カリンカの墓

朝吹

前篇


 水兵リーベぼくの船。これから始まり、セレンのブラジャークリプトン(セレンSe、臭素Br、クリプトンKr)で終わる三十六番までは語呂合わせで何とかいける。それ以降から、元素周期表の暗記は雲行きが怪しくなる。

 語呂合わせ自体はその先もあるのだが、下ネタすぎて、女子校では先生が教えないのだ。

「なんとかウムが多すぎるでしょ……」

「九十八番。カリホルニウム。カリフォルニア州で発見」

「モリブデン。化学の森尾先生太ってるから、そのまま」

「森ブーの前後、四十一番ニオブ。これはモリブデンの子分の妖精。四十三番テクネチウム、森尾のネチネチした説教テクニック」

「四十四番ルテニウムはどうしよう」

「モリブーの奥さん。四十五番と四十六番のロジウムとパラジウムはモリブデン家の双子ってことで」

 物語性をつけて何とか覚えようと、私たちは必死だった。所詮文系なので入試で必要となる元素記号など憶える範囲もしれたものだが、推薦枠を考えると日頃の成績にも手を抜けない。

「カリホルニウムの前後はなに」

「九十九番アインスタイニウム。アインシュタインが涎かけ(スタイ)をしてる」

「いいんじゃない。絶対に忘れない」

「九十七番バークリウム」

 カリフォルニア大学バークレー校で発見されたからバークリウムなのだということを確認して、私たちは諳んじた。

「バークリウム、カリホルニウム、アインスタイニウム。バークリウムの直前がキュリー夫人の発見した九十六番キュリウム。よし、覚えた」

 化学が得意な人間がみたら卒倒しそうな覚え方だ。そのまま表を丸ごと覚えたほうがはるかに速いと云われそうだ。

 こんな涙ぐましい努力をしても、実際に小テストで正解するのは七割くらいだろう。他の教科の宿題もあるのに一週間で周期表を全て暗記してこいとは、恨めしいほどの無茶ぶりだ。しかも森ブーこと森尾先生のテストはストレートには訊いてこない。


 問1)合金となって最強の磁石となる原子はどれか。

 問2)ノーベル賞を逃した女性物理学者由来の原子を答えよ。


 フードコートでクレープを食べながら勉強をしていた私たちは溜息をついて周期表を投げ出した。ちなみに問1の回答は六十番ネオジム、問2は一〇九番マイトネリウム。ナチス・ドイツに追われて北欧に亡命したユダヤ人女性物理学者リーゼ・マイトナーがその名のもとになっている。女子の為の高等教育が整っていない旧時代であっても、幼少期から向学心が強く、飛びぬけて頭が良かったそうだ。

 そういえば参考値ながらも、世界で最もIQが高い人間とされているのも女性だっけ。マリリン・ヴォス・サヴァント。

「確率論のことで世界中から批難が殺到してさ、マリリンがそれに云い返して、これだから直観に頼るだけの感情的な女には数学は出来ない恥を知れって罵声の大嵐だったのに、結局マリリンが正しかったんでしょ」

 世界中の数学の専門家が辿り着けなかった解まで一跳びに辿り着くのだから恐れ入る。

「大変だよね」

「なにが」

 わたしはクリームの偏った端っこをなんとか上手に食べようとして、クレープを包んでいる紙に鼻先まで突っ込んでいたので、おかしな声の返事になった。

 友だち曰く、知能指数も高すぎると、地球に間違えて生まれた宇宙人のような気がするのではないかというのだ。IQ200を超えているマリリン・ヴァス・サヴァントがいい例だ。

 直観に頼る感情的な女。

 マリリンに近い知能指数を持つ稀有な男性たちから「マリリンが正しい」と証明されるまで、その他大勢の天才数学者にとってマリリンは、頭のおかしい女でしかなかったのだから。


 地球上で独りぼっち。


 かと想えばそうでもない。本人の性格や家庭環境にもよるだろうが、マリリンなどはかなり明るい性格で、世界中から寄せられる相談にも気さくに答え、人生を謳歌している。たとえ宇宙人であっても、地球人の中に溶け込んで暮らせるのならば何の問題もないわけだ。

