異人見聞録

錦木

1.人

人※1


 ってくだんごとし。


 人に死を告げられるとはどんな気分なのだろう。

 それはただの「事実」でしかないというのに。


 明けない夜はないと聞くけれど。

 人生はいつも、夜のように暗い。

 どぶのにおいがする路地裏にいた。

 られる。

 なぐられる。

 何度も。

 何度も。

 およそ普通の人間が受けるべきではない目にあっていた。

 喉の奥で引きった声を上げる。


「す、すみません」


 なにに謝っているのかもわからないような。

 喉の奥から迫り上がってくるものを吐いた。

 血があたりに点をつくる。

 きたねえ、という声がした。

 息をするだけで痛い。

 また俺が余計なことを言ったせいで。



 夕方の街を肩をすぼめて歩いていた。

 春とはいえ、まだ肌寒い。

 薄手のコートは寒さをあまり防いでくれていない。

 立ち止まっていても寒いので体を動かしたほうが温まるかと思って、歩いている。

 ただひたすら。

 行く場所なんてないのに。

 数人の男の集団と行き合った。

 肩を少しぶつけてしまい、すみませんと小声で謝る。

 そのとき、目の奥に痛みが走った。

 視界がにじむ。

 まただ、と思う。

 目の前に横切る男の腕を思わずつかんでいた。


「あ、あのっ」


 息を飲みこんでから一気に口走った。


「あなた、このまま行くと死にますよ」



 男は路地裏に俺を追い詰めると連れの男といっしょに蹴りつけた。

 死を告げられた人間の行動にはいろいろある。

 目に見えて怯えて逃げ出すもの。

 理不尽な怒りを燃やして何かにあたり散らすもの。

 今回は後者だったらしい。

 だから、俺は殴られ蹴られている。

 男の体は俺よりも大きく、また自分でいうのもなんだが俺は人を殴るほどの力はない。

 殴るほどの、度胸もない。

 都合の良い人間サンドバッグである。

 地をって逃げようとした。

 このままだと死ぬかもしれない。

 死を人に告げた俺だが、もちろん死にたくない。

 生きていく希望も生きる力も大した目的もない俺だって。

 ただ本能に従ってこの場から逃げようとして。

 背中を踏みつけられた。

 ぐう、とうめき声が出る。

 息ができない。

 本当に死ぬ……。


「お前みたいな頭がおかしいやつは死ねばいいんだよ」


 耳元で男が毒づくのが聞こえた。



「頭はおかしくないよ」


 クスリ。


「頭は悪いかもしれないけどね」


 カツカツ。

 どこからか誰かが歩いてくる音がした。

 俺の視点からでは真っ黒な靴しか見えない。

 洋風の上品な男物の靴。

 こんなときなのに高そうな靴だ、と思った。


「なんだよ、てめえ」


 男も動揺している。

 この場を見られた気まずさもあるのだろうが。

 なにか空気が変わった。

 路地の影が暗く粘性ねんせいを持った。

 そんな気配が。


「ふうん」


 男は軽い口調で言った。


「お前、そこで誰かをいたね」


 ひいた、が最初轢いたと結びつかなかった。

 血を流しすぎたか頭がぼんやりとしていた。


「殺したのか」

「な、なにを……」

「小さな子かな?道の脇を歩いていたんだね。お前はブレーキもかけずにそのまま走り去った」


 重い内容を世間話でもするような軽い口調で男は言う。


「デタラメだ。誰にもわかりっこなんかねえ」


 何かはわからないが、誰にもわからないという言葉は認めているも同然だった。


「わかるんだよ。ほら、ねえ」


 クスリ、と喉が鳴った。


「僕には」


 どうにか顔を上げる。

 黒のインバネスコートが夜の闇に紛れるようなシルエット。

 白い、肩にかかった髪がなびいた。



 両手を広げて、言った。

 コンクリートの地面が波打つ。


「なっ……」


 男が息を飲む。

 俺も言葉を失った。

 白い肉のようなものが盛り上がる。

 それに口がついて、悲鳴を上げた。

 黒いものが滴り落ちる。

 あれは血だ。

 乾いて、こびりつく血があたりを汚していく。


「く、くるなぁっ」


 俺を蹴っていた男が走り出した。


「おい」

「なんだどうしたっ」


 取り巻きの男たちはそれを唖然あぜんとして見ている。

 もしかして。

 見えていない。

 白い肉はどこまでも男を追いかける。

 その先には道路があって。


「まて」


 声は追いつかない。

 ドン!

 衝撃音とともに男の姿が消える。


「前方不注意、だね」


 誰も聞いてはいないだろうが、小さく呟く声が確かに聞こえた。

 たのしそうに。


「ひっああ!うわぁぁあ!」


 自分の喉からこんな声が出るのかというくらいの悲鳴を上げた。

 路地裏を走り抜ける。

 表の道には人だかりができはじめていた。

 その間をぬうように、俺は走り抜ける。

 干物のように道路に貼りつく男が目の端で見えた気がしたが、足を止めずに走っていく。

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