ラフィエルの喪失

ZeRo.

1歩目 侵食①

 …体が動かない。重い…意識が朦朧として、一体何が起きたのか考えられない。ただ、今自分は地面に倒れているということは分かった。


 強い雨が自分とアスファルトを打ち付けている。…寒いな…それにひどく眠い。

 数人の大人が駆け寄ってきて、何か必死に言っているが聞き取れない。

 …こちらをチラつきながら足早に去っていく数人の同い年らしき人が視界に入った。視界から消える寸前、微かに笑った顔がに映った。


 …笑った。

 ……笑っていた。あいつらは…、顔を青ざめることなく笑った…。


 あいつらから受けた痣と傷が雨にしみる。ある程度の事は耐えてきた。絶対に泣くことはしなかった。泣けばあいつらの思惑通りになってしまうから。他の奴らは見て見ぬフリをする。自分が巻き込まれないために、自分を守るために、一線を越えられない。ただただ、哀れむようなで見続けるだけ。

 …分かるさ。その一線を越えられない気持ちは理解できる。僕だって、そっち側の立場なら行動する事は難しいだろう。

 だが…

 こちらからすれば何故助けてくれない…と思ってしまう。家族には言わなかった。心配かけたくなかったし、迷惑をかけたくなかった。だから隠していた。隠し通せてた。外が辛くても家だけは安らぎを与えてくれる場所だった。だから、失いたくなかった。

 でも…

 これじゃあ、もう隠せない。親が原因を知れば、唯一の平穏な時間も無くなってしまう。それだけは嫌だった。避けたかった。

 ……サイレンの音がする。救急車…だろうか…それとも警察…?


 ..................................


 どちらにせよ、僕には分からない。理解しようとも思わない。ただ、この後が心配だ。


 ……………………………………




 …ああ、でも、別に助からなくても良いか…そしたら…



 ようやく楽になれる。





 ***************


『……ねえ。』


『君にチカラをあげるよ。』


『…何言っているんだって顔しているなぁ。うーーん、そうだな、理由を述べるなら、君のこと気に入ったから…だね。君、大切な場所を失いたくないと思っている反面、君を殺そうとしてきた奴らに復讐したくてたまらないって思っているだろう?』


『…我慢するなよ。抑え込んでいる感情を吐き出してしまえ。人間特有の醜い姿を見せてよ。』


人間ひとって本当醜いよね。自分のために他人を犠牲にして、争って、蹴落としては這い上がって…。そのくせ、自分が奪われる立場になったら全力で抗って、嘆いて…ああ、本当に欲深い生き物だよ、君等は。ねえ、君もそう思うでしょう?』


『そんな醜く哀れで欲深い世界から離れて、比にならないようなチカラで復讐しようよ。君さえ受け入れてくれれば、いくらでもチカラをあげられる。』


『だから、自分を受け入れてよ、ラフィエル。』



 …………………

 ……………

 ………



 …明るい…白い天井と蛍光灯…そして鼻を衝く消毒液の匂い。


 …生きてる。

 やっと楽になれると思ったが、しぶとく生きながらえたようだった。


 事故に遭ったというのに、身体のどこにも痛みがない。麻酔が効いているのかな…

 体を起こして体の状態を見てみる。指は動く…手首、首…足も問題ない。病院着をめくったが、傷どころが包帯も巻かれていなかった。

 …僕、事故に遭ったよね?なんで傷跡も処置された形跡もないわけ?

 

「…どういうこと…?」


 ひとまず鏡で見えない所と顔をもう1回確かめよう。見えていないだけで傷残ってるかもしれない。

 ベッドから降りて、閉められていたカーテンを開けると、僕の他に5つベッドがあるが全て空だった。空っていうより、病室の外に出ているのかな…布団乱れているし。

 出口付近に設置されている扉を開けると洗面台があった。鏡を覗くと、髪が随分と伸びた自分の姿が映る。


  …髪長くない?記憶が正しければ、事故に遭った時前髪は眉よりも上だったはず…

 今鏡に映っている自分は、前髪が目を隠し、再度と後ろはミディアムくらいまであった。


 「…伸びすぎでは…?」


 僕どれくらい寝ていたんだろ…後で日付確認して…あ、あと傷残ってるか見なきゃ。

 前髪をあげるとエメラルドグリーンの瞳が現れる。…異常なし。傷どころか肌艶良かった。なんで??

 次は背中…なんともねぇ…まじでなんで…?


