第二章②

「朱音はオレの何が知りたい? 何でも教えてあげるよ」

 熱のこもった視線を向けられ、朱音はつい顔を赤くする。

「えーと……とりあえず、ここはどこ?」

「オレの屋敷」

「こんな広いお屋敷に住んでるんだ」

「オレに仕える使用人も何人かいるよ。別にオレはそういうのいらないけど、どうしてもお仕えしたい、って言って聞かなくて勝手にやらせてる」

 曲がりなりにもクロは『神』だ。

 付き従いたいと考える者は、あやかしだけでなく人間の中にだっているだろう。

「つまり私、あの狐面に襲われて、助けられて、それでそのままこのお屋敷に来てるってこと?」

「そうだね」

 それを聞いた瞬間、朱音は弾かれたように立ち上がった。

「授業!」

 あんな騒ぎが起こった後だから学園の方がどうなっているかはわからないが、どちらにせよ急いで学園に戻らなければならないと思った。

 だが、焦る朱音に反し、クロは呑気な調子で答えた。

「朱音はオレのお嫁さんになるんだから、あそこに通わず、ここで永遠にゆっくりしてればいいよ」

 とんでもないことを軽く言ってくれたものである。

 だがクロは本心からそう言っているし、実際にそれを叶えられる力もあった。

 もちろん、それを朱音は断固として拒否する。

「バカ言わないでよ。人間には人間のルールがあるんだから。それに……ああ。授業をさぼったことが家にバレたら……」

 朱音は文字通り頭を抱えた。

 これまで無遅刻無欠席、授業態度も優等生並みに頑張ってきたのも、本家が学費を出してくれているからである。

 あくまで蒼亥のおまけとしてではあるが、それでも学園に通わせてくれることに恩義を感じているからこそ、朱音はこれまでずっと頑張ってきた。

 それなのに授業をサボるだなんて、そのまま学費の援助を打ち切られたっておかしくない。下手をすればそれを理由に家を追い出されるかもしれない。

 それぐらい朱音の立場は、あの家の中で最下層にあるのだった。

「お願いクロ。早く学園へ戻して。じゃないと私……」

 懇願に近い格好で朱音はクロに願う。

 すると、彼は音も無く立ち上がった。

 スラリと高いその背丈に驚いていると、クロは目を細めて笑う。

「カワイイ朱音からのお願いはとても嬉しい。でも……何を怯えている?」

「お、怯えてなんて……」

「家の奴ら?」

 ドキリ、と朱音は反応に出してしまった。

 途端にクロは口角を上げ、ゆっくりと首を傾げる。

 まとわりつく闇の中、その青白い笑顔がぼんやりと浮かんでいるようで恐ろしかった。

「十年前も、朱音は家の奴らに困らされているようだったね。でももう怯える必要は無いよ。オレが全員消してあげるから」

 本当にそうする、という確信があった。

 だからこそ朱音は慌てて声を上げる。

「す……ストップ! ストーップ!」

 少し気を抜くとすぐに主導権がクロの方へ行ってしまう。

 朱音は強い心を持ってクロの方を向いた。

「わ、私のことを考えて言ってくれるのは嬉しいよ。でも、そんな簡単に人を消すとか……そういうのは無しにしてほしいの」

「……でも」

「さっきも言った通り、人間には人間のルールがあるの。私を花嫁にしたいって言うなら、クロにもそのことを理解してほしい」

 でなければクロはきっと、少しでも朱音の障害になる人間やモノを片っ端から消し去っていくだろう。

 朱音自身、そんな暴君のような真似はとてもごめんだし、そもそも本当にそんなことになったら、国が抱えるあやかしたち……それこそ『神』や『龍』クラスのあやかしたちが動くような大ごとになる。

