船出 2
【ブレインケーキ】
「アイザック」
新しいホールケーキを切り分けて、私は息子を食卓へ呼んだ。
「さぁ、座って」
フレジェ(※カスタードクリームとバタークリームを混ぜ合わせた濃厚なムースリーヌを用いる、フランス発祥の苺のケーキ)の赤いカットピースを載せた皿を、息子と自分の前に置く。
「いただきます」
アイザックは、私がデザートフォークで一口ずつ食べるのを見つめて、同じようにする。
「美味しいね」
「おいしいね」
いただきますを言わなかったアイザックは、今度は私と同じように、繰り返して言った。
春を告げる華やかなフレジェを食べているのに、私はずっと、冬の夜に居るようだった。
「イツァーク、新しい仕事はどうだい?」
転職してからも、元同僚が声をかけてくれる。
「可もなく不可もなく……かな」
新しいレストランは居抜きの店舗で、私はまだ以前の店を覚えていた。ロシア料理のレストランで、魚と野菜のスープが
「定年まで居ると思っていたよ」
「研究職で、待遇が良かったんだ」
「そうか」
引き継ぎした患者が、何人も居た。経過が気にならないと言えば、嘘になる。
「息子さんはどう?」
「相変わらずさ」
さっきから、歯切れの悪い返答しかできていない。
アイザック・フリューク、十七才。普通なら、進学か就職か、運転免許の取得……そんなことを考えているような年齢だ。
アイザックは自閉スペクトラム症(ASD)で、最近では脳腫瘍もあって…………原発性脳腫瘍(※
リビングにあるグランドピアノ。譜面台の隣に、レクスが置いたままになっている。アイザックがピアノを弾いて、そのまま忘れてしまったのだろう。私はくまのぬいぐるみ(レクス)を回収して、アイザックの部屋へ向かう。夜になって、レクスが居ないことに気付いたら、アイザックは眠れないだろう。
「アイザック」
アイザックは窓辺に立って、外を見ていた。
「雲行きが怪しいね」
私は言った。灰色の重たい雲が、空の高いところで風に流されていく。きっと雨雲がやって来る。陰鬱な長い冬も、一雨ごとに
「雨が降ってきそうだ」
私は、アイザックが聞いていようと、いまいと、何でも話しかける。
「雲が……飛んでいくよ。船に乗ってるみたい」
時々は返してくれる。
物凄い風が雲を飛ばしているのではなく、私たちが船に乗って、物凄いスピードで進んでいる…………そんな、アイザックの想像を思い浮かべてみた。窓の外の庭は
窓を閉めよう。私はアイザックにレクスを手渡して、リビングへ戻った。開いている窓を全部、閉めなくては。
「レクスの様子は?」
「順調です」
「輸送には、海軍のフリゲート艦に一室、乗船許可を取り付けてある」
「海軍……?」
国立の研究機関が持つコネクション、だろうか? バイオマテリアルの総合体である、レクスの輸送だ。厳重過ぎるに越したことはない。(のかもしれない)
公的な地図に記載のない第一研究所(実験場)から、この第二研究所(病院)まで…………レクスを待ち望んでいる、コーディネーターと臨床実験参加被験者……私もだ。レクスが到着したら、ほとんどの部位が生体臓器移植用に随時摘出されていく。臨床実験には私の家族も参加していて、レクスの脳を貰い受ける手筈となっている。アイザックの脳移植用だ。
「自分の息子を人体実験に使う気なのか?」
「人体実験?」
何を言っているんだ。
「頭部を
マッドサイエンティストじゃあるまいし。
「意識問題(※移植された細胞が、意識を持つ可能性への懸念)と社会的コンセンサス(※治療効果や倫理的な問題について、社会的な合意形成がなされた状態。大多数に共通認識として納得を得ている状態)の問題がある以上、脳移植の可否を議論して決着がつくとは思えないけどね。脳自体の移植が一般に普及することは、当分あり得ないよ」
自閉症と脳腫瘍を併発している子どもが居たとして、その子が自分の息子でも、同じことを言えるのかな?…………別に、怒りや
私は、アイザックの脳外科手術で、腫瘍摘出によって失われる広範囲の部位を、レクスの脳組織から補う形での移植を予定している。手術範囲がノーマンズランド(※脳神経外科において、かつて治療が困難とされてきた部位。具体的には脳幹部や
前頭葉の一部を、生体から組織移植する。長らく実現不可能とされてきたが、現在では主に倫理的な問題の解決が待たれるのみであり、技術的には臨床例……いや、臨床実験の数を積み上げるところまできている。
バイオマテリアルの総合体であるレクスに、擬似的な人格形成を
他者から生体部位を移植する時、提供者の合意の上か、条件的に再生可能なものに限定しているのは、『他者』が『人間』だからか?