 「うーーん…」


 さて…どうしたものか…さっき一応ナースコール押したけど、人の気配が全くしないんだよな…。移動にも支障ないし、ナースセンターに行ってみるか…?うん、そうしよ。

 そうと決まればさっそく向かう。病室の扉を開けて廊下に出るが、声どころか足音も物音すら全くしない。ペタペタと自分の裸足で歩く音だけが響く。


 …正直不気味だ…静かすぎて怖い…


 「…腹減ったなぁ…」


 数日は流動食からかなぁ…なんて思ったけど、今の僕は点滴も栄養剤入れるための管も設置されていなかった。…ということは実はそんなに寝てないのだろうか…?絶食で輸液もしないで長期間寝ていたら身体が持たないし…いやでも髪の毛すごい伸びてるんだよな…

 謎が深まる中、奥にナースセンターが見えてきた。誰か手空いてる人いるかなって思いながらカウンターを覗いた。


 「…誰もいねぇ…」


 噓でしょ?患者ほっぽってどこいった??カンファレンスでも一人くらい残るんじゃないの?


 病室にもナースセンターにも誰もいない。詰んだ…


「あ、電話借りれば…」


 今の状況を家族に伝えれば来てくれるかもしれない。ナースセンターにおいてある電話を使い、家の番号を入力する。

 だが、電話口から聞こえる音はなく、ただ無音が続いた。つまり繋がらない。


「…電話線は…切れてない?!なんで繋がらないの?!」


 受話器を戻し窓から外を見る。電話が繋がらないなんて、電話線が切れているか電波の届かない所にいるかしか思いつかない。でも、窓から見える景色は見慣れた街並みだった。人や車が動いているし、特別何か起きた感じはしない。


 電話は繋がらない、1人も見かけない…もうこれは院内動きまくって誰か見つけるしかなさそうだな…これで勝手に動き回るなとか言われても僕は悪くない。だってナースコール押したし、誰もいなかったもん。

 そう自分の中で言い訳を並べまくった。…ということで、


「ひとまず1階のロビーに行ってみよう。」


 階段を降りて下へ向かう。エレベーターは反応しなかった。電気点いているのに。一応身体のことを考えて駆け足で移動するのは止めておこう…。


「…何の匂いだろ…これ…」


 下に向かうにつれて、嗅いだことのない匂いが鼻をかすめた。少し生臭くて、少し鉄に似たような…でも、何とも言えないものが疼く感覚がふつふつと湧き出てくる。


「あ…」


 たどり着いたフロアの白い壁に赤黒い液体が付いていた。血だ…


 恐怖で足がすくんでもおかしくない。こんなところに血がべったりとつくことなんて、普通はありえないんだから。でも、足はその先へ向かう。


 …床は赤く染まっていた。脚が汚れていくのも構わず、どんどんロビーの方へと進んでいく。奥に進むにつれて、血の量と匂いは増していった。そして、エントランスに辿り着いたとき、鼻の奥をつんとさせる匂いが一気に強くなった。



「……」


 誰もが目を疑う光景が広がっていた。

 誰もが目を瞑りたくなるような光景が、誰もが叫びたくなるような光景が、僕のに映った。

 そこは凄惨な光景が広がっていた。


 床も、壁も、白いところほとんどが赤く染まっていた。床に倒れている人、壁にもたれている人…ある人は苦悶の表情を浮かべ、ある人は子どもを守るような体制で固まっている。


 口の中が渇き、ごくりと、僕の喉は動いて唾液を飲み込んだ。


「…誰か、いないの?」


 どくどくと、心臓が嫌でも早くなる。脚にまとわりつく液体、耳に届く水音、何とも言えない匂い。身体に入ってくる情報の何もかもが気持ち悪い。


「…うぇっ…」


 咄嗟に口元を手で覆い、せりあがってきた嫌悪感を引っ込める。腹の奥から、不快感とは別のものも、こみ上がってくる…だめだ、これ以上ここにいたら…



 ぐうぅ……



「……」



 …こんな状況で腹が鳴るって、僕の身体空気読めよ…食欲なんて…



『お腹空いたでしょう。』



「!?」



 突然声が聞こえた。辺りを見渡すが誰もいない。それにしてははっきりと声が聞こえた…どこに隠れているんだ?



