第一章「呱呱」 第10話

 前世とは違い、こちらでの旅は決して容易いものじゃない。

 だから、アーシェの『明日にでも』という言葉は意気込みの話、実際の出発は数日後になる。

 そう思っていたのだけど、さすがはお姉様と感心すべきなのかな? あの後、即座にお父様の許可を取り付けたお姉様は、本当に翌日――つまり今日、出発できる手はずを整えてしまった。

 とはいえ、いつもの服に剣さえ佩けば準備が終わる私と、旅の準備だけをすれば良いアーシェとは違い、お姉様は学校へ戻る予定もある。それらの調整も含めて一日、いや実質一晩で終えるのはさすがに厳しかったようで、今日も早朝からバタバタと駆け回っている。

 そんなわけで、私とアーシェは二人、屋敷の前でお姉様の準備が終わるのを待っていた。

「お嬢様、緊張していますか?」

「うーん、多少は? 町から出るときは、いつもお父様たちが一緒だったし」

 私がまだ未成年だったこともあって、常に複数の騎士に守られている状態。

 少人数で出かけるのは今回が初めてで、そこまで危険はないと解っていても緊張はする。

 アーシェはそんな私に微笑むと、すすっと隣に移動してきて、流れるように腕を組んだ。

「確かにお嬢様と二人だけで町の外に出るのは初めてですね。胸が高鳴ります。心臓が早鐘を打っています。これが初デートのドキドキというものなんですね!」

「それは違う。きっと危険な場所に赴く緊張感から――って、欠片もドキドキしてないが?」

 腕に伝わるのは柔らかな感触。

 ドキドキどころか、わずかな鼓動すら感じられない。

「間に分厚いクッションが挟まっていますからね。衝撃吸収性は抜群です。お嬢様のように胸の内を直接お伝えできなくて残念です」

 うん、そうだね。多少の振動音は吸収するぐらいに分厚いね、私と違って。

「ん? 羨ましいか? 肩こりとも無縁やぞ?」

 私が呆れ混じりのジト目を向けると、アーシェはスッと目を逸らし、スラグハートを象徴する立派な街壁へと目を向けて、とても重大なことを告げるように重々しく口を開いた。

「シンクハルト領で誇るべき壁はあの街壁で、お嬢様の壁じゃないと、私は思うんです」

「さすがに壁じゃないが!? ――アーシェのような山脈じゃないのは、間違いないけど」

 私のドレスは身体の線が出にくい。

 しかしそれを差し引いても、私とアーシェの胸元の厚さが隔絶していることは明白である。

「私は丘陵ぐらいで十分だったんですけどねぇ。動きを阻害して戦闘訓練も大変ですし……結構苦労しているんですよ? もっとも、壁はさすがにアレですが」

「だから壁じゃないって。ねぇ、アーシェ? 私は気にしないけど、口は災いの元だよ?」

「もちろん、私がこんなことを言うのはお嬢様だけです。特別な方ですから」

「嫌な特別だよ……。まー、別に良いけどさ」

 こちらを見下ろして笑うアーシェに、私は苦笑して肩をすくめる。

 私に対する彼女の接し方は、なかなかに複雑だ。

 公の場では主従として、基本的にメイドの立場を崩さない。

 身内だけだとかなり気安く、お母様たちと一緒に私を子供扱いして可愛がることも多い。

 そして二人きりになると、また少し変わって、対等以上の大人扱い――というか、私の事情を知ることも理由なのか、年上に甘えるような素振りを見せることもあったりする。

 いずれにしろ、特別な人であることは間違いないんだけど……稀に面倒な人になることもある。

 ――そう、例えば今のように、お姉様に対抗意識を燃やすときとか。

「待たせたな。アーシェ、先ほど『二人だけ』とか聞こえたが、私もいるからな?」

 私とアーシェが話している時点で既に玄関にいたお姉様が、用事を終えてこちらに歩いてくるが、そんなお姉様の問いにアーシェはそっぽを向いて首を振る。

「聞き間違えじゃないですか? お嬢様とのデートに邪魔が入ったとか、考えていませんよ?」

「それ、滅茶苦茶考えているよな! 私がいるのは不満か?」

「不満とは言いませんが、当初の予定では二人だけでしたので。お嬢様がいずれ図書迷宮ライブラリに赴かれることは解っていましたし、私が図書迷宮ライブラリを案内するんだと張り切っていたりはしません」

「なるほど、だから準備が早かったのか」

 お姉様はアーシェの言葉に苦笑しながら納得したように頷く。いつも完璧なメイドさんなのであまり疑問に思っていなかったけど、すぐに準備できたのはそういう理由だったらしい。

「ま、今回は良いです。お嬢様の性格からして、今後も図書迷宮ライブラリを巡ることになるでしょう。学校が始まるシルヴィ様は、そのときには付いてこられません。私の独り占めです」

 アーシェが余裕を見せるようにそう言って笑うが、お姉様もまた笑って私の手を取る。

「ほぅ。ならば今回は、私がルミを独り占めしても良いということだな?」

「むぅ……、仕方ありません。退屈な学校へと戻るシルヴィ様への餞別としましょう」

 どうやら私の所有権は私にはないらしい。アーシェが残念そうに腕を放すと、姉様は私と手を繋いで楽しそうに歩き出し――すぐにアーシェを振り返ってニヤリと笑う。

「それからアーシェ。今後、ルミが他の図書迷宮ライブラリに行くとしても、付き人がお前一人だけというのは、さすがに許可しないと思うぞ? 親馬鹿のお父様が」

「――否定できません。私たちの邪魔をしない、それでいて使える護衛が必要ですね」

 背後でアーシェが深刻そうに呟くけれど……うん。『邪魔をしない』はどうでも良いよね?

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