Chocolate・Syndrome
きゃらめるもか。
1話
“うん、俺やっぱお前のチョコが1番好きだわ。”
なんて事ないように呟いた、その一言に思わず目を瞠った。……なんて、残酷で幸せな言葉だろうか。
見て見ぬふりをして、無意識に叶わないと、許されないと思っていた甘さが、その瞬間に熱を持った。
温度を上げて溶けだしたその気持ちは、全身に駆け巡り、もぐもぐと口を動かすそいつの顔をぼんやりと見ていることしか出来なかった。
【初恋とは、叶わないものである。】
自覚した瞬間に終わりを告げた俺の初恋。
呪いのように頭にこびりついて離れないその言葉に囚われたまま、
俺、花村夏澄は今日もチョコレートに縋り付く。
駅から出て徒歩5分。
決して都会とは言えない場所にある、こじんまりとした店。木製の扉にかかったCLOSEのプレート。
親しみやすくも、ショコラトリーとして不可欠なシックで上品な内装、店の中に充満するチョコレートの香り。テラスと店内に少しのイートインスペース。
ここ、『Chocolat・de・Caurage』が今の俺の職場である。
「おはようございます!」
「ん、おはよう。夏澄くん。」
コック服の上から焦げ茶のエプロンを巻き、厨房に入ればここのオーナーである慎司さんが誰よりも早く作業をして待っている。
ショコラティエとして働き始めて3年。
まだまだ下っ端である俺は、まず売り場の電気をつけ、ショーケースをアルコールで拭きあげていく。
「……よし。」
「夏澄くんおはよ〜。」
「真梨さん!おはようございます。」
次の作業へ取り掛かろうとした時、ここのもう1人の社員である真梨さんが厨房からひょこり、と顔を出した。
真梨さんと慎司さんは、元々同じホテルで働いていて、慎司さんがこのショコラトリーを開店する時からずっと一緒に支えあっている、言わば相棒である。
「オーナー、オランジェット仕上げて大丈夫?」
「あぁ。…いや、先に焼き菓子頼んでいいか?」
「了解ー。」
阿吽の呼吸のように、テキパキと開店準備が進むこの時間が好きだった。暗かった店内が、照明と、色とりどりのショコラと、お菓子で鮮やかに埋め尽くされていく。
「夏澄くん…オランジェの仕上げ、やってみるか?」
「…!はい、ぜひ!」
そして、日々この中でやらせて貰える作業が増える楽しみ。オーナーは、普段は優しく、チョコレートに厳しい人だ。あまり笑わないが、怖い訳でもない。そしてショコラティエとしては超一流。…俺の憧れの人だ。
ふと真梨さんと視線が合うと、ニコリと微笑まれた。
そこには「頑張れ」と込められていた気がして、大きく頷いた。
砂糖漬けにしたオレンジを、オーナーの手でテンパリングされたチョコレートへくぐらせそっと引き上げる。
「うん、…悪くないけどちょっと付き方のバランスが悪いかな。お客様によって、味が違うのは良くないから。オレンジの漬け具合、チョコレートの配分も計算されてるから差ができないように。…あとは素早く、最短で。じゃないと砂糖も溶けちゃうしね。」
「なるほど…。」
「まぁ、後は数こなせば大丈夫だと思うから、やってみて。」
「はい!」
好きな物が詰まった幸せな職場で、尊敬するオーナーと優しい上司、やりがいのある仕事に囲まれた日々に恵まれてるなぁ、などと漠然と考える。
……こうやって、穏やかに毎日が過ぎればいい。
俺は、奴への思いをひっそりとこのチョコレートに込めたまま。変わらずに。
そしていつか、何も知らずにここのチョコレートを奴が食べればいい。それだけで充分だ。
恋心なんて、付き合いたいだなんて、そんな気持ちが霞んでしまうくらいには、想う時間が長すぎた。
これは、もう恋なんてもんじゃない。……呪いだ。
オレンジから垂れた1滴を、妙に目で追ってしまった。ふと売り場の方からすみません、と呼びかける声が聞こえた。
「ごめん、夏澄くん出れる?」
「あ、はい」
真梨さんの声にハッとして、丁寧にオランジェを置き、エプロンを締め直す。
「申し訳ございません、まだ開店前でして……」
慌てて売り場へ出ると、そこに居たのは黒髪のスーツの男。一目見て、嫌でも思い出すあの日の記憶。
髪型も、身長も、あの時と余り変わらないはずなのに、別人のように違って見えるのはスーツだからだろうか。
…思わず固まった俺を見て、そいつは名刺を取り出して、変わらぬ笑顔でこう言った。
「初めまして、月野出版の藤堂悠弥です。
…オーナーさんはいらっしゃいますでしょうか?」
目が合って、1秒。
そいつが目を見開いて、あ、と声を漏らすまで3秒。
俺の穏やかなはずの毎日は、どうやら何かが狂いだしたらしい。
「……とりあえず、こちらどうぞ。」
「あぁ、すみません。」
バクバクと加速を始めた心臓を無視し、何とかテーブル席に案内して、厨房に戻ると真梨さんが不思議そうに誰だった?と聞いてくる。
「…えっと、出版社の人らしいです。月野出版とかいう……。」
『えっ。』
「え?」
月野出版社と聞いた瞬間、珍しく驚いたオーナーと真梨さんの表情に変化が見られた。
オーナーからコーヒーとオペラを出すように指示を受け、いつもより忙しい空気に押され、急いでコーヒーを煎れる。ショーケースからオペラをお皿に盛り、コーヒーと一緒に運ぶ。
「こちら、どうぞ。」
「…あ、ありがとうございます。すみません突然。」
「いえ、今参りますので…。」
「夏澄、だよな。花村夏澄。」
背を向けた途端、突然呼ばれた名前。掴まれた腕。
…振り返りたくない、のに呪われた己の身体はゆっくりとそいつに向く。
「……うん。」
「やっぱり!…うわー、久々じゃん、元気してた?」
「まぁ、それなりに。」
「つーか、ちゃっかり夢叶えてんだな。」
「え?」
「チョコレート、まだ作ってんだろ?」
「………。」
「なんか嬉しいわ、だって俺…
言うな。それ以上。聞きたくない。いや、聞いちゃダメだ。
高校を卒業して7年。25歳になったそいつは、見た目こそ余り変わらないのに、確実に大人になっていた。
大人になったはずなのに、あの時と変わらないこどもっぽい笑顔と、笑い声。
友達として、案外普通に会話ができて安堵した途端、またこいつは呪いの言葉を吐いた。
“夏澄のチョコレートが一番好きだもん。”
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