「誰だ…?生きているやつか?どこにいる?」


 受付カウンターを飛び越え、カウンターの下を覗いたり、近くにある扉を開けるが、人の姿は見えなかった。


『腹の奥から、何とも言えない感覚がこみ上がってきているはずだ、お腹が空いて、喉が渇いてしょうがないだろう?』


「くそっ…!一体どこに…」


『はは、どこを探しても見つからないよ、君とは違う所にいるからね。ねえ、ちょっと血舐めてみようよ。そしたら渇きも空腹も紛れるかもしれない…』



「…は?どこにいるかも分からない奴も戯言なんて聞くわけないだろうが、頭湧いてんのか?」


 何が血を舐めるだ…気持ち悪い…いくら喉が渇いているからって、人の血を舐めるなんて発想にはならないだろう。どこかで水道を見つけて水を飲めばいいだけだ。


「……返答しなくなったな。」


 さっきまでの、どこから話しかけているのか分からない不気味な声は聞こえなくなった。聞いたことのある声だった気がするが、どこで聞いたのか分からない。


「…水…」


 空腹と喉も渇きに触れられたせいか、それがひどくなってきた。厨房…とか、食堂はどこだろう…そこに行けば水が飲める。


「…このフロアの奥の方か。」


 院内マップを見て場所を確認すると、脚が汚れることも気にならなくなり、僕は食堂へと急いだ。




 ***************


「はぁ…はぁ…」


 ジャー―…と水がシンクを流れる。コップに水を注ぎ口にするが、喉が潤わない。結構な量を飲んでいるのに、一向に喉の渇きが消えることはなかった。


「くそっ…!!」


 どれだけ水を飲んでも収まらない渇きに苛立ちが募り、思わずコップを下に叩きつけると、あっけなく粉々に割れた。


「なんで…っ」


 空腹も同様で、水を飲んでも胃が満たされる感覚が全くしない。なんなら腹の虫が元気に鳴っている。


「腹減った…喉も…だれか…」


『だからほら、血を…』


「あ”あ”あ”あ”あ”うるせぇ!!!!喋りかけるんじゃねぇ!!!!」


 また聞こえてきたあの声に、思わず叫び耳を塞ぐ。


『我慢するなよ、限界のくせに。』


 なんで耳を塞いでも、耳元で囁かれているみたいに聞こえるんだ…!?何度も何度も血、血、血、ああうるせぇ、気色わりぃっ…!!!!


「黙れ!!!!!!」


 そう叫んだ瞬間、食堂に設置されている窓ガラスが割る音と同時に、僕の意識は揺らぎそのまま暗転した。


『あーあ、そうやって逃げるんだ。』



 ***************



 意識が浮上し眼を開けると、白い天井と蛍光灯が見えた。……夢、だったのだろうか…。

 ゆっくりと首を動かし、見渡せる範囲で周囲を確認する。腕を見ると点滴の針が付いており、周りには他の患者達がいた。他にも人がいる、その事実だけでもホッとした。


「ラフィエル!?」


 病室に入ってきた青年が僕の名前を叫んだ。僕と似た顔立ちをし、僕と同じエメラルドグリーンの瞳がこれでもかというくらい大きく開いてる。ひどく久しぶりに顔を見た気がして、視界が滲む。


「兄貴…」


 勢いよくベッドから落ちた僕を見て、兄貴は慌てて僕を抱きしめる。温かい…安心する…嗅ぎ慣れた兄貴の匂いに包まれて、涙がさらに零れる。


「おぉい…お前、起きてすぐそんな泣いたら水分無くなんぞっ…!」


 周りへの迷惑なんて考えず僕はしばらく泣き続けた。やっと落ち着いたときは申し訳なさと恥ずかしさで死ぬかと思った。落ち着いたところで、兄貴は僕を抱えてベッドに戻す。


「お前が目ぇ覚まして本当良かったよ。このままずっと眠ったままだったら植物状態って診断されるところだったんだぜ、お前。」


「え」


 目覚め一発目からとんでもないこと告げられた。そのずっと、ていうのは一体あとどれくらいの猶予だったんだろ……うわ、自分で考え始めておいてゾワッとした…。


「…ねぇ、兄貴、僕…事故に遭ってからずっとこの病院?あと、僕はどれくらいの時間寝てた…?」

「あー…いや、今いる病院は2院目だ。あと、お前が寝ていたのは4週間。」

「……なにか、あったの…?正直、事故に遭った瞬間からの記憶が曖昧なんだ…。」

「…起きたばかりだから、話すのは落ち着いてからの方が良いと思ったんだけど…聞きてぇ…?」

「うん。」 


 僕の返事に、兄貴は数秒唸って、分かった、と呟いた。


「結構刺激が強い内容になっているけど…まず事故当日のことから話すな。…あの日、事故に遭ったお前はずぐに救急搬送された。負った傷がでかくて結構やばかったらしい。」


「…ぇ…?」


 傷が、ひどかった…?