 友だちがわたしに訊いた。

「スパイなら元素周期表くらい一瞬で覚えられるのかな、どうなの真帆」

 さあ。

 氷がとけて薄くなったジュースの残りを啜り、わたしは応えた。

「ひいおじいちゃんのことは、よく知らない」

 手分けをしてトレイと紙屑を片付け、「また明日ね」と友だちに手を振り、わたしはフードコートを後にした。

 約束の時間は六時半。余裕で間に合う。

 すっかり暮れた空には冬の星座が出ていた。わたしの曾祖父の名は神成洸士かみじょうこうじ。陸軍中野学校卒。

 それを聴いて「それはすごい」と驚倒する人は今の時代殆どいないだろうから、もう少し詳しく説明する。百年ほど昔の話だ。

 世界に武力をもって打って出て、欧米列強に威を轟かせんとしていた大日本帝国は、外交官とはまた別に、諜報員を各国に送り込む必要に迫られた。陸軍中野学校とは、敗戦するまで日本に現存していた極秘裏の諜報員養成機関だ。スパイといえば英国のSIS(MI6)が有名だが、まああんなようなものだ。わたしの曾祖父の神成洸士はその学校の卒業生。帝国陸軍が海外に送り出していた対外諜報員だったのだ。



 ステアせずにシェイクして。

 某映画のように何かといえば銃をぶっ放したり車の屋根に掴まって振り回されるようなことこそないが、日本の防諜員も国際的な陰謀を探ったり、大国相手に謀略を持ち掛けることは実際にやっていた。

 頭脳明晰、語学堪能。それだけではなく、防諜員にはさまざまな素養が求められた。臨機応変、大胆不敵。さらには人間を深く理解すること。武芸、医学、気象学、武器弾薬の扱いまで、中野学校では幅広く叩き込まれた。

 陸軍幼年学校から陸軍式に漬かってきたような士官から採用すると挙動に軍人らしさが隠しきれないため、諜報員となる者は、軍人臭さのない一般の学校を卒業した者から選抜される。地方から東京の帝大に進学していたわたしの祖父、神成洸士が諜報員となった理由としては、当時の男子全員の頭に染み付いていた『男子は国の為に一身を犠牲にすべし』という報国精神がまず第一、あとは、若者らしく任務に挑戦し、単純に外国に行ってみたかったのだろうと曾孫のわたしは睨んでいる。


 神成洸士かみじょうこうじは貿易商に扮して、ロシアの大地に渡った。

 その曾孫であるわたし、神成真帆には、僅かばかりロシア人の血が入っている。


 

 一一三番。ニホニウム。

 単語帳をめくる。

 日本人が発見した元素。Nh、ニホニウム。これはテストに出そう。

 外資系ホテルの広いロビー、パパとママの姿はまだ見えない。二人の会社は近いから、きっと何処かで落ち合ってタクシーで一緒に来るのだ。

 フロントには、「会食で、両親と待ち合わせをしています」と最初に断ったので怪しまれることはないが、制服姿でソファに座っているのは場違いで落ち着かない。

 実を云って何の為の食事会なのかわたしは知らない。

「真帆を愕かせたいから」

 ママがわたしに内緒にしたからだ。分かっているのは、誰かもう一人参加するということだけだ。

 ソファに座っているわたしの前に外国人が立った。わたしの手にしている単語帳を覗き込んでいる。ジャケットにジーンズ、クラークス風の革靴。学生っけの抜けない、眼鏡をかけたレゴ人形みたいな外人だった。

 失礼な奴。

 わたしは周期表の単語帳を閉じた。単語帳など時代遅れだと云う者もいるが、覚えなければいけないことを短期集中で覚えるのには丁度いいので愛用している。

 愕いたことに、その男は「水兵リーベぼくの船」と日本語で唱えた。

「真帆ちゃん」

 しかも名まで呼ばれた。

「どちらさまですか」わたしの声は尖った。

「ご両親はどちらに」

 男が周囲を見渡したので、わたしにも分かった。この外人と今晩は会席するのだ。発音がネイティブなので、日本で育った外国人だろう。

「もしかして、今日は一緒に」

「そう」

「神成真帆です。はじめまして」

 いささか間が抜けていたが、慌ててわたしは立ち上がり、日本語ぺらぺらの見た目は外人のその男に挨拶をした。

「かみじょうは神さまの神に成田の成です。父母からは誰が来るのか知らされていなくて、ごめんなさい」

「周期表を覚える邪魔をしたかな」

「水兵リーベぼくの船までは簡単ですが、その後が」

「女の子にはね」

 眼鏡をかけたレゴ人形はふんわりと意味深に笑った。

 そこへ、ママから少し遅れるとの連絡が入った。彼は云った。

「お腹が空いているでしょう。あちらのカフェでお茶でも」

「大丈夫です。あの、あなたは」 

 眼鏡をかけたレゴ人形は口元をほころばせると、わたしに名乗った。

 神成洸士です。



》中篇

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