Act.6 ~変化の始まり~


 季節は移り変わり、木枯らしが鳴く。遥と護の条件付きの交際が始まって数か月が経った。あの日以来、幾度と訪れた雨の降る水曜日。遥は自らの気持ちに決着をつける為、護は遥に生じた違和感の答えを出す為。お互いが目的を達成する為に交流を深めた。

 二人が会う場所は人混みを避け、オーベルジュやグランドメゾン級のレストランや遊園地、海浜公園など。雨の日の遊園地や海浜公園はかなり幻想的だった。普段では到底、見る事の出来ない風景だからだ。

 子どもの様に無邪気な表情を見せたかとと思えば、年相応の大人の表情も見せる遥。それらが頭から離れない護。普段、社内で見る事の無い姿だからなのだろうか。何故か、酷く、愛おしいと感じていた。

 何がそこまで護を掻き立たせるのだろうか。未だ答えは見つからない。会う度に違う表情を見せる遥。一体、どれが本物なのか。それとも、これら全てが遥という人間なのか。護は行方不明の様な感情に囚われたまま。

 同時に今すぐにでも触れたいと、抱きしめたいと思う護の感情とは裏腹に体の関係を持っていない。不倫というのだから、体の関係があっても可笑しくない話だ。しかし遥がそれを拒んでいる。その理由は明確。護に会うだけでも『このまま時間が止まればいいのに』と思いが溢れそうになる。それを内に留めて置くのに精一杯。その様な状況で体の関係まで付随してしまえば、終わりが訪れた時に決断が出来なくなるのを恐れているからだ。


*◇*◇*◇*


 霜月。師走が近づくにつれ業務は忙しさを増していく。オフィスビルのワンフロアだけ明かりが灯っている。片付けても片付かないとは正にこの事なのだろう。遥は優弥と残業をしている。時刻は二十一時を過ぎていた。愛梨は用事があると言って区切りをつけ、二十時頃に退社した。


「雨宮も区切りが着いたら帰れよ。きりがない」

「分かってはいるのですが、どうしてもこの案件は今日中に片付けて、明日の朝一で提出したくて」


 優弥の忠告を無下にしているわけではない。仕事に区切りが付けられないのだ。懸命に業務を熟す遥に優弥は昨年の愛梨を重ねる。似ても似つかない二人だが、同じ様に見えたからだ。『疲れているな』と小さくため息を零した。すると「終わり!!」と勢いよく発声をし、腕を天井に向けで振り上げた遥。一瞬の出来事。遥の腕が優弥の頬を直撃した。


「あ、足立課長!すみません!!」

「あーいや、いい…」


 反動で頬を抑える優弥。見事なクリーンヒットだった。遥はすぐに冷やすものを探す。『無いよりはマシだよね』と自前のハンカチを鞄から出し、水で濡らしに行くと戻るなり、そのハンカチを優弥の頬にあてた。『痛そう』と思いながら「足立係長、大丈夫ですか?」と問いかける。すると優弥が遥に視線を向ける。当然、遥は意識などしておらず、気づいていない。ただ優弥の頬を冷やす事だけを考えている様が見て取れる。その視線に気づいた遥に「落合護。奴が好きなのか?」と尋ねる優弥。「どうしてそう思うんですか…」と生唾を飲み込み、応対した。


「あいつが本社に姿を見せる度、見ていただろう。気づかれてないとでも思ったか。…それに雨が降っていた水曜日だったか、落合と一緒に店に入るのを見た」

「…でもそれを見たのは課長だけですよね」

「ああ確かに。不思議と高槻も気づいていない」

「なら、「報われない恋はしないほうがいい」」

「もう…。してしまっている場合は、どうしますか」


 優弥が突然、訪ねた質問に理解処理が追いつかず、平然を繕うも焦る遥。優弥は呆れながら確信のある証拠を突き付けた。同じ様に遥も賭けに出た。これ以上、他者に知られるわけにはいかない。まだ護の事を忘れるには時間が足りない。黙っていて貰おう。そう発言しようした言葉は優弥に遮られた。

優弥の言葉に悲しそうな表情を見せる遥にため息をつく。優弥は護の桜子の幸せを願っている。それは今も変わらない。遥と護がどういう経緯で不倫をしているかは知る由もない。だが、どうにか阻む事は出来ないものかと考え、思いついた答えは告白だった。当然、遥は驚く。だが表情に出すわけにはいかない。遥は「俺が忘れさせてやる的な奴ですか?」と優弥の提案を受け入れた。優弥は不安を残しつつも『これで桜子に再び幸せが戻るのなら、構わない』と腹を括った。こうして二人は恋人となり、交際を始めた。