「救急搬送された病院で、お前はずっと眠ってた。…その5日後だ、病院で大虐殺事件が起きた。その時院内にいた看護師、医師、患者、その家族…全員が全滅…と思わせるほど悲惨な状況だった。でもそんな中…」


「…僕は生きていた……?」


「…ああ。」


 夢だと思ったあの光景惨劇は、夢じゃなかった。


「…俺は、お前が生きてくれていてすげぇ嬉しいよ。」


 何も言わない僕を見て、兄貴は優しく頭を撫でる。気持ちいいな…て思っていると、僕の腹の虫が鳴き声をあげた。


「ははっ!腹が鳴るなら大丈夫そうだな!」

「お腹減ったな…」

「いやぁ…さすがにしばらくは流動食だろうな。」

「だよねぇ…。」

「俺も腹減ったから売店で飯買ってくるわ。すぐ戻る。」

「何も食べられない空腹の僕の目の前でご飯食べるとか、どういう性格してんの?」

「じゃあお前1時間くらい俺いなくても良いか?」

「すぐ帰ってきて。」


 冗談だよ、かわいい弟だな、とさっきとは違って、わしゃわしゃと頭を撫でて兄貴は病室を出て行った。買い物には行くらしい。


「……」


 …気になる点が幾つかある。後で兄貴に聞いてもらおうかな…なんて、ぼーと考えていたら医者と看護師が慌てた様子で入ってきた。なんでも廊下ですれ違った兄貴が、目を覚ましたことを笑顔で報告したらしい。…そういえば、ナースコール押さずに話し続けてたな僕ら…

 医者は聴診器で診察を、看護師は点滴の調節をしている最中に兄貴がビニール袋を持って戻ってきた。そしたら看護師が、


「目を覚ましたならまずはナースコール押してください!嬉しくて話し込んじゃう気持ちはわかりますが!!」


 と、病院とは思えない声量で兄貴に怒ってた。


「すいません…。」


 やっぱ兄貴は兄貴アホだった。



 ***********************



「すげぇ怒られた…」

「まあ、兄貴だし?」

「お前それどういう意味で言ってんだ??」


 貼り付けたような笑顔でそう言ってくる兄貴を見て、思わず笑ってしまう。この顔は若干キレてますよ、っていうときにする顔だが、久々に見た今はそれすらも愛おしい。

 なーに、笑ってんだよ、と軽くデコピンをして黒い炭酸の清涼飲料水を飲む。


「…ねぇ、兄貴。ちょっと気になることがあってさ…」

「ん?」

「さっき、事故に遭った時、僕はひどい傷を負っていたって言ってたよね?」

「ああ、言った。」

「…僕、その搬送された病院で目…覚ましたんだけど、何の痛みも傷跡も無かったんだ。」


 窓の外を見ていた顔を兄貴に向けると、兄貴は固まっていた。


「…は…?え、おま…目、覚ましたのか…?」


「うん。でも、目が覚めたとき、病院は血だらけだったから、その事件の後だったんだと思う。」


 それでも、なんで犯人は僕にとどめをささなかったのか分からないけどね。


「…そういや、お前包帯とか全然してねぇな。」

「うん、見た感じ傷もないし…あ、背中は?何か貼ってる?」


 病院着を捲って兄貴に背中を見てもらう。だが、兄貴は何もねぇな…と呟いた。


「…搬送されて5日であの事件…たった5日でそんな綺麗に傷治るもんなのかなって…」

「…それか、お前の治癒力が半端ないかだな。」

「全然面白くない…。」

「そこはのれよ…。」


 …携帯が鳴り、兄貴は取り出し応答した。

 会話の内容からして母さんだろう。


「…ん、ああ、分かったよ。…ラフィ、俺そろそろ家戻るな。」

「うん。」

「明日また来るから。」

「兄貴、学校は?」

「ちゃ、ちゃんと行くよ。帰りに寄る!あと、母さんたち、今警察との話に追われているんだけど、それも終わるっぽいから、明日にでも三人で来るな。」

「ん。」

「それとな。その…加害者、逮捕されたから。安心しろ。」

「うん。」

「ごめんな、気づいてやれなくて…」


 僕の頭を胸に押し付けた。とくとくと兄貴の心音が伝わってくる。


「もう大丈夫だから、今度こそ守るからな。」

「…ありがとう、兄貴。」


 兄貴は背伸びをし、僕の頭を撫で回し、ビニール袋を持った。


「うし。じゃ、また明日な。」

「うん。」


 病室から出ていき、自分と他の患者だけになった病室に静寂が訪れる。空はオレンジ色に染まり始めていた。



 ***************


「うん、大丈夫そうだね。」


 50過ぎであろう医者が聴診器を外し、書類にペンを走らせ、パソコンのキーを鳴らす。次の日、病室を出て散歩しようとしたら看護師に止められ、そのまま診察室に連れてこられた。