他者が人間でないなら、倫理的問題はなくなるのか?
例えば食肉用の家畜は、食べる為に育て上げたから食べてもいいのか?
人間の持つ感情が
線引きが正しくなされていれば、折り合いをつけたことは忘れていてもいいのか?
結局のところ、臨床実験の数が安全性を確保し、実用化に向けて法が整備され、将来的には治療の一環となっていく見通しはあるだろう。現在足踏みしている倫理的問題とは、たったそれだけのことなのだ。
アイザックがピアノを弾いている。モーツァルト…………『ジュノム』の第二楽章。短調で描写される
モーツァルトは二十代で、どうして、こんなに美しい協奏曲を書けたのだろう?
どうしてアイザックは、難しいパッセージを美しく弾けるのだろう?
天才の特異なる才能と、音楽的サヴァン症候群。説明は簡単にできてしまう。美しいものを美しいと感じるのも、簡単にできることなんだ。ただ、それを表すことは難しいというだけで。
私はアイザックのピアノを聴いて、心に誓う。いつか君を独りにしても、生きていけるようにしてみせると。
アイザックはピアノを弾く時、譜面台の横にレクスを置く。膝に乗せたまま弾くこともある。アイザックは多分、自分の為よりかはレクスの為に、ピアノを弾いているのかもしれない。
レクスは…………この、くまのぬいぐるみは、私がアイザックにあげたものだ。銀色の毛並みに、青い目のくま。大量生産された市販のぬいぐるみの一つをバラして、私がアイザックとお揃いの色に作ったものだ。
母親を早くに亡くしているアイザックに、できることは何でもしたい。
いや、違う。心配に…………なったんだ。アイザックは自閉症で、人とコミュニケーションを取るのが難しい。ほとんど私としか喋らない。
そんなアイザックが、或る日、いつだったか、鏡の前で座り込んで、喋っていて…………子どもにはよくある、イマジナリーフレンド…………そんな類いのものだと思っていた。
でも…………アイザックはもしかして、鏡像の認識ができていないんじゃないのか?
漠然とした不安に襲われる。アイザックが、鏡の向こう側の自分に『レクス』と名付けて独りで喋っているのを、私は見ていられなく……なったんだ。
「アイザック」
階段の踊り場に置いてある、大きな鏡。
「そんなところに座り込んでいたら、冷たくなっちゃうよ?」
六才のアイザックは私と手を繋いで、鏡の中の自分に『バイバイ、レクス』と言った。
「アイザック。今度、パパがレクスに会わせてあげるよ」
私はアイザックに約束した。
足裏にレクスと刺繍した、くまのぬいぐるみをアイザックに贈った。アイザックは、それを抱きしめた。手渡されたレクスをギュッとしていた。
冷たい鏡より、きっと、ずっといい。良い……はずなんだ。
独りで、鏡の中の自分に手を合わせて、話しかけているよりは。
レクスを気に入った様子のアイザックを見て、私はそう思おうとしていた。
「レクス」
深い眠りに入っているようだ。呼びかけても返答しない。レクスの乗船には、私も立ち合っていた。
「何があっても、決して『積み荷』を傷つけることはないように」
「移植用のバイオノイド……ですね。承りました」
…………バイオノイド。レクスは、バイオノイドではない。バイオマテリアルの総合体だ。船員に誤りを指摘したところで、取り立ててレクスの扱いが変わることはないだろう。
高価なバイオノイド。
「イツァーク、訊きたいことがある」
レクスは、
「なんだい? レクス」
「レクス…………レクスは、本当は、誰の名前なんだ?」
アイザックと同じ、青い目で見つめられる。残念ながら、レクスのオリジナルの目は角膜移植で失われてしまったので、人工のものに置き換えられている。視力も、元の視力から落ちている。
「レクスは、レクスのものだよ。名前も、何もかも、全部ね」
