第3話 『恋愛ごっこ』の始まり―誰だか分からなかった!

その月の最終金曜日の昼休みに沙知からメールが入った。


[上野沙知です。今週の土曜日の午後1時にJR原宿駅の改札口でお待ちしています。]


そういえば、明日は今月最後の土曜日だった。沙知との「恋愛ごっこ」の約束を思い出した。すぐに[了解]の返信を入れた。


まず1回目は原宿でデートか。人出も多いから、会社の誰かに見られることもないだろう。まあ、見られてもかまわない。あまり人が多ければ、明治神宮へでも行けばいい。


◆ ◆ ◆

約束の時間1時の15分前に着いた。1時になっても彼女らしい人影は現れない。沙知はここへ来たことがあるのだろうか? きょろきょろしていると、声をかけられた。


「あのー」


振り向くと綺麗で可愛い女子が僕に話しかけている。


「お待たせしました」


ええ、君を待っている訳じゃないけど、人違いじゃないのか? そう思って黙って周りを見回している。


「先輩、私です」


どこかで聞いたことのある声だった。


「上野です」


「ええっ、上野さん?」


あの太ぶちの眼鏡をかけていないから印象が全く違う。コンタクトに変えた? 眼鏡をはずした素顔を初めて見た。もともと、目も二重で鼻も低くはないと思ってみてはいたが、綺麗で整った顔だった。


カールした髪を肩まで垂らしている。着ている服もいつものリクルートスーツとは違っている。淡い水色のワンピースにグレイのベストがとっても可愛い。しゃれたバッグを持っている。まさか、これがあの上野沙知か? 信じられない。


「ごめん、全く気が付かなかった。いつものスタイルで来るものとばかり思っていたから」


「ちょっと、おしゃれしてみました。かっこいい先輩とせっかく『恋愛ごっこ』ができると思って」


「どうしたの? 会社の上野さんとは全く違う。こんなに綺麗で可愛かったんだ」


沙知は素敵なワンピースを着ていたし、靴もいつもの黒いシンプルなものとは違っていた。


「そう言ってもらえて嬉しいです。ここでは何ですから、歩きながらお話しましょう」


そう言って、先に歩き出した。僕はすぐに追いついて、それとなく手を繋いでみた。一瞬のためらいを感じたが、沙知は手を握ってきた。それからゆっくりと二人は人ごみの中へ入っていく。手を繋いで歩けないほど人が多い。


「これじゃあ人が多くて歩きながら話できないから、明治神宮の方へ行ってみようか? あそこならゆっくり歩けるだろう」


二人は黙って参道へ向かう。手はぎこちなくつないだままだ。沙知の可愛さに驚いてしまって、僕はなぜか緊張している。参道に入ると人が少なくなった。ようやくゆっくり歩けるようになった。


「話を聞かせてくれる」


「私の友人に相談したんです。誰とは言いませんが、もちろん女性です。彼女は会社ではすごく地味にして目立たない娘なんです。先輩から『恋愛ごっこ』に誘われた翌日に食堂で一緒になったので、月末に先輩とデートすることになったのでおしゃれしたいけど、どうすれば良いか悩んでいると相談しました。そうしたら良い方法があると教えてくれたんです」


「どんな方法?」


「上野さんは会社では地味にしているけど、いつもそうなのと聞かれたので、そうだと答えました。それなら、彼女がおしゃれの仕方を教えてあげるというの。彼女は会社では地味にしているけど、休日にデートをするときはおしゃれをしているそうなので」


「それで教えてもらったの?」


「ええ、まずコンタクトを持っているか聞かれました。持っているけど、使い心地があまり好きではなくて、会社では眼鏡にしているというと、休日にデートするときはコンタクトに変えるべきだと言われました。コンタクトの方が見栄えがいいからと」


「確かに眼鏡よりいいね」


「それからその週の土曜日にこの近くの表参道のヘアサロンに連れてきてくれたの、そこでヘアをカットしてもらい、最新のへアスタイルにしてもらいました。その仕方を覚えて、自宅でセットできるように練習するように言われました。でも会社では元のように後に束ねていることにしています」


「社内で何回か会っていると思うけど、変化には全く気が付かなかった」


「その方が仕事しやすいので。彼女は会社では地味にして、休日はおしゃれを楽しんだらギャップがあって面白いと言うの。先輩が変身した私を見てきっと驚くと」


「ああ、とっても驚いた。確かに休日はいつもとは別の自分というのは気分転換にもいいね」


「そのあとデパートの化粧品売り場で化粧品を選んでくれて、メイクのポイントも教えてもらいました。それからは自宅でずっと自分に合ったメイクの練習をしていました。会社では今までどおり薄化粧ですけど」