 数日後、遥は優弥と揃いのペンダントを身に着けていた。こうして三人の歪な関係は幕を上げた。


「遥先輩。もしかしてなんですけど、足立課長と何かありました?」

「何かって?」

「…例えば付き合い始めたとか」

「どうしてそう思うの?」

「そのペンダント、課長と同じメーカ物ですよね。遥先輩って意外と悪趣味だったんですね」

「愛梨の観察眼はすごいね。でも悪趣味、かな」

「誉め言葉なら、素直に受け取ります。勿論、上司なので会社では話しますがプライベートで顔を見るのはお断りですね」

「俺もプライベートで高槻と会うのはごめんだな」


 ため息をつく愛梨。愛梨の言葉とは裏腹に真剣な表情で悩む遥。愛梨の中で優弥は仕事面での信頼はあるものの、私生活においては関りを持ちたくない人物の様だ。愛梨の発言を聞いていた優弥は本音を発した。仕事と遊びを完全に切り離しているからこそ保てる関係性だと遥は再認識した。


*◇*◇*◇*


 一ヶ月後。業務中のオフィスの廊下から女性社員の黄色い声が聞こえた。声色や発言内容で護が本社を訪れたとすぐに分かる。変わらない光景に『相変わらず、人気者だな』と呆れるも、その様子を伺う遥。それは優弥も同じ事。恋人関係になったにも関わらず遥が護を気にしている事。交際するだけでは忘れさせる事は叶わないのかと気分を害した。同時に今日は水曜日。生憎と天気は快晴。遥と護はお互いに残念と思い、ため息を吐いた。

 終業後。遥は片付けたい書類がある為、残業をしていた。「今日は晴れているから、落合にも会えないか」と優弥が投げた言葉に「…。例え落合さんと関係を持っていなくても、悪天候の日は気が滅入るので残業しないだけです。そんな事より、課長は嬉しくないのですか、彼女と一緒ですよ?」とため息を交えて回答した。特に最近は悪天候が続かない為、護と対等な立ち位置で会話する事が出来ていない。苛立ちからか、それとも仕返しなのか。遥は優弥に嫌味を放ってしまった。後悔するも「仕事と遊びは割り切っているだけだ。よっぽどの事が無い限り私情は挟まない。それより雨宮、二十四日と二十五日は予定を入れるなよ」と優弥は話題を変えた。


「…二十四日と二十五日?いきなりどうしたのですか?」

「恋人なんだ、別に可笑しな話じゃないだろう」

「まぁ、確かにそうですが…。仕事に私情は挟まないって言った気が。…まあ、そうですね。ご飯が美味しくて横浜の夜景が見られる所に連れて行ってくださるなら空けておきます」

「…分かった、飯が美味くて横浜の夜景が見える所だな」


 優弥が今月の予定を聞くと、先ほど、優弥が放った言葉に再び嫌味を含んで発した。遥に上げ足を取られた優弥。だが遥が提示した条件を満たせば今回の件は水に流してくれると悟った。遥の要求を叶える為、脳内で優弥は条件に合致する懸命に候補を思い浮かべでいた。


「ただいま」


 玄関ドアを開け、遥が発する。一人暮らしの遥。当然、返答はない。暗い部屋に虚しさが漂う。護と不倫を始めてから一人の時間が酷く、苦しいと感じている。部屋の明かりをつけ、飾り棚に置かれた枠組みに収められた写真を手に取る。それは高校の入学式の時に撮影した写真だ。今は亡き両親と遥の三人が笑みを浮かべて写っている。それが置いてあった隣には、イングが滲み原型を留めていない写真が収められた枠組みがあった。何が写っているか、分からない写真を愛しそうに撫でる遥。そこに写っているのは高校生の遥と護だった。護と再会した研修会の帰り、突きつけられた真実を受け入れる事が出来ず、雨に濡れて帰った。その際、ぐちゃぐちゃにした写真。十年の月日。それは何もかも変えしまった。ただ変わらないものは遥が護を好きという事実だけ。狂った歯車は悲鳴を上げながら今もまだ動き続けている。