「昨日目が覚めたのに、今日出歩こうとしてるって聞いて驚いたよ。僕たちが大丈夫だと判断する前に活動量増やそうとするのは危険だよ。」

「…すいません。」


 不貞腐れた返事をしてしまい、慌てて訂正する。ちらりと医者を見ると、元気そうで良かったよ、と笑って流してくれた。


「なにか心配事とか無いかい?」

「あー…どれくらいで退院出来ますか?」

「んー…怪我の状態も良いみたいだし、早くてあと一週間くらい…かな。点滴は、食事で十分に栄養を補給できるまでしておく形になる。」


 今日から流動食始まるよ、と付け足し診察は終了した。

 許可も出たことだしと、少し院内を散歩して病室に戻った。昼時を狙って戻ったため、僕のベッドにテーブルが設置され流動食が丁度置かれていた。


「あ、リーさん!先生が良いよって言ったからって、急に動きすぎるのも危ないです。少しずつ動く時間を増やしていきましょう。」


 リーは僕の苗字だ。看護師に軽く怒られながらベッドに戻る。流動食が乗せられたトレーには、2錠の錠剤も置かれていた。


「…これ何の薬ですか?」

「ビタミン剤よ。点滴の方はビタミンが入っていないものに切り替えたから、錠剤で補う形になったの。」

「ふぅん。」


 医療については知識があるわけではないので、納得するしかなかった。そういうものだと。

 素直に出された食事と錠剤を口にし嚥下する。


「今日と明日は流動食、明後日からは軟菜食…そんな感じで食事の形態が変わっていくわ。」

「明日もコレか…」

「ふふ、退院したら、お母さんの作ったご飯がたくさん食べられるわ。少しの辛抱よ。」

「むぅ…」


 こうして僕の入院生活が始まった。


 **************


「今日から軟菜食です。あと、このパックは補助食品のドリンクよ。」


 流動食を卒業し、食事は軟菜食に移行した。トレーには魚や煮物…形のある食事が乗っている。それだけで僕は涙が出そうになった。そのトレーの中に、見慣れない牛乳パックのようなものもあった。


「補助食品…?」

「1日3食だけじゃ補え切れない栄養素が摂れるようにって作られた食品のことよ。飲むヨーグルトみたいに、色々なフレーバーがあるの。今日はコーヒー風味ね。」

「へぇ。」

「食べ終わったら、お薬も飲んでね。」


 そう言って看護師は他の患者にも食事を渡し出て行った。

 僕は医療について詳しい知識は持っていない。疑問に思って聞いても、専門職の人の返事を聞いたら、納得せざるを得なかった。


 だから、これまで2錠だったビタミン剤が、2.5錠…3錠と少しずつ増えていることにも、点滴パックが小さくなっても中々外れないことにも、何度聞いても言いくるめられている気がしても従うしかなかった。



 そして、当初言われていた「早くても退院まで一週間くらい」の予定はズレていき、二週間経った。


 そして今、僕の身体には異変が現れてきた。


 …しくしくと頭が痛む。周りの音がいつもより大きく聞こえ、目に映る景色も人の動きも普段よりゆっくりに視えていた。


 兄貴は学校で、両親はチラッと顔を見せ少し話をすると、教育委員会との話があるからと去って行った。誰かと話していると、頭痛も視覚と聴覚の違和感も気にならなくなったが、集中することがなくなると再びその違和感と鈍痛が襲ってくる。

 ベッドに横になり、深く呼吸をする。

 少し眠ればマシになるだろうか。そう思って目を瞑るが、頭痛と耳に入ってくる音が不愉快で意識が中々落ちない。


「ふぅ…ふぅ…」


 深呼吸を繰り返し酸素を十分に体に取り込むが、収まる気配がまったくしない。それどころが頭痛がどんどん強くなってきて、僕は次第にベッドの上で悶え始めた。


「ううぅぅうう…!はぁっ…はぁっ…!」


 呼吸で堪えていたものが、次第に声になって漏れ出す。僕の様子に他の患者が何か言っているが、何を言っているのか分からず、その声すら大きく響いて、鈍痛となってさらに僕を苦しめた。

 どくどくと、頭でも脈を打っているのを感じる。身体が暑い、音が響く、頭が割れそうだ。


「あ”ぁ”っ…!いゃだ…!うるさいっ…!頭が…」


 痛みがひどくて、どうにかその痛みを紛らわそうと暴れずにはいられなくて、僕は絶叫した。

 そして酸素が回らなくなったのか、身体が疲弊したのか、ぷつんと意識が途切れた。



 **************


 …………………

 ……………

 ……


 意識が戻り、何度か瞬きを繰り返して覚醒させる。

 ゆっくり身体を起こすと、少し頭がクラクラした。頭痛が収まるまで眉間を抑え、落ち着いたところで辺りを見渡す。意識を無くす前にいた病室とは違い個室に移されたようだった。壁、床、天井、良く分からない器具と機材…何もかもが以前の病室よりも白く、無機質さが強く感じられる。

