第22話:救いはありますか?
一瞬で世界が塗り替わった。自分が目を瞑っていたのではないかと、眠っていたのではないかと思うほど、瞬きの間で景色が一変する。
「なんだ、これ」
『相棒!』
都市全体に、まるで無数の蛇がのたうち回っているように木々の根が、そこかしこから生えて、伸びて、都市を飲み込んでいく。
すでにソロの視界に、木のない場所を探す方が難しくなっていた。建物を、人々を、圧し潰し、蹂躙し、すくすくと育つ悪魔の木。
今まで見てきたものとは桁が違う。
『相棒! おい!』
「トロ助、俺は、夢でも見てんのか?」
『逃げるぞ! ヤバい、何がヤバいって、ついさっきまで何も感じなかった。隠してやがったんだ。強いだけじゃないぞ、今回の相手は!』
「さっきまで、呑気に酒を……あっ、吟遊詩人、あいつは何処に」
『何の話してんだよ! 早く逃げるぞ!』
「いや、だから、さっき一緒に酒を飲んでいたやつだよ!」
『そんなのいねえよ! 最初から相棒一人だっただろ! オイラと会話していたじゃねえか。何言ってんだよ、相棒。しっかりしろ!』
「……なんだ、それ」
ソロの記憶では逆である。あの吟遊詩人と再会してから、トロとは一度も口を利いていない。しかし、トロはずっと自分と会話していたと言う。
記憶が合致しない。
ただ、今はそのすり合わせをしている暇もないだろう。
「た、助けて、くれ」
ソロは声のした方に視線を向けギョッとする。
「身体が、変なんだ。顔が、動かなくて、でも、生きて、いる、はず――」
体が木に浸食され、木と肉体の境目が曖昧となっている人であったから。すでに首も浸食されており、自分を見つめることも出来ないのだろう。
「たすけ、て、なぜか、いしき、が」
「トロ」
『無理だ。もう体の魔力と木の魔力が接続されている。肉体の大半がなくなってんだ。もう、手遅れだよ』
「……そう、か」
よくよく辺りを見回すと、圧し潰され血まみれとなっていた場所も、いつの間にか綺麗さっぱり血だまりが消えていた。人のいた形跡が、どんどん消えていく。建物は破壊痕が残るも、人は血の一滴すら残らない。
全てが消える。
無駄なく、この化け物じみたオークを育てるエネルギーとなっていたのだ。
桁違いの、異次元の魔樹、最上級であるカース・オーク。
これがアスールにおいて初めて顕現した日となる。
『逃げるぞ。ルーナ狙いだった『黒天』の時とはわけが違う。今回の敵は都市全体が敵だ。此処の人間全部を吸収して、最強最悪の木を育てる。それが――』
「わかってる!」
そんなことはわかっている。こんなもの、逃げの一手でしかないと。敵の強弱は知らないが、どう見繕っても村一つを灰燼に帰した『黒天』よりもヤバい景色なのは明白。自分にその価値があるとは思わないが、ルーナが繋げてくれた命をここで捨てるのはあり得ない。逃げるのはもはや確定事項。
だが――
「あいつらを探すぞ!」
逃げる時は仲間と一緒である。自分の命を救ってくれたルーナへ恩を感じるのなら、絶対に見捨ててはならない存在が一人いる。
その義理は果たす。何があっても。
『この状況で⁉』
「この状況だからだ!」
『甘ェよ! どう考えても――』
「たまには俺の言うことを聞け!」
普段軽薄なソロの貌が、眼光が、絶対に譲らないし譲れない、という意志を放つ。せめて、確認するまでは、これは自分だけの命ではないのだから。
半分、分相応なのを承知で、
「探すぞ」
『お、おう』
この身体はルーナとの約束を果たすためにあるのだ。
○
「ババア!」
ヴァイスは身体にまとわりつく木を引き千切りながら、歯を食いしばってそちらへ向かう。昔から人よりも力が強かった。それを気ままに振るい、たくさん敵を作り、進退窮まったのは二度。一度目は同じくひとりぼっちだった男に救ってもらった。お互いずっと一人で、だから気が合った。楽しかった。
でも、別のチビが入り込み、あの男の隣はそいつばかりが占有するようになった。あの男をアニキと呼び、すり寄り、そして自分には敵意を向ける。
あの女を凝縮した目が嫌いで、居づらくなって逃げた。やけっぱちになったのか、あの男が折角教えてくれたのに性懲りもなく暴力を撒き散らし、
「今、助ける。任せろ、オレァ強ェんだ! ステゴロなら、誰にも負けねえ!」
暴力が暴力を呼び、結局また進退窮まった。
数が押し寄せ、戦い戦い、逃げて、戦い、戦い、精魂尽き果てた時にたまたま逃げた場所が教会で、其処に――
「……あなただけでも逃げなさい。ヴァイス」
彼女が、マイカ司教がいた。
「馬鹿抜かせ。ババア一人、オレにとっちゃ大したことねえよ」
彼女は満身創痍の自分を見て、何も言わずに自分の弟子として匿ってくれた。教会の権力をフル活用し、ヴァイスが招いた暴力全てを跳ねのけて、やり直す機会をくれたのだ。ただし、シスターとして心を入れ替えるなら、という条件付きで。
結局まだ約束は果たせていない。
生まれも育ちもあまりにも女神様に縁遠く、信仰心はまだまだ足りない、持てない。シスターとしての礼儀作法もまだまだ。
教えてもらうことはたくさんある。
ちょっと不真面目であったが、それはこれから修正する。受けた恩は返す。返したい。返さねばならない。
だのに、身体が思うように動いてくれない。
彼女へ手を伸ばしても、足がなかなか前へ進んでくれない。
「……あなたに、加護ぞ、在れ」
そんな中、マイカがヴァイスへ加護を与える。逃げられるように、逃げてほしいとの祈りを込めて。自分にも加護をかけられるはずなのに。
彼女はヴァイスへ、残りの全部を注いだ。
そして――
「ババア!」
「……」
彼女もまた木の一部となる。侵食されていた肉体の部分が消え、その一部分に、まるで悲鳴のように残るマイカの形。
それを見て、
「ガァァァァアアアアアアアアッ!」
ヴァイスは叫ぶ。自身にも侵食する木を、自らの体ごと引き千切りながら怒り、猛る。咆哮と共に、夥しい血が流れるも、それでも彼女は力を振り絞る。
誰よりも強かった。
自分もまたひとりぼっちの国の王様であった。
負けない。誰にも負けない。
何者にも屈さない。
それが自分たちの在り方。
あの男が言った。
「生き残ってこそ、だよなァ!」
死