄ちゃん! 幽霊が運賃払える訳ねえだろ! 今から止めに行くぞ!」


 男の勢いに気圧されて、俺は即車から出た。そして「懐中電灯あるか」と言われ、トランクの中に緊急用として置いてあった懐中電灯を取り出す。古臭くて心許ないが、無いよりはマシ。

 そのまま警察に連絡しようと、スマホを耳に当てる。でも男は俺をものすごい剣幕で捲し立てた。


「連絡してる時間なんてねえよ! 早くしろ!」


「しかし……」


「だったら走りながら電話しろ! 水の中に入っちまったら見つけられねえぞ!」


 そう言うと、男は森林の中に入る。男の背中を見失わないように俺も急いで着いて行った。

 森林公園へ向かう遊歩道は木造で、木々の間を縫うように作られてる。所々苔に覆われていて腐食もしていた。おまけに雨が降ってたから、転ばないように注意しながら進んだ。

 警察にどう話したか、詳しくは忘れた。シンプルに「自殺しそうな女性がいるから早く森林公園に来てくれ」と伝えたんだっけ。


 暫くすると公園に出た。照らされた一部分しか見てないが、遊具が寂しそうにぽつぽつと立っていた。

 ただ俺達の目的はそこじゃない。公園に隣接している調整池だ。行ってみると、だだっ広い暗黒の空間が広がっていた。月明かりもないので反射するのは俺の懐中電灯だけ。人影は見当たらない。


「おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉい! まだ生きてるなら返事しろおぉぉぉぉぉ!」


「おおぉぉぉぉい! お客様あぁぁぁぁ!」


 二人で大声を挙げながら調整池を回る。

 丁度半周に近づいた頃だった。


「――――見つけたぞ! まだ間に合う!」


 男が水面を指差す。懐中電灯を当ててみると、そこには先ほどの女性らしき姿。ゆっくりと中心に向かって歩いており、首から下はもう沈んでいる。


 俺達は大急ぎで調整池に飛び込み、女の体を掴んだ。


「離してぇぇぇぇぇ! もう生きたくないのおぉぉぉぉ!」


 俺達に引き揚げられる最中、女は暴れ回り、長い髪を振り乱しながらひたすら死への渇望を叫んだ。車内とは打って変わって感情がこもった声。顔を見てみると、化粧は濃いものの俺より若いのは明らかだった。


「まだ若いのに、早まるなんて馬鹿かぁ!?」


 完全に引き揚げて座らせるまで、何度も男の怒号が飛んだ。

 俺のスーツを合羽代わりに着せて暫くすると、女は顔を埋めて泣き始めた。「愛してたのに」「尽くしたのに」「裏切り者」、隙間から聞こえる言葉で何となく理由は察した。

 警察が来る直前、男が彼女の肩に手を置いて「生きてりゃ何とかなるんだよ」と首を振っていたのが印象的だった。


 警察が来た後、俺達は警察署に連れて行かれて事情聴取を受けた。やけに詳しく聞かれたが、女は数日前から行方不明届を出されていたらしく、それが余計ややこしくなった原因らしい。「会社には連絡しておくよ」「君を犯人扱いしたい訳じゃない」と言われても初めての事だったからめちゃくちゃ緊張した。

 結局解放されたのは明朝。疲弊しきった俺が警察署から出ると、入口では男が待っていた。片手を挙げながら「よう」と言ってくる。


「長かったな。疲れたか?」


「えぇ、まあ……かなり……」


 男とは少しだけ立ち話をして、別れたような気がする。


 自宅に戻った俺は玄関で気絶してしまった。起きた後は妻に朝帰りを疑われて、最終的に誤解は解けたがめちゃくちゃ怒られた。おまけに濡れたまま寝たせいで風邪を引いてしまい、会社は数日休んだ。


 仕事に復帰してから一週間後、警察署から連絡が来た。どうやら若者の自殺を阻止したということで感謝状を贈呈したいらしい。

 俺は乗り気ではなかったが、会社と妻に背中を押されたので行くことにした。


 贈呈の日、俺は再び警察署に行った。

 署長室に通されるとそこには警察のお偉いさんが数人、地元の小さなメディアがカメラを携えて待っていた。気恥ずかしくなった俺は挨拶も程々に、逃げるようにして席に座る。

 だが部屋を見回しているうちに、俺は違和感を感じた。皆贈呈式を始めようかと動き始めているのに、まだ来ていないのである。あの男が。

 気になった俺は近くのお偉いさんに聞いた。


「今日、もう一人の方は欠席なんですか?」


「ん? もう一人? 誰のことだい?」


「俺と一緒にいた男性ですよ」


「話がよくわからないな。現場にいたのは君と女の子だけだったと聞いてるんだがね」


「え……」

 

 贈呈式自体は滞りなく進み、最後は新聞に掲載する用の写真撮影も行われた。しかし最後まであの男は現れることはなく、誰も違和感を感じてはいなかった。


 それから、時間が空いた時にちょっとずつ調べた。お陰でわかったことが幾つかある。


 どうやら警察の中で男を見たのは誰もいないらしい。警官曰く、パトカーに乗ったのも俺一人だし、取調室に入ったのも俺一人。男の特徴を詳しく言っても首を傾げられるばかりだった。


 助けた女も確実に認識していない。これは彼女から届いた手紙からわかった。愚かな行為への反省と俺への感謝は溢れんばかりに綴られているのに、男に関しての記述は一切なかったのだ。


 あの森林公園の調整池は多数の自殺者を出している。しかし森の外側でも一件、死亡事故が発生していた。

 平成初期、自殺防止の為の見回りを行なっていた男性が一人、車に撥ねられている。運転していたのは救いようがない不良達。しばらく息はあったようだが結果的に死んでしまった。その日は助けを求める声がかき消されるほどの土砂降りだったらしい。


 思えばおかしな点があった。

 どうして説明してもいないのに女が運賃を払ったことを知っていたのか。

 どうして真っ暗闇の中、懐中電灯よりも先に女を見つけられたのか。

 どうしていち早く勘付いたのに、自分で警察に電話しなかったのか。  


 手紙は男と遭遇した場所にお供えした。

 あれは俺が持っておくべきではなく、死しても尚働き続ける彼が持っておくべきだと感じたからだ。


 あの日以来、暇な時は森林公園を訪れるようにしている。

 一人で見回るよりは効率良いよな、なんて思いながら。

 

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