 身体に違和感を感じ、確認するとやたらコードの付いたワッペンや点滴の針が腕に付いていることに気が付いた。頭にも何か器具が付いている。


「え、なにこれ…?!」


 まるで重傷者のように、または実験体のように付けられているその器具を見て、異様な恐怖が沸き上がった。

 片っ端からワッペンを剥がしていく。簡単に糊で付けられていたそれは簡単に外れ、頭に付けられていた器具も外して投げ捨てた。

 乱れていた呼吸を整え、外したワッペンに繋がるコードを辿る……頭の器具も含め、コードは全て機材に繋がっていた。

 一体何のための機材なのか、何のために付けられていたのか…集中治療にしては医療器材らしくないものに見えるそれに恐怖心が増えるばかりだ。


 ……腕に刺さる点滴の針を見つめる。チューブの先にあるスタンドにぶら下がる点滴は、一体何の点滴なのか分からない。いたって普通の点滴なのだろうが、周りにある機材や付けられていたワッペンを見ると、嫌なものなんじゃないかと疑ってしまう。


 怖い

 得体の知れないものだったらどうなるんだろう

 どれくらい意識を失っていたんだろう

 帰りたい


 さまざまな思考が渦巻く。


 ………僕は腕に刺さる針に手をかけた。ゆっくりと抜き、それを床に投げ捨てた。キン…と小さい音を鳴らしたが、その音が大きく響いたように聞こえた。

 勝手に針を抜いたらだめなのは分かっている…けど、自分の心を落ち着かせるためには外す以外考えは無かった。

 カチャン、と音がし扉が開けられた。その音に反応し顔を扉に向けると、よく食事を持って来ていた看護師が立っていた。


「リーさん、目が覚めたのね。」

「……」

「…勝手に針取ったらだめじゃないですか。怪我はないみたいだけど、失敗すると大怪我していたかもしれかったんですよ。」


 付け直しますから腕出してください、そう言う看護師に僕は答えなかった。両腕を抱え込み、抵抗の姿勢をみせる。


「…リーさん。」


 看護師が僕の腕に触れた…また得体の知れない輸液を入れられる、そう判断した途端、僕はその手を払いのけた。


「いやだ!やめろ!僕に触るな!!」


 僕の行動に驚いたのか、看護師は目を丸くし新しく針を出していた針を床に落とした。その拍子に指を切ったのか、手のひらから腕を伝って、血が流れる。それを見て一瞬そこに釘付けになったが即座に顔を背けて言葉を零す。


「なんなんだよ…周りにある機械も、至る所についていたワッペンも、頭の器具も…その輸液だって何のために…」

「リーさん…」

「大体…なんで部屋に鍵がかかっているんだよ…今お前開錠したよな…?」

「……」


 ひどく困惑した表情で何も言わず、ただ僕を見つめてくる看護師に、ふつふつと怒りが湧いてくる…


「…お前に言っても無駄か…看護師だもんな…」

「……」


 じゃあ担当医出せ…そう言おうとしたが辞めた。そう言っても、どうせ教えてくれないだろうという判断が僕の中で下された。


「…出てけよ…」


 何も言わず、居心地の悪そうな顔でいる彼女に僕はそう言った。怪我をしたであろう所を視界に入れず、顔だけを見て…


「出てけよ!!」


 そう叫んだ。


 ………………

 …………

 ……


 床に外したワッペンが散らばる部屋で、僕は荒い呼吸を繰り返す。彼女は部屋を出ていかなかった。未だ、荒い呼吸を繰り返す僕を見つめている。


「はあっ…はあっ…!」


 僕の眼は彼女のに釘血に釘付けになっていた。少量ではあるが止まることなく流れ出る細く赤い線…それは床に小さな血溜まりを作り始めている。


 目が離せない

 呼吸が落ち着かない

 口が、喉がひどく渇く

 唾液を飲みこんでも、喉の渇きが和らぐことはない


 なんで、なんで血から目が離せないんだろう

 なんで、甘そうで、どことなくハーブのような香りがするんだろう



『舐めなよ。欲しくて欲しくて仕方ないんだろう?』


 …まただ、またあの声が訳の分からないことを言ってくる。


『水じゃ潤わないんでしょ?ほんの試しさ。ほんの一滴だけ。』


 うるさい

 黙れ


『我慢するなよ。』


 黙れ黙れ黙れ黙れだまれだまれ!