 だからクロには、何が何でもそこを譲歩してもらわなければならない。

「うーん……朱音の平穏を脅かす奴は問答無用で消したいんだけどな」

 むしろクロの存在こそが平穏を脅かしかねない。

 そんなことを思われているとはつゆしらず、クロは必死な朱音の眼差しを受け、渋々折れた。

「わかった。でも本当に危険な奴……または朱音が願ったらすぐに消すから安心してね」

「う、うん」

 それもあんまり安心できないが、これ以上物騒な話になるのは困るので話題を戻した。

「とにかく、私を学園に帰して」

「……仕方ないな。でも、ここはいつでも朱音の家だからね」

 魅惑的な眼差しを朱音に向けながら、クロはエスコートするようにその手を取る。

 途端に、足元の影が膨れ上がり、二人を包み込んだ。

「っ!」

 闇に包まれるのと同時に、クロから強く抱きしめられる。

 その抱擁は見かけに反してとても優しく、壊れ物を扱うかのように繊細だった。

「オレの腕の中に朱音がいるだけでとても幸せだなぁ」

 ホワイトノイズの混じる音の中、クロのそんな嬉しそうな声が朱音の耳に触れた。



   ◆◇◆



「な、なんだぁッ?」

 浮遊感が終わり、文字通り地に足が付いたその時、どこからか男性の声が響いた。

 朱音がゆっくりと目を開けてみると、まず目に入ったのが斎藤さいとう先生の姿だった。

 がたいのいい割と厳しめの斎藤先生が、しかし今は顎が外れてしまったかのように、あんぐりと口を開けたまま朱音の方を見ている。

「鬼ヶ華……おまえ、どうやってここに……」

「あ、えっと……」

 そこで朱音は、自分の今いる場所が、狐面と遭遇した購買近くの場所ではないことに気が付いた。

 何やら厳格めいた雰囲気漂うこの部屋には、応接室のようにテーブルとソファがあり、そして壁には額縁によって数名の写真が飾られている。

 次第に視界がハッキリしてきてわかったが、この部屋には斎藤先生だけでなく、他に二人の人影があった。

 片方はお年を召しながらも眼光の鋭い老人で、もう片方はとても整った利発的な顔立ちの青年だった。

 二人は観察するような目を朱音に向け、何やら考え込んでいる。

「それと君は誰だ? 本校には君のようなあやかしはいないはずだが……」

 ここが何処なのか、この状況が何なのかわからずにいた朱音は、斎藤先生がクロに向けたその言葉によってハッと我に返る。

「こ、この人は、その……えーと……」

「オレは朱音の花婿。旦那。夫だけど」

「ちょっと!」

 あまりにも直球に、しかも勝手に言ってくれるものだから、朱音は慌てて声を上げた。

 斎藤先生は眉根を寄せて訝しげな顔をしている。

 だが、老人と青年の反応は穏やかだ。

 というより、青年の方は口元に手を当て、何かに思い至ったようにクロへと喋りかけた。

「忌神か……?」

「んー……もしかして賢神けんじんかな?」

 突然、両者が知り合いの様子で話し始め、今度は朱音の方が驚きの表情を浮かべる番だった。

「え、知ってるの? いや待って。賢神? か、神様ッ?」

「慌てる朱音もカワイイけど、落ち着いて」

 愛でるように朱音の頭を撫でながら、クロは呑気な口調でそんなことを言う。

 一方、賢神と呼ばれた青年は朱音へと向き直り一礼した。

「こんにちはお嬢さん。賢神アクルだ。この学園のあやかし代表として理事長をしている、と言えば私のことがわかるかな」

「り、理事長ッ?」

 言われて素っ頓狂な声が朱音から飛び出た。

 賢神アクルと言えば、その名の通り知恵を司る神様であり、この妖協学園を創立させた一人だと授業で習ったことがある。

 そもそも妖協学園には理事長が二人おり、片方はあやかし代表の理事長……つまり賢神アクルで、もう片方は人間代表の理事長となる。

 つまり……

「なるほど。朱音くんは『神』に好かれてしまったようじゃな」

 老人の方が、穏やかな口調ながらも、やはり眼光は鋭くさせたまま、朱音とクロを交互に見る。

 それで朱音はようやくわかった。

 その老人が、妖協学園の人間代表の理事長……初学院時房しょがくいんときふさであることに。

「り、理事長先生……ってことは、ここはもしかして理事長室、ですか?」

「そのとおり」

 賢神アクルが軽快な口調で答えた。

 その隣で、斎藤先生がやはり顔をしかめて朱音に訊ねてくる。

「一体全体どういうことなんだ鬼ヶ華。一限目が始まる前に、購買近くで狐面のあやかしが暴れていると報告があったんだ。それで教師一同急いで駆け付けてみたら、狐面はいなくなってるし、今度は鬼ヶ華が闇に呑まれて消えたって目撃証言ばかりじゃないか。それでそのことを理事長たちに相談してたら突然おまえがこうして現れた。何が何だか俺にはさっぱりだ」

 頭を掻きむしりながら、斎藤先生はこれ以上ないほど困惑した表情を浮かべていた。

 だが、それは朱音も同じような気持ちである。

 狐面に襲われ、十年ぶりの再会となった忌神クロに自宅へとさらわれ、そしてようやく学園へ戻れたと思ったらこの理事長室。

 朱音もまた、斎藤先生と同じように困惑するしかなかった。

「えーとですね……私も狐面に襲われまして。それでそこを救ってくれたのが彼……忌神様のクロでして。クロとはどうやら十年前に会っていて、そういう積もる話をクロの家でしていて、それで学園の方へ戻ってきたら突然ここに居て……」

「知っている『神』の気配がしたからそこに飛んだんだよ」

 やはり朱音の頭を撫でながら、クロはそっとアクルの方を見る。

 目が合ったアクルは肩をすくめた。

「なんとなくわかったよお嬢さん。そこの忌神に振り回された、ってことが」

 まさにその通りすぎて、朱音は思わず賢神に祈りを捧げたくなった。

「はっはっは。妖力は一切無いのに『神』を使役しているとは、前代未聞かもしれんのぉ」

 時房理事長のその言葉に、クロは首を傾げる。

「使役じゃないよ。オレは朱音の旦那様だからね……無償の愛でもって力を貸しているだけ」

「なるほどなるほど。それで忌神どの……相対した狐面のモノについて、何かわかることは?」

「さあ? 朱音のこと以外興味無いから。ただ……」

 クロは天を仰ぐ……というより、学園内のどこかを探るように、周囲を見渡した。

 ぞわり、と空気が震えた。

 アクルと時房理事長の瞳が鋭く輝く。

「まだ居る、か。ということはやはり、狐面騒動の犯人はこの学園内に居るということじゃな」

 時房理事長の言葉に、朱音は思わず口元に手を当てた。

 だが、学園には外部からのあやかしの侵入を拒む結界が張られている。『神』や『龍』クラスならまだしも、それ以下のあやかしなら学園への侵入はほぼ不可能だ。

 しかし、にもかかわらずあの狐面は堂々とあの場所に現れた。

 となると考えられるのは、内部の犯行ではないか……ということになる。

「僕の方で探知はしているけれど、どうにも個人的な呪いの類みたいでね。妖力に特徴は無いし呪いは制約が強い分、他者に邪魔をされにくいものでもある。遠くからでは犯人の特定がしにくいね」

 アクルは腕を組み、どうしたものかと考えている。

 そこで、時房理事長が改めて朱音とクロへと向き直った。

「ではこういうのはどうじゃろうか」

「え……」

「朱音くんと忌神どのに、犯人探しを手伝ってもらうというのは」

「ええーッ?」

 予想外の発言に、朱音の声が理事長室に響き渡るのだった。

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