未明

 起きたら、まだ暗かった。





 廊下を歩いて、台所の冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出して、飲む。喉が渇いている。ゴクゴクやって、また眠りに戻る。何時かは見ない。体感でわかる時間も考えない。さっきまで見ていた悪夢も思い出さない。夢を見るのは…………現実の時間に換算すると、とても短い、圧縮された数分らしい。





 あんなに何度も試したのに。





 僕は、駅に向かって自転車を漕いでいた。いや、帰る前に職場で一悶着あったんだ。靴は仕事用の靴のまま。ズボンが所々濡れている。エプロンが濡れてしまったから、しみたんだ。脚が冷たい。僕は厨房で最後に、洗い物を終わらせて帰るところで、

「オオツくん」

 洗い物が追加された。大物だ。シンクの中は大渋滞の山積みで、野菜屑やさいくずの付着した大きなブレードやらカードやら……一旦それらは脇へ置く。

「…………はぁ」

 ウンザリしている間もない。僕の手は高速で同じ皿やわんを積み上げ、こすり洗い、次々戻ってくる食器を横目に、目の前の洗い物を減らしていかなければ、終わらない。腕が限界だ。本当は動かない。でも洗い続ける。この洗い物を片付けて、シンク周りをキレイにして、僕の足元で悲鳴も上げずに泡を吹いている排水溝のグリストラップも掃除して、ゴミを捨てたら…………帰れる……かな? 同僚が明日の朝用に並べているトレーに、箸やスプーン、栄養補助を置いていってる。仕事が早い。僕より速い。

 ここは、高齢者向け介護施設にある厨房。だいたい一〇〇名前後の食事を厨房勤務の社員が、一勤務で二食分、二人でオペレーションして回してる。大半はパウチされた出来合いをコンベクションスチームで温めて、添え物を調理する程度だ。調理師でなくともできる。実際僕は、調理師免許を持っていない。いちばん難しい調理は、揚げ物の天ぷらかな? 天ぷらの時は、さすがにプロの社員に任せて、僕は加工を担当する。利用者様の状態に合わせて、一口大にカットしたり、刻んだり、ミキサーにかけるのだ。

 正直、揚げたての天ぷらをミキサーでドロドロにするのは、材料に戻しているようで心苦しい……が、これらは必要な工程なのだ。例え見た目が色付きの液体に近付いても、僕らは皿に盛り、碗にすくい、小鉢に寄せ、提供するのだ。利用者様に、美味しく食べていただきたい。その一心で働いている。(配膳した食事が手付かずで全残しでも、めげずにね)


 帰りがけ、ロッカーで着替えていたら、靴がない。僕が履いてきたスニーカー。どこいった? ウロウロ探して回るが、見つからない。

「靴隠しなんて、イジメか?」

 くだらない。だいたい鍵のかかるロッカーにしまっておいて、ないとはおかしい。そんなはずはない。でも、ない。

「しょうがない」

 そろそろ新しいのに替える予定だったし、厨房で履いている白い防水の靴を、そのまま履いて帰ることにした。





 自転車で埃っぽい国道の路側帯を漕いで、駅に向かう。霧が出ていて、身体が濡れる。目にミストが溜まり、時折片手でワイプする。

 駅…………階段を上って、改札へはまた階段を下りる。エスカレーターのような幅の階段には人が詰まっていて混み合っている。


 切符を買わないと。


 定期券を持っていたはずなのに。切符を買わないと。おかしいな。券売機がタッチスクリーンだ。路線図の環状線に駅名表示、僕が行きたい駅名は……表示されていない。画面をタップして次の駅、次の駅、次の駅と表示させていっても出てこない。

 なんだか、どうしたって、切符一つ、買えない。有人窓口の駅員の女性に尋ねてみたら、女性駅員はひどく怒っていて、険しい口調で言葉を投げられた。


 何もかも……おかしい……


 ホームへ下りる階段は……そうだ……ここの階段じゃない。反対側だ。何故僕は間違えたのだろう? このまま行ってはいけない。反対方向へ連れて行かれてしまう。

 僕はウロウロと雑踏の中で下手くそに歩きながら、正しい方の階段を探し回る。

「早く帰りましょう」

「ついて行きますから」

 母と祖母に声をかけられた。そうだ……そうだ……僕は二人を先導しなくてはならない。いつもの階段は急で、とても二人を連れて下りるのは、困難に思えた。

 ほとんど垂直に切り立った階段、手すりはなく、下り始めて直ぐ後悔と絶望を味わう、恐ろしい階段。眼下には流れる水。絶対に落ちたくはない。

 …………あれ? 階段には、ジップラインのようなガイドロープが、頭上に張られている。ちょっとボロいロープだけど、これはいいぞ。ロープさえ離さなければ、足もとが途切れても、落ちはしない。

 僕は二人を従えて、奇妙で恐ろしさの半減した階段を下りていく。





 ホームへ着く前に、僕は戻っていた。どこへ? 帰りたいんだろう? そうだ、僕は早く帰りたい。


 駅の……外に居た。頭があせりに支配される。早く……駅に……入口は……


 自転車でグルグルと、正しい道を見失って戻れない。見慣れた知らない道が、何度も現れる。川が見える。橋がかかっている。帰り道を見つけて、駅へ行かないと。ホームを間違えないように、電車に乗らないと。





 駅の……急な階段を駆け上っていく。眼下には流れる水。……川だ。













 僕は目が覚めた。

「夢…………?」

 階段でガクンと、身体は横たわっている。夢だった。

「お母さん……お祖母ちゃん……」

 僕の母も、祖母も、何年も前に他界していたことを、思い出す。母は本当に、もう居ないんだっけ? と、記憶を確かめる。現実の感覚が、ハッキリ戻ってくる。





 ……川だ…………流れる水は、川だった。


 悪夢の風景にあった川は、結局渡れなかった。もし、僕は帰れていたら……





 僕は起き上がって、ベランダへ出る。まだ夜だ…………もう一度、寝よう。僕は深呼吸して夜の空気を吸い込んで、そして再び眠りに戻る。


【終】

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