「すごくメイクがうまくなったと思う。上野さんの良さが引き立っている」


この前、ビヤホールで間近に見たけど、もともと目鼻立ちが整っていた。メイクをするとこんなに綺麗で可愛くなるんだ。女性はこんなに変る。我ながら見る目がないというか、彼女のこと見誤っていた。


「次の週末にはショッピングについていって、服の選び方を教えてもらいました。それとコーディネイトの仕方も実際の商品を組み合わせて教えてくれました。彼女が私に似合うと勧めてくれたワンピースやブラウスやスカートをいくつか買いました。今日はそれをコーディネートしてみました。帰ってから、今までの手持ちの服などのコーディネイトもしてみました。このごろはネットの商品を見ながらコーディネイトの練習しています」


沙知は思いつめると仕事でもなんでも猪突猛進、一途で分かやすい。それで上達も早い。そういうオシャレのセンスがもともと良かったのかもしれない。いつの間にか本殿の前まで来ていた。心地よい涼しい風が吹いている。


「お参りしようか?」


二人は階段を上って、お賽銭を入れて二礼二拍一礼をしてお参りをした。沙知は僕よりずっと長く拝んでいた。本殿を降りたところで聞いてみた。


「何をお願いしたの?」


「『恋愛ごっこ』が長く続けられますようにお願いしました。先輩は?」


「僕はいつも神仏にはいつもありがとうございますとお礼をいうことにしているんだ」


「どうしてお願い事をしないのですか」


「神様にお願いしても聞き入れてもらえるか分からないし、何ごともなるようにしかならないと思っているから。それに神様もお参りに来る全員からお願いされてもそれぞれ聞き届けるのは大変だろうし」


「そうかもしれませんが、たまたま聞き入れてもらえることもあるかもしれないので、ダメ元でお願いしてみてもいいんじゃないですか?」


「苦しい時の神頼みで、困ったことがあるときはお願いする。ただし、自分でやれることはすべてやり尽くしてから、最後にお願いすることにしている。『人事を尽くして天命を待つ』の心境かな」


「今は特に困っていることはないということですか?」


「まあ、ないことはないけど神様にお願いするほどのことではないというところかな。何事も他人に頼らず、自分に厳しくを信条にしているから」


「寂しくありませんか? それに何でも自分で解決できるとは限らないと思いますけど。私は自分で解決できないことを周りの人にずいぶん助けてもらっています」


「それを受け入れられるのが上野さんの長所なんだな。僕は少し肩肘を張り過ぎているのかもしれないね」


「頑張り過ぎです。でも先輩が私の力になってくれて感謝しています」


「自分には厳しく他人には優しく、困っている人には手を貸すことにしている」


『情けは人の為ならず』ですか?」


「いや、僕は見返りを求めてなんかいない。もちろん上野さんにも。僕に義理立てして恩返しする必要は少しもない。もしそう思うなら、上野さんの後輩に親切にしてあげてほしい。その方がよっぽどよい」


「私も困っている人には手を貸すようにしています。私におしゃれを教えてくれた彼女も1年前に入社してきたときに親切にしてあげたんです。それで仲良くなって」


「そうなんだ」


「おみくじを引いてもいいですか? 先輩は?」


「僕はいいから」


おみくじにはこだわりがある。本社へ異動になった時に近くの神社でおみくじを引いたら凶がでた。縁起でもないともう一度引いたがやはり凶だった。気味悪くなって、さすがに三度目は引かなかった。


それで凶事があったかというと覚えていない。なかったような気もする。ただ、異動一年目はいろんなことがあったので当たっていたようにも思う。ただ、その時の連続凶の印象が強くて、それ以来、おみくじは引かないことにしている。


「末吉だった」


「末吉は末広がりで、終わり良しのハッピーエンドだね」


「良かった」


「先輩はなぜ引かないんですか?」


「神様だけが知っていればよいことを僕は知ろうと思わない。今を精一杯生きていくだけさ。それにいろいろ試みてもなるようにしかならないことが多いからね」


本当は違うのに、かっこ良く言ってしまった。正直に答えれば良かった。


「ずいぶん大人ですね。やっぱり先輩は何かすべて超越しているみたいで、近づきがたいです」


「そんなことはない。この年になると一種のあきらめかもしれないね」


「この年っていうけど、私と10歳くらい上だけじゃないですか?」


「おじさんだと思っているだろう。年寄り臭いことばかり言っているから」


「そんなことありません。先輩は十分若いです。もっと自信を持ってください」


「さっき、駅で上野さんに会った時、若々しくてとても眩しく見えた」


「私は先輩をいつも素敵な人だなって眩しく見ています。『恋愛ごっこ』できるだけでワクワクしています」


「それならよかった。これからどうする」


「青山通りをウィンドウショッピングして、どこかでお茶したいです」


二人は元の大通りに戻って、青山通りの方へ歩いて行く。手を握り替えて恋人つなぎにしてみた。沙知が僕の顔を見た。


「これは恋人つなぎというんだ。練習、練習」


彼女はニコッと笑って、細い指に力を入れてきた。それでこっちがドキドキしてしまう。


沙知は気に入った店があると中に入って見ている。僕は外から中の様子を見ている。そして出てくるのを待っている。若くて綺麗な女子を見ていると本当に目の保養になる。時間の経つのを忘れる。楽しい。


出てくると、また手を繋いで歩いていく。横目で彼女を見ていると、こっちを向いたので目が合った。彼女がニコッと微笑む。それがなんともいえないくらい可愛い。でも見てはいけないものを見たように、思わず目をそらしてしまった。今日の僕はどうかしている。


二人でゆっくり話せそうなコーヒーショップがあったので一休みすることにした。


「ずいぶん見て回ったね。買わないの?」


「ここは値段が高過ぎます。おしゃれもほどほどにしないと生活が成り立ちません。奨学金も返さないといけませんし、贅沢はできません。お金を大切にしたいです。学生の時、苦労しましたから」


「じゃあ、割り勘は止めにしようか?」


「いえ、割り勘でお願いします。私のプライドが許しません。奢られるのがいやなんです。甘えたくないんです。経済的にも自立していたいんです」


「お父さんが亡くなったから苦労したんだね。僕も他人は頼りにしないが、お金はいざという時に一番頼りになると思っている。キャッシュレスの時代だけど、現金はいつも多めに持っている。でも無駄づかいはしないようにしている」


「父がよく言っていました。出す必要のないものに出さないのが倹約、出すべきものに出さないのがケチだと」


「同感だ」


「私もそう思っています」


こんなに二人で話したのは初めてのような気がする。会社の食堂やラウンジでいつも話していたが、仕事の話が大方だったので新鮮な感じがするし、彼女の知らなかった一面が分かる。


「せっかくだから夕食でも一緒にどうかな」


「そうですね。このあたりのレストランは高いですから、私が知っている洋食屋さんでどうですか? 町の洋食屋さんですが、安くておいしいです」


「いいね、そこへ行こう。どうもこの近くじゃなさそうだね」


「溝の口です。もう一か所大井町にありますが、溝の口の方が定期券も使えてよいと思います」


「その方が良いかな」


地下鉄と私鉄を乗り継いで溝の口に着いた。ここは乗換駅だ。ここのスーパーに何回か来たことがある。彼女について行くと町の洋食屋さんがあった。


食堂の中は4人掛けのテーブルが4つほどとカウター席が4つほどある。まだ早い時間だから空いている。


二人でテーブル席に座ってメニューを見ていると、年配の女性が注文を取りに来た。彼女はオムライスを、僕はハンバーグ定食を注文した。彼女が小声で話しかけてくる。


「中はあまり綺麗ではありませんが、値段の割に味は良いんです」


「楽しみだ。どうしてここを見つけたの?」


「外勤の帰りに食堂を探していてここを見つけました。それから外出した時の帰りに時々来ています」


「大井町の店はどうなの?」


「そこも外勤の帰りに大井町駅の回りを見て歩いた時に見つけたお店です。ほかにトンカツのおいしいお店もみつけました」


「今度はトンカツもいいね」


注文したオムレツとハンバーグ定食が運ばれてきた。


「私はこの店の味が好きで、再現できないか作ってみています」


「再現できている?」


「まずまずといったところでしょうか。それで時々来て味を確認しています」


「なかなか研究熱心だね」


「おいしいと思ったら、自分で作って再現してみたくなるのです」


「じゃあ、レパートリーがどんどん増えていくね」


「まあ、今は20品くらいでしょうか?」


「レストランができそうだね」


「B級グルメですからとても無理です。晩御飯にはなりますが」


「そのうちにご馳走になりたいな」


「ええ、機会があればですが」


どういう意味だろう。こちらも意味不明のことを言ってしまった。その機会は難しいと思うし、どういう機会だろう。


確かに味付けはとても良かった。沙知は味を覚えるようにゆっくり食べていた。割り勘にするから彼女は分相応な店へ僕を連れてきた。別れた彼女とは全くタイプが違うというか、生き方が違う。沙知が堅実で逞しく生きていることが垣間見えた。


溝の口駅で二人は反対方向の電車に乗って別れた。楽しい半日だった。別れ際、次の「恋愛ごっこ」を来月の最終土曜日に決めた。こんな二人には月一回位が丁度良いのかもしれないと思ったからだ。沙知はそのことに何も異論を唱えなかった。

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