もしも来世があるのなら
ありさと
第1話
「次郎さん、……次郎さん。」
自分を呼ぶ声が随分と遠い。目を開けるのもひどく億劫だ。
ぼんやりとした視界の先にいくつか気配はあるものの、はっきりと分かるのはたった一人だけだった。
(もう直ぐか。)
あれ程苦しかった呼吸も今はもう辛くはない。痛みを殆ど感じなくなった事にホッとしつつも、どうしようもない恐怖を感じる。
……自分はもう死ぬ。
長生きだったと思う。
大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生き抜いた。
あまり余裕のない農家の八人兄弟の下から二番目として生まれた。
戦争中は自分に目掛けて飛んでくる銃弾の嵐を死体の山に潜って何とかやり過ごし、あまりの空腹に人に言えないモノも口にして飢えを凌いだ。
終戦を迎え、百八十度変わった価値観にひどく戸惑った。
理不尽な理由で殴られる事はなくなり、暫くはそれまでの習慣で少しの物音でも飛び起きる事があったが、次第に安全な日常というものが当たり前になり、朝まで熟睡する事が出来る様になった。
羽根を伸ばして自由を謳歌し、悪友とふざけてバイク事故を起こしたら、病室のベッドで親に泣きながらこっぴどく怒られた。
集団で上京して就職し、上司紹介の見合いで結婚した。
六畳一間。風呂なし、共同便所で始まった新婚生活。
妻との間には二人の子供に恵まれ、家族を養う為にそれこそ鬼の様に働いた。
連日の深夜ざまに休日出勤は当たり前。子育ては全て妻任せで、子供達の参観日はおろか運動会にも、入学式や卒業式にさえ行かなかった。
ワーカホリック、サービス残業、ブラック……今の時代ならさぞかし問題になる事だろうが、当時はそれが当たり前だった。
寧ろ理不尽に殺される事のなく、働けば働くほど自分達の生活が裕福になる事が堪らなく嬉しかった。
何より、安心して眠れる事が幸せだった。
気付けば娘達は恋愛結婚で家から出ていき、仕事では専務に昇進。
そして定年退職。
夫婦二人きりの生活が始まったが、何をしたらいいのか分からず戸惑った。
一日中何もせずに家にいて煙たがられる。今更家事を手伝う事も出来なかった。
本当はこんな自分に長年連れ添ってくれた妻に「いつもありがとう。感謝している。」と、優しい言葉を掛けてやりたいといつも思っていたが、孫に「じいじ」と呼ばれたいと思っている事と同様、全てが恥ずかし過ぎて口にする事がどうしても出来なかった。
良く言えば古き良き日本男児。悪く言えば昭和の遺物。
今なら思う。
ああ、俺の人生は何だったろうと。
俺は妻の為、子供達の為にとがむしゃらに働いたはずなのに、実際に俺が養ったのは『会社』であり『社会』だったのだ。
(俺が死んだら泣いてくれるだろうか。)
誰かが言っていた。その人の価値は葬式で分かるのだと。
俺の葬式で誰が本気で俺の為に泣いてくれるだろうか。
妻?娘達?それとも孫達?いや、後輩??
ああすれば良かった。こうすべきだった。
今際の際で後悔ばかりが浮かんでは消える。
しかしそれは叶う事のない願望。
全くの無意味。もう手遅れだ。
もしも来世というものがあるのなら、どうか次は家族を大切に出来る人になりたい。
性別は男でも女でもどちらでも良い。
容姿は出来れば良い方がいい。貧乏よりかは金持ちがいい。
…というか、別に何でも良い。
いっそ人間でなくともいい。
とにかく、もしも次回があるのなら…。
(次は一番を絶対に間違えない!)
小高次郎。享年九十六歳。
盛大な葬式に多くの参列者。
しかし故人を心から悼んで涙を流した者は……二名ばかり。
それが誰なのか…。
故人には知るすべもなく。
彼の遺体から上がる煙は、高くなった秋空に細く長く登った。
もしも来世があるのなら ありさと @pu_tyarou
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