*◇*◇*◇*


「水曜に落合が残業するのって珍しいな。水曜と言えば落合が定時で帰るが慣例(かんれい)だったのに」

「そんな風に思われていたんですか?」

「まあな。でも確か落合が定時で帰る水曜って決まって雨の日じゃないか?」

「そういわれれば。水曜は水曜でも今日は晴れだし…」

「単純に雨の日は気が滅入るので残業しない様に心掛けているだけですよ」

「そんで帰って奥さんに甘える…。ああ、俺も結婚してえ。あ、その前に恋人か…」


 雨の降る水曜日。護は遥に会う為、残業をせずに帰社する。数か月の間、続いている関係は護にとって習慣の一つとなっていた。しかし今日は違う。雨が降らなければ、遥と密会をする事が出来ない。本社での用事を済ませ、東京支店に戻った護は『致し方ない』と残業をしていた。桜子に怪しまれない様にする為の所謂、時間調整だ。そんな護に同じ部署の先輩らが声をかける。この場で既婚者なのは護だけ。話の最後に先輩が発した言葉は他の未婚者たちの共感を得た。その言葉に護は『結婚していたって誰もが幸せというわけではない』とため息を吐く。今までそんなこと思った事など無かったのにと振り返る。遥の存在が如何に大きいかを再確認した。ふとオフィスの窓から外を眺めると街はクリスマス一色それは東京も横浜も変わらない風景だ。


*◇*◇*◇*


「半分、冗談だったのですが…。まさかこんなにも素敵なレストラン、予約をするだけでも…」

「恋人と過ごすためだ。多少の我儘くらい受け入れないとな」

「男前ですね」


 十二月二十四日はクリスマスイブ。街の木々は青や白の明かりに照らされ、カップルで賑わいを見せている。そんな聖夜に遥と優弥は横浜で一位、二位を争うほど有名な展望レストラン。夜景やレストランの雰囲気、料理の感想など他愛もない会話を弾ませながら食事を楽しむ。

 コースも終盤に近付く。遥が「お手洗いに行ってきます」と言って席を立つ。遥の姿が見えなくなると遥が護との不倫を止める気配がない事に優弥は小さくため息を吐いた。未だ時間が足りていないのだと痛感しているからだ。

 同日、同店。落合家と大道寺家、両家も食事をしていた。当然その部屋はVIPルーム。遥と優弥が知る由はない。そして、そんな室内で繰り広げられる会話は両家、両親同士の他愛のないもの。「桜子はちゃんと役に立っておりますか?」と娘の心配をする桜子の母親。その質問に「凄く頼りがいのある自慢の妻ですよ、お義母さん」と護が笑みを零し、桜子を称賛した。だが桜子は今ある立ち位置に息苦しさを感じている。何故か、答えは単純明確。桜子は護の両親が苦手だ。落合家が要求している重大項目を満たせていないからだ。不妊治療を称した通院を始めてからそれなりに月日が経っている。子を成すどころか、それを阻止している。しかし護の両親は露も知らない。故に結果を出せない桜子に無言の圧力を与える。不要と判断されれば簡単に捨てる。所詮はお飾りの婚姻だ。

 神奈川県の議員をしている桜子の父親。議員としての立ち位置は落合家の後ろ盾があってこそのもの。愛ではなく政治で成り立っている婚姻。桜子は人質に近い存在。桜子が不手際な事をすれば父親は辞職に追い込まれる。それを容易くしてしまう程の力を持っているのだ。こういった食事会も桜子が機能しているか再確認させる為。だが、食事会の意味を知らされていない護の態度は至って普段通り。

 桜子は幼馴染で同級生。高校生から正式に交際を始めた愛すべき妻と認識している護。誰も交通事故が原因で記憶を改ざんされているなど思いもしない。だが遥との出会いで認知に亀裂が称しているのは事実。遥との関係は知られていない。嘘がうまいかといわれると断言はできないが下手ではない。しかし嘘がバレたくない理由は不倫だからではない。何故か。両親と食事をする度、悩ませられている。交通事故で断片的に記憶を失った護。それを好機と思い利用している両親。どちらが悪かは明白。しかし交通事故に遭いながらもここまで幸せな暮らしが出来ているのは紛れもなく両親のおかげ。その恩だけは泥を塗ってはいけないと思っている。