 やめろ

 それ以上言うな

 やめろ…やめろ…!


 耳を塞ぎ、必死にその声を無くそうとする


『我慢したって無くならないのに、それでも我慢するなんて馬鹿だなぁ』


「リーさん。」


 ふと、身体が温かいものに包まれる。それが彼女だと気づくのに時間はかからなかった。


「放せ…」


「確かに私は、経験も浅いしがない看護師です。医療において、まだ主張を強くぶつけられません。それでも、私は…」


「放せ…!」


 彼女を突き放そうと押しやるが、子どもの僕の力は大人に敵わず、彼女はもっと僕を抱き寄せる力を強めた。

 薄っぺらい言葉なんて聞きたくない、でもそれ以上に


 甘そうで、どことなくハーブのような香りが一層強くなった時には、思考よりも身体が先に動いていた。

 ふわりと、口から鼻腔へとその香りが移動する。

 腕を伝う血を舐め取り、そのまま出血部位の指に吸い付く。


『美味しい?ずっと我慢していたもんね。』


 その声を聞いて思わず彼女を突き飛ばした。


「あ…」


 さっきまで感じていた爽やかな風味と味覚はもうない。口に残っているのは鉄のような味。血を口にした、そう理解した途端強烈な吐き気が僕を襲う。


「うぇっ…!」

「リーさん…!?」


 胃のものを戻した僕を見て、唖然としていた彼女が駆け寄り僕の背中をさする。


「みず…」

「お水ね!ちょっと待っていてください!」


 彼女は慌てて洗面のところに行き、コップに水を入れ口をゆすぐための小さな入れ物も持ってきた。

 コップを受け取り僕は口をゆすぐ。

 何度も何度も

 口に残る鉄の風味が消えるまで繰り返し、数杯分の水を飲み込む。


「はぁ…はぁ…」

「…落ち着いてきました?」


 優しくそう言う彼女の言葉に小さく頷く。よかった、と呟くと僕を支えて立ち上がる。体力を消耗してしまい反抗する気力が無かった僕は素直にベッドに座った。


「今日はもう休みましょう。」


 そう言って横になるよう促されるが、また器具を着けられると思い僕は従わない。


「…大丈夫、今日は付けないから。」


 そう言われても信じられなかった。ってことは、明日は着けるじゃないか。


「私が、なんとかします。患者さんが苦しんでいるのに、仕事だからって見逃すのはもう嫌だから…」


 半ば無理やり横にさせ、布団を丁寧にかけた。床に散らばるワッペンをまとめるが、そのまま床に放置した。

 その様子をじっと見ていたことに気づき、彼女は眉を下げて微笑む。


「おやすみなさい、リーさん。また明日。」


 そう言って、彼女は本当に器具を着け直すことなく部屋を出ていった。



 **************


 次の日、目が覚めて身体を確認したが、変わらず器具は着けられていなかった。目静まった頃を見て着け直すと思っていたのに、本当に着けなかったのか。

 ベッドを降り窓に近づく。窓に鍵は付いておらずはめ殺ししなっていた。ぽけっと僕は外を眺める。朝の澄んだ青空に、まだ少ない人通り…なんてことのない風景を前に、僕は家に帰りたいと零した。


 その時だった


 部屋の外から乾いた発砲音が鳴り響いた。その直後に、人の叫び声も遠くから聞こえ始める。


 何が起きているのだろう。扉を開けようとするが、施錠されていて部屋から出ることができない。


 また発砲音がした。

 今度は連続して鳴り始める。二回、三回、四回…

 回数が増えるにつれ、聞こえていた叫び声の数が減っていく…


 ……少し時間が経ち、音がほとんど聞こえなくなると、カツン…と足音が代わりに聞こえ始める。その音は次第に大きくなり、こちらに近づいてきていることを示唆していた。


 怖い

 一気にその感情に支配される


 ガチャン、鍵が開錠させる音がし、僕は慌てて扉を離れた。心臓が大きく脈を打ち、身体に緊張が走る。ここにいたらダメだ、そう脳が判断しても、部屋からは出られない状況に身体がかたかたと震え始める。


