第44話 正解のない夜

「寝ててよかったのに」


「まだ眠れんけん」


「何か飲む?」


「ううん。大丈夫」


シャワーから上がると

千織さんの様子がおかしい。


文庫本を開いているが、

さっきからページが進んでいない。

また考え事でもしているのか。


俺はバスタオルを首に掛けたまま、

冷蔵庫から水を取り出した。


「そういや最初に見かけた時も本読んでたね。何読んでんの?」


「今は新田次郎の剱岳つるぎだけ 点の記」


「へぇ。ずいぶん渋いの読んでんね」


彼女は「そうかな」と笑った。

確かに彼女の部屋に泊まった時、

本棚には山本周五郎や水上勉、

有吉佐和子や司馬遼太郎の本が並んでいた。


「文学とか歴史が好きなの?」


「ううん、そげんこつなか。色々読んどうよ。現代ものもエッセイも好き」


「読書なんて知的な趣味だな。俺、本なんて全然読んでないよ」


「うちもそうやったと。ばってん、本読むと違う世界が見えて楽しいと」


「そっか。そうかもね」


そっぽを向き

部屋の隅っこで体育座りをしている千織さんは、

あどけない少女のようにも見える。


それにしても

家を飛び出してくるなんて、

よほどのことがあったに違いない。


泣き腫らしたような目で、

なんでもない風にしていた事も

気になっている。


だがはっきりとした理由は、

教えてくれなかった。


まだ心の奥底までは

見せてもらえないのかと、

寂しくも思う。


だけど無理に言わせたくはない。

とにかく今は、

心落ち着けてほしかった。


そうだ、

あんなところに置きっぱにしていた。

やべぇ……


さっきコンビニで買った避妊具を

さりげなく回収し押し入れに仕舞う。


万が一がよぎり咄嗟に用意したが、

さすがに何考えてんだと

少し不安げな彼女を見て猛省した。


「寝よう」


「うん……」


ベッドは千織さんが使えばいい。

俺は床で十分だ。

酔い潰れてそうした事もあるから、

床で寝るのは慣れている。


「え、門田さん。何しとっと?」


「あぁ、俺はこっちで。千織さんベッド使って?」


「そげんこつできんばい!うちが押しかけてきとうし、うちが床で寝るけん!」


「ダメだって!」


小声で押し問答をしていると、

千織さんが抱きついてくる。


「そっじゃー、一緒に寝るんは?」


「やっ、え……それは、ダメでしょ」


「なんで?」


「だってほら、ね?俺も、男だし……」


「付き合うとうし、自然な事じゃろ」


「そうだけど……なし崩しにしたくないっていうか、これでも大事にしたいって思ってんだよ」


「ふ〜ん」


「古いとか思った?」


「ううん。そっじゃー、誰と使うつもり?ち思うただけたい」


「アレって……」


腕の中の千織さんが、

上目遣いでニヤリと笑った。


「あっ!見たの?」


「あげんとこ置いとく方が悪か!」


「あ〜……ごめん!めちゃくちゃダセーな、俺」


「ダサくはなか。ばってん、ツメがあまか!」


「すんません……」


下心を見破られ、

罰としてただ添い寝するだけという

拷問ごうもんのような仕打ちを受けた。


「ぬくか〜(暖かい)」


「狭くない?」


「大丈夫。門田さんこそ、狭かね」


「俺は全然平気」


抱き枕のような彼女は、

柔らかくて暖かかった。


布団の中で抱き合ったはいいが、

どうにも抑えきれない男のさがが、

軽くしたキスだけで暴れだす。


「千織さん……俺、やっぱ無理かも」


耳元でそう訴えるも、

彼女はすでに夢の世界に入っていた。


「ちくしょう……」


いやいや、落ち着け。

欲望よりも明日以降どうするかを考えろ!


