猫につぶやいた

だるまかろん

猫につぶやいた

「消えてなくなりたい。」

 私は猫に言った。猫はニャア、と気のない返事をした。

「そんなに消えたいなら、私と代わってみる?」

 猫が喋った。それはおかしなことだったが、私は人生に疲れていたから、それを了承したのだ。

「いいよ、代わる。」

 そうして、私の体と猫の体は入れ替わった。

 巨人のような人間が私を見下ろす。私は、自分がこんなに大きな存在だったのかと驚く。

 私は、猫の目線で自分自身を見た。俯瞰しているような、不思議な感覚だった。

 ニャア、鳴けば母親がキャットフードを与えてくれる。やれ働け手伝えと言っていた母親が、猫にはそんなことを言わない。何も言わず、頭を撫でてくれた。

「お母さん、実は私、猫と入れ替わったんだよ。」

 私は母親に説明した。しかし、母親に説明しようとしても、ニャアニャアとしか声が出ないのである。一体、どうなっているのだろう。私は元の人間の体に戻ることができないのだ。

「ただいまあ。」

 私の姿をした猫が帰宅した。猫は不気味な笑みで私を見下した。

「おかえり。」

 母親は私の虚像に向かって走った。

「お母さん、お弁当、とても美味しかったよ。ありがとう。」

 私の虚像は笑顔だった。毎日消えたかったはずなのに、自分自身が消えてしまうことがこんなにもつらいなど考えもしなかった。

 私は幸せなんかじゃなかったよ。猫に私の幸せを取られた気がした。

「ねえ、私の体を返してよ。」

 私の虚像に、ニャアニャアニャアと訴えたのだ。しかし、虚像には何にも伝わらなかった。

「あなた、何なのよ。早くあっちに行きなさい。」

 私の虚像は、私を家から追い出した。

「私の家なのに、なぜ追い出されるの。早く扉を開けて、元に戻してよ。」

 私はニャアニャアニャア、と扉の前で鳴くだけだ。そんな毎日が続いた。

 お腹が空いた。母親が食べさせてくれるキャットフードの味は単調だし、毎日寝て考えごとばかりしていた。元に戻る方法を探したが、全く見つからなかった。

「おい、そこのおまえ。」

 黒色の猫が話しかけてきたのだ。ニャアニャアと騒いでいる。私は猫が何を言っているのか理解できた。

「な、なによ。」

 私は恐る恐る返事をしたのだ。

「そのままでは、元に戻ることなんて不可能だろうな。」

「……そうかもしれないね。」

 私は絶望感に苛まれた。もう人間に戻る気力がない。

「三日以内に元に戻らなければ、中身と体が馴染んでしまって、おまえは人間だったことを忘れてしまう。」

 黒い猫は、予言者のように言う。私は、もうどうでも良かった。

「諦めて、猫として生きるしか方法がないのよ。諦めも肝心っていうじゃないの。もう放っておいてよ。」

 私は、下を向いた。消えたいと思っていたはずなのに、人間に戻って、母親にありがとうと伝えたくなったのだ。

「俺も、かつて人間だった。しかし、もう人間に戻ることはできない。自分の元の体は津波にのまれて消えた。」

 黒い猫は、私の隣に座り、寄り添った。

「あなたも消えたいって考えたことがあるの。」

 私は、そんなことを聞いた。

「そりゃ、あるさ。何度も猫に消えたいと言っていた。朝、目覚めたら自分が猫になっていた。」

「人間に戻りたいとは思わないの。」

 私が聞いた。すると、黒い猫は遠くの山々を見つめて言うのだ。

「俺は津波にのまれる三日前に、飼い猫と入れ替わった。自分は猫だから、走って高台に逃げた。しかし、本体の人間は間に合わずに津波にのまれた。それを知ったのは数日後だ。瓦礫の中で倒れた自分を見つけた。だから、もう人間に戻ることもできない。今は、猫として人生を全うするだけだな。」

 消えたいって言葉は贅沢かもしれない。けれど本当に自分自身が消えてしまったら、それはとても苦しいことだ。それを、私達は知らなかったのだ。

「私が人間に戻ったら、あなたの言葉が分からなくなって、話せなくなってしまうわね。」

 私は寂しそうに言った。

「そんなふうに言われたのは久しぶりだな。必要とされているようで少しありがたい。長く生きていれば、おまえみたいなやつに出会える。だからもう、俺は消えたいって考えていないな。」

 黒い猫は少し笑った。そして私の背中を押すように声をかける。

「おまえは、まだ戻れる可能性がある。俺みたいになるな。俺は、おまえの反面教師だな。」

 黒い猫は、ついてきなと言って家の出入り口を見つけてくれた。

「本体に、十秒以上触れて、願うのだ。私は消えない、元に戻って欲しいと伝えるのだ。そうすれば、きっと戻れる。」

 黒い猫は、そう言い残してどこかに走っていった。

 私は、私自身の体がベッド上で寝ているのを確認した。十秒以上触れて願った。


「私は消えない、元に戻って!」


 翌朝、目が覚めると、私はベッドの上にいた。夢を見ていたようだ。それからというもの、私は消えたいと思わなくなった。

 ただ、最近、うちの飼い猫が黒い猫と一緒にいるのを見た。私は何かを忘れているような気持ちになった。しかし、それが何だったのが思い出せない。

 一人暮らしを初めて、母親が弁当を作ってくれたことに感謝した。ありがとう、美味しい、同じ言語で伝えられることは、人間の最大の喜びなのかもしれない。

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猫につぶやいた だるまかろん @darumatyoko

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