「リーさん…!」


 開かれた扉から現れたのは、昨日の看護師彼女だった。

 院内の人だった、その事実にホッとし、その場に座り込んだ。深く息を吐き心臓を落ち着かせる。


「ここから逃げます。そしてそのままご自宅に行ってください。」

「…え?」

「時間がない、ここもいつ襲われるか…」

「何が起きて…」

「…知らない集団に襲撃されています。」

「……」

「彼らの目的は分かりませんが、病院ここに居たら確実に危険です。リーさん、走れますか?」

「…うん」


 そう答えると、彼女は行きましょう、と言って僕を支えるように肩を持った。


「…いや、1人で平気…」


 歩きにくいし…そう伝えると彼女は笑って離れた。

 扉から廊下に誰もいないことを確認し、部屋を出て僕らは走り出した。


「この先に非常階段があります。そこから…」

「…さっき家に行けって言ったけど、どういう吹き回し…」



「いやああああああ!!!!」


 どちゃっと音がし、廊下の角から血だらけの患者が倒れ出てきた。その奥には看護師ともう1人の患者がこちらに向かって走っていたが、発砲音が鳴り響き2人は倒れ動かなくなった。


「きゃっ…」


 声をあげそうになった看護師の口を塞ぎ来た道を戻ろうと促す。

 2人が倒れた廊下をちらりと確認すると、スーツを着た者と、戦闘服を着た数人の兵士らしき人間が手に銃を持っているのが見えた。スーツの方は手に警棒のようなものを持っている。その姿はどこか見覚えのある装いだった。


「(あれって、国境とか検問所でよく見る警備兵じゃ…)」


 スーツの人間がこちらを見た。


「やばっ…!」


 姿を確認されてしまった。


「リーさんこっち!」


 看護師が細い廊下の奥にある壁から隠し扉を開けていた、その先には階段が見える。

 僕は急いで彼女の元へ向かう。


 パアンッ…と乾いた音が響いた。それと同時に右肩あたりに激痛が走る。


「いっ…!」


 右肩に熱が集中し始めると同時に、脚にも鋭い痛みが走った。

 脚の力が抜けバランスを崩す。

 倒る…そう思ったが間一髪で看護師が僕の身体を支え壁の向こう側に入れてくれた。彼女は急いで壁を戻す。


「脚…」

「リーさん…!傷見せ…」

「いぃ…!ここから、出るのが先…!」

「だめよ!銃弾が当たった所みせて!」

「時間、ない…生きているの、バレてる…」


 脚を見ると針のようなものが突き刺さっていた。数回深呼吸をして、それを引き抜く…血が少量噴き出たところを、彼女がハンカチで素早くきつく巻いた。


「ハンカチ…」

「何も巻かないよりいいわ。」

「……」

「…行きましょう。」

「…ん」

 立ち上がると脚に激痛が走りよろけてしまったが、なんとか持ち直す。ゆっくりと階段を降り一階を目指すが、下に行くにつれ鉄のような匂いが鼻を刺激し始める。


「……は…」


 身体がうるさく脈を打ち始める。撃たれたからじゃない、この匂いが強くなり始めてからだ。喉が急に乾き始め、胃も微かに動き始める。


「リーさん、あとは出口を通るだけですよ。もう少し頑張って…!」


 強い枯渇感と空腹感。視界はぼやけ始め呼吸も荒くなっていく。脂汗がにじみ気持ち悪い。


「…リーさん、もう少しです…!」

「はあっ…はぁ…」


 非常階段の扉を開けて出口へと向かう。視界に入ったエントランスは、普段の病院の姿とは比べ物にならない光景になっていた。漂う血の匂い、飛び散る人であったもの…そこにあるもの全てが僕を強く刺激する。


「う…」

「リーさん!」


 苦しくてその場に膝をついてしまった。カラカラになった喉、なにかを欲する腹、そして蘇る前の凄惨な光景…


「リーさん、立ちますよ、せーの…!」


 看護師が僕の腕を肩に回し支えるが、力が入らず立つことさえできなかった。


「無理…っ、も、我慢できな…」


「我慢しなくていい。」


「…!?」


 廊下で見かけたスーツを着た奴が僕の前にいた。いつの間に追いついたのだろうか。


 殺される


 全身で警報が鳴り響いたが、身体は動かなかった。身体は分かっているのに、言うことを聞いてくれない。

 せめて彼女だけでも…そう思い彼女を見たが、彼女はうつぶせで倒れていた。

 う…と小さく彼女の唸り声が聞こえ、まだ生きていることが分かり少しほっとした時だった。

 スーツの男はしゃがみ僕の顔を掴んで上を向かせると、ぱしゃ…と僕の顔に液体をかけた。額を伝い、少量口に入りその液体の正体を知る。


 鉄のような香りが口内を支配する。血だった。


「う…ぁ、ぃやだ…」


 顔を掴む男の手を叩き落とし、力を振り絞って僕は走り出した。走る…といってもすぐに追いつけてしまえそうな速度だった。


「はぁ....はあ....!」


 苦しい…暑い…熱い…


 とうとう足から力が抜け、その場に倒れこんでしまった。

 視界が歪み、意識が薄れていく。その中で、目の前に黒い靴とズボンが現れた。

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