 だが桜子は歪を放つ空間に限度を感じ、化粧室に逃げる選択をした。化粧室に辿り着くなり、桜子は鏡に映る自分に嫌気がさしていた。初めから疑う事が間違っている。そう言い聞かせ、今ある幸せの軌道に乗ろうとするも、護の変わり様にストッパーの様な役割をする。桜子が化粧室から席に戻ろうとすると店員に出口に案内された。それ程までに時間が経ってしまっていたのかと護たちと合流した際に謝罪をした。だが桜子は想像もしていなかった人物と再会を果たしてしまった。

 それは遥と一緒に食事を終えた優弥だった。十年の月日が経過していたが心から好きになった人の面影を忘れることは容易くない。同時に優弥の隣にいる遥が羨ましいと感じた。しかしそれは遥も同じ。護の隣にいる桜子を羨ましいと思った。この時、遥と桜子は初めてお互いの顔を認知した。


「護、知り合いか?」

「父さん、従業員ですよ」

「そうか、それはすまなかった。何せ人数が多いからな。で、どこの所属だ?」

「企画部営業企画課の足立です」

「お、同じく営業企画課の雨宮です」


 偶然とは言え、勤務先の社長夫妻。つまりは護の両親と出くわした遥と優弥。咄嗟に遥は会釈をする。その意味が理解できなった護の父親は護に尋ねた。護は躊躇することなく答える。ここで下手をすれば、様々な意味で全てを失う。そう感じたからだ。護の言葉に納得する護の父親。詫びを入れつつ、二人を知ろうとする。遥と優弥は互いに軽く自己紹介をした。この時、優弥には一つの疑問が生まれた。傍に護が居たとは言え遥は一目、見ただけで護の両親だと判断できたのか。だがタイミングよく、到着したエレベータに優弥は遥を庇う様に乗り込み、扉が閉まる前に優弥が「不躾ではございますがお先に失礼します」と一言、挨拶をしてその場を後にした。その様子に護は勿論、両親や桜子さえも不思議に感じた。

 何故、その様な態度を取ったのか。原因は遥の様子に異変があったからだ。エレベータという一種の隔離されたスペース。遥は乱れる息を懸命に整えようとする。しかし症状は酷くなる一方。エレベータがロビーに到着しても尚、遥の症状が収まる気配は無かった。故に自力歩行は困難。そんな遥を担ぎ上げ、人目に付かず、安心が出来そうな場所に連れて行った。

 遥の症状は過呼吸。過呼吸の対処法は心得ているが遥がその状態になる事を予想していなかった。同時に対処出来なければ意味がない。気になる事はまだある。それは過呼吸を起こす直前、遥は誰かに謝罪していた。何度も、何度も。意味が理解できない優弥は「大丈夫だ、何も謝ることはない」と声をかける事しか出来なかった。

 その後も収まる様子の無い遥に優弥は人口呼吸と言う方法で対処した。医学的に推薦されている方法でない事は承知の上。しかし今の状態を放置することは出来ない。エレベータから離れたとはいえ、帰り際の出来事。護たちに出くわす確率を天秤にかけた。その処置方に症状が安定した遥は静かに涙を流した。

 遥を自宅へ送り届けた後、優弥は車内で考え事をしていた。護と遥の不倫は遥の一方的な想いが原因だと思っていた。しかし先程の遥の様子。何に反応して過呼吸になってしまったのか。誰に対しての謝罪だったのか。両家両親がいる中で何故、護の両親だと瞬時に見分ける事が出来たのか。遥と護の関係に思う簡単なモノではないという確信を得る優弥。真実を知り得た訳ではないと首を横に振り、思考を切り替えた。切り替えた先に思い浮かんだのは護と一緒にいた人物。忘れたくても忘れられない人物。それは護の妻、桜子だった。

 学生時代、期限付きの恋人だった桜子。別れを告げてからは、奇跡的にも顔を合わせる事が無かった二人。桜子の現状を知らない優弥は両家の家族で食事をする程、愛されているのだと思い別れを告げた後悔はあるものの『断じて間違った選択ではなった』と自分に言い聞かせた。こうして恋人と過ごすクリスマスは幕を閉じた。

 クリスマス明け、出勤した優弥は遥に呼び出された。理由はクリスマスデートを台無しにしてしまったことへの謝罪だった。律義な奴だと優弥は思った。だが過呼吸を起こした原因を尋ねると「落合さんに足立課長といるところを見られたから」と誑かされ、真実を得る事は出来なかった。そのまま時間は刻々と過ぎ、気づけは年末業務に追われていた。

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