と、わずかに残った理性が俺を揺り動かす。

そうだ。

明日もここに泊めるわけにはいかないし、

でもお兄さんである生島さんに

告げ口するのも気が引ける。


その場合、余計にこじれる可能性もある。


それに俺だって

彼女の気持ちはわかる。


家族という鎖から逃げたくなる衝動。

そして俺は就職を盾にして、

こっちに逃げて来た。


だが彼女はなんの準備もなく

頼る人もいなかった。


たまたま俺が引き留めたから、

今はここに落ち着いているが、

きっと自分からは頼ってこなかっただろう。


不甲斐ない。

本当に俺は不甲斐ない男だ。


ぎゅっと抱きしめると、

瞑っている彼女の瞼から

また涙の雫が流れた。


早急にどうにかしなければ。

どうにか……。


彼女を抱きしめながら、

正解のない夜を過ごした。


翌日、俺も彼女も普通に出勤した。

大きな荷物を抱えている彼女と

同じバス停から同じ時刻のバスに乗り

久留米駅に向かっている。


こんな状況でなけりゃ

もっと幸せな時間なのに。


千織さんもそう思っているのか、

どことなく元気がない。


「お世話になりました」


「そんなことより、今日はどうすんの」


「さっちゃんちに泊めてもらうばい」


「う〜ん……」


「うちんこつは気にせんでよか!門田さんはいつも通りお仕事頑張って!」


「そういうわけには……」


駅前に着くと、

彼女は荷物を駅のロッカーに預けると言って

そこで分かれた。


確かに俺は今、

人の事など気にする余裕などない。


だけど千織さんの事を

他人事には思えない。


手を差し出すには

まずは自分から変えなくては……


「おはようございます!」


「おはよう」


新卒の今井くんは

今日も上機嫌で、

始業ギリギリに定位置に着いた。


俺は10分前には持ち場に来ている。

仕事に取り掛かる準備をしておきたいからだ。

まぁ、そんな努力をしても、

給料や評価に反映されるわけではない。


だが段取り次第で

気持ちの余裕もできるし、

手順を復習できてミスも減る。


俺みたいに覚えが悪い奴は、

これくらいしないといけないと思う。


ビードワイヤーという鋼鉄線を

ゴムで包んで押し出し、

決められたサイズに巻き取って、

ビードと呼ばれるタイヤとホイールの接合部分の部材を作る。


ほぼ機械で仕上がるが、

人の手が入らないと

細かな調整ができない。


隣で作業していた今井くんは

午後から新卒だけ集めた研修に出てしまい、

代わりに違う人が入ってきた。外国人だ。


ここで働いている従業員は、

外国人も少なくない。


海外にも工場があるから

研修で一時的に滞在し、

日本で学んだ技術は、

いずれそれぞれの母国で活かされるのだと言う。


「モンタサン、ナレタ?」


「あ〜。まぁ、少しは」


「ガンバッテ?ボクモガンバリマス!」


「ありがとうございます」


言葉がたどたどしい外国人でさえ、

あわれな奴に見えるのだろう。


だが同じ日本である

東京から九州に移っただけでも

環境の変化に

少なからずストレスを感じるのだから、

国が違うとなると、

この人達の苦労は俺の比じゃない。


だからなんだろうな。

底抜けの明るさや、

損得勘定のない優しさは、

苦労を重ねた分だけ人の気持ちに寄り添える

しんの強さからきているように思う。


どこの国から来ているかも

名前さえも聞けなかったが、

見た感じからするとアフリカ系の黒人で、

皆んなから好かれており、

なぜか「ケン坊」と呼ばれている。


俺より手先が器用だし、

身振り手振りで

研修では教わらなかった

細かいところも教えてくれた。


後々聞いた話では、

さんという

ンから始まる日本では馴染みのない名前だから、呼びやすく『ケン坊』という

ニックネームが付けられたらしい。


そのケン坊が、

やたらと俺に話しかけてくるから、

たった半日で他の人とも少し馴染んだ。


「モンチャン!マタアシタ!」


「あぁ……はい。また明日」


なんて、

勝手に変なあだ名つけんなよと、

ちょっとウザくも思ったが、

今日は彼のおかげで、

心配事に支配されずに済んだ。


そんなことより、

早く千織さんを捕まえないと。


職場を出て千織さんにLINEを送る。


『駅前で待ってる』


1人で考えこまないでほしかった。

彼女も俺も

もう1人ではないんだ。


誰かに頼ったり甘えたりしていいのだと、

そう彼女にも伝えたかった。

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