私は不安そうなレクスの頭に触れて、髪を撫でる。アイザックと同じ、銀色の少し長めの髪。熱傷患者への頭皮移植で、自家培養表皮移植との比較実験は、成果を上げるだろう。バイオマテリアルを、総合体として成体させる意義は、より深まるはずだ。生体部位は、余さず需要があるのだと。
「私の…………もの」
レクスの人工心臓は、レクスを生かし…………生体部位移植で摘出された臓器の代わりには、人工臓器が取り付けてある。さいごとなる脳外科手術の日まで、レクスの生命と人間性を維持し、守り続ける為だ。
「イツァーク」
私を呼ぶレクスの声。レクスに両手を戻すよう約束した。レクスは私を信じて待っている。
「ありがとう。助かったよ」
今のレクスは、私の手助けなしには何もできない。私はレクスに知らせずに、睡眠薬を渡した。レクスは何も訊かずに、飲んでくれる。人間なら、こうはいかない。
私は、提供者であるレクスを尊重したいだけなんだ。
「アイザック、おいで。行く時間だ。レクスにも会わせてあげるよ」
「レクスなら」
私はくまのぬいぐるみをベッドに置いた。
「本物のレクスに会いに行こう」
本物って何だ。アイザックは、困惑と少しの興味、或いは好奇心の目で私を見てくる。
私は車にアイザックを乗せて、
アイザックは、脳腫瘍の自覚症状から頭痛や吐き気に悩まされていた。私が異変に気付いたのは、家で目眩を起こして倒れた時だった。もしもあの時、私が家に居なかったら……私は今も、アイザックの病状に気付かないままだったかもしれない。
アイザックには、治療と悪性腫瘍の摘出手術について、ちゃんと説明してある。
脳移植については、話していない。私がアイザックには知らせていないことだ。
アイザックは元々投薬と治療についても、私の説明を理解しているようだった。手術によって、術後にリハビリが必要なこと、麻痺や痙攣が残る可能性があること、認知機能障害や高次脳機能障害(※高次脳機能である思考、感情、行動などに影響が出る)の可能性があることは、詳細をよく話して聞かせてある。
「翌朝、手術だから食事はできないよ」
「そう」
これから私はレクスの手術だ。翌朝に間に合うように、終わらせなければならない。
レクスの生体部位摘出手術は、これで最後となる。研究所はレクスの人工心臓を外して、レクスの身体から血管や筋肉、使える組織を取れるだけ取って、有効利用するのだろう。
レクスの脳は、私が貰い受ける。アイザックへの移植には部分的な利用となるが、レクスの認識がある脳を…………私は…………とにかく、研究所には渡したくなかった。(生体移植に使える部位ではないので、私の要望は問題視されはしなかった)
手術は成功した。レクスの手術も、アイザックの手術も。アイザックが目を覚ましたのは、夕方を過ぎて夜になる頃だった。
「…………アイザック」
私は、私を見る青い目を見て、漸く安心する。
「……は………………どこ?」
ICUにくまのぬいぐるみは持ち込めない。
「家で待っているよ。早く元気になって帰ろうね」
【家】
車の後部座席に深く座って、外を見ている。細く開けられた窓からは、風の匂い。
どれだけ病院に居たんだろ……
時折窓ガラスに写る自分の姿は、頭に包帯を巻いていて、病院の白い検査着をそのまま寝間着にしていたから、なんだかハロウィンのお化けみたいだ。
僕はピアノ曲を口ずさむ。モーツァルトの……協奏曲、二十一番……第二楽章……
レクスと……話したいな。
家に帰ったら、ピアノを弾いてあげるよ。
きっと、そのうち、起きて……くれるよね? レクス。
【終】
読書実況版『船出』2|夜見の書架|YouTube
https://www.youtube.com/live/pGD7v4TxpRI?si=gLUTFF0FzxEvTi8u
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