夢と現実の雨
増瀬司
夢と現実の雨
雨が好きだ。
静かな雨音と、冷たく湿った雨の空気が。
そして、藍色に染め上げられた世界が。
雨の日は、私の中の感受性が甦る。私の中の「生」が静かに、しかし確かに躍動する (おそらくそれは、私の中のアニマなのだろう。根拠はなく、ただそんな気がするだけだ) 。
私はある一時期、離人症のようになっていた。
感情を感じられず、死んだように生きていた。混濁とした何かに包まれていた。もしそれを可視化できるとしたら、グレーがかった、白濁色だろう。
私の心は奥行きを失くし、私の世界からは重みが消えていた。言い換えれば、私の心と世界は、平面的になっていた。(私は、その状態から回復したことで、初めてそれらを失っていたことを知った)
私は、ある出来事がきっかけで、自身の記憶や感情を、自らから切り離していた。現在と過去の苦痛に、耐え切れなかったのだ。
その死んだように生きていた頃、私はある夢を見た。
私は、どこかの日本家屋の中にいた。
趣のある、古く大きな屋敷だった。
私はその屋敷に、以前、来たことがあった気がする。おそらく、祖父母の家の近所にあった家だろう。私は子供の頃、その家に遊びにいったことがあった。その夢の日本家屋は、その家がモデルなのだろう。
その夢の中の屋敷には、知人の女性がいた。
昔いた職場にいた人だ。綺麗な人だった。ほっそりとした身体つきの。
その人は、私より歳上だったが、どこかあどけなさを残していた。子供のような傷つきやすさが見え隠れした。そして、無防備な感じも——。
そのころ私は、彼女に対し、好感のようなものを抱いていた。しかし、私は当時、そのことを特に意識してはいなかった。
その夢の中で、彼女は、私の従姉という設定だった。
私たちは、その屋敷の、居間のような部屋にいた。床は畳だっただろう。その屋敷に、私たちの他に誰かがいる気配はなかった。
開かれた障子の向こうには、廊下が左右に伸びていた。
その廊下に沿った雨戸は全て開かれていて、庭の全容を見ることができた。
日本庭園だった。木々と草、苔で、庭は緑で溢れていた。石灯籠と手水鉢が見えた。
外では雨が降っていた。降っているのか止んでいるのか、よくわからないような雨だった。あるいは、断続的に降り続いているようなそれだった。
庭の木々や草が、雨に濡れて、ムッとするような匂いを辺りに放っていた。
私たちのいる部屋にも、その木々や草の匂い、そして雨の匂いが、充満していた。
私たちは、その庭に面した廊下で、何か性的なことをし始めた。服を着たままで。どちらからともなく。私たちは、その流れに——ほとんど必然的に——身を任せた。
そのことに対し、私の心には、抵抗と罪責感があった。彼女は私の従姉 (という設定) であり、彼女には夫もいるのだ。
一方で、静かな雨の音と、雨の匂いが、私の心をとてもリラックスさせていた。心にこびりついた汚れを、洗い流してくれているかのようだった。私は、それらとその行為に身を委ね始めた。私の心と身体は、静かに、清らかな何かに満たされていった……。
庭の竹垣の向こうに、見知らぬおじさんが立っていた。
近所を散歩しているような、普通のおじさんだった。年齢は、50代から60代くらい。彼は、ビニール傘を差していた。
おじさんは私たちのことをジッと見据えていた。何かに怒っているように見えた (おそらく彼は、私の超自我のメタファーなのだろう) 。
そのおじさんに気がついた私たちは、その行為をやめた。
彼女は気まずさと気恥ずかしさからか、顔を俯かせ、私から目を背けていた。長い睫毛を伏せて。
そこには、私たちの気まずさと、気恥ずかしさ、そして甘い余韻が——それらは入り混じり、渾然一体となって——強く濃く漂っていた。手で触れられるほどに。そこに永遠に、残り続けるくらいに……。
私が雨の日に思い出すのは、あの夢の光景と、そしてあの人のことだ。
私の中で、雨降りと彼女、そしてあの屋敷の光景は、強く結び付いているのだ。
彼女が、私の勤めていた職場を辞めるときも、丁度、そのような雨が降っていた。降っているのか止んでいるのか、よくわからないような雨が。あるいは断続的に降り続いているようなそれが。
彼女は帰り際、携帯で私を呼び出し、私たちは雨の中、向かい合った。お互い傘を差して。
やはり、そこも日本庭園で、静かな雨降りの音と、雨樋から流れ落ちる水の音、そして濡れた木々と草の匂いが辺りに漂っていた。そして、春の雨の湿った空気が、地上に満ち満ちていた。
彼女は職場をやめる数日前、私と会う約束を、それとなく取りつけようとした。しかし、私はそれを、それとなく断った。
私たちは、あれから一度も会っていない。会わないほうがいいと、私は考えた。それが、私たちの幸福になると思ったからだ。
たとえ、合理化だと言われようと、私にはそれが正しい判断だったように、今でも思える。
夢と現実の雨 増瀬司 @tsukasamasuse2
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