筆に生かされ

有くつろ

筆に生かされ

 筆に撫でられるようにして生まれた。

筆が僕の身体をなぞる度、僕は僕に近づいていると感じる。

この筆の先に居る絵描きが想像している、僕に。


 描かれた者は動けない。しかし不自由は感じない。

人に見られる事が生きる意味だと思っている。

自分の思うままに動きたいなんて思わない。

思わないように、生まれてきた。


 僕が描かれた絵は青が基調になっている水彩画だった。

僕の瞳は外を向くように絵描きが描き込んだから、周りを見る事は出来ないけれど、迫ってくる筆先はいつも深い青色に染まっていたんだ。


 僕は海の絵だと思った、どこまでも続く深海の絵。

彼女が選ぶ色はいつも見惚れてしまう程美しいんだ。

彼女に描かれて良かったと心から思う。

しかし、僕と違って望んでもない絵の中に生まれてきてしまった者は、絵の中から脱出する事もある。


 例えばこの男のように。

「つまらないと思わないか?動けない、話せない、息すら吸えない。頭だけがただ働き続けて、絵を見てくれる客が視界に入れば喜ぶ。一種の洗脳じゃないか」

彼は絵描きがキャンバスの前を離れる度僕の前に現れるピンクの騎士だ。

描かれたものは人間には見えないのに、騎士はいつも作者が来ると逃げる。

作者の色選びが気に入らなかったらしい彼は、いつも僕に逃げるよう促すんだ。


 「額縁の中で色褪せるまで過ごすなんて息苦しくないか?」

そんな事は無い、僕は幸せだ。

でも話せない僕は、彼の話をただただ聞くことしか出来ない。

「期待は罠だ」

彼は言った。

「こんな絵になるのかな、なんて僕らが想像していたらキャンバスをいきなり切り裂く絵描きだって居るんだ。自分が描いた絵を愛さないなんて人外としか思えない」

君も人外だけどね、と心の中で呟く。

「出て来たくないなら良いけどね、君の親、キャンバスを白く塗りつぶしてしまった事があるみたいなんだ」

彼は今のはひとり言さ、と残して消えた。

 僕は彼の話を聞いてもなんとも思わなかった。

彼女はとても繊細な絵を描く人だ。そんな事はしない、どうせハッタリだろう。


 騎士が去った直後、彼女が戻ってきた。

スマホを見ながら重い溜息をつく彼女。

スタスタとキャンバスに歩み寄り、椅子を引いて座った。

そしてスマホを見ながら大きな筆を持つ。


 筆先の色を見た僕は、何をされるか分かっていたのかもしれない。

それでも逃げ出さなかったのは、きっとこの絵に、彼女の色に、心酔していたから。


 彼女は僕を真っ白に塗りつぶした。

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筆に生かされ 有くつろ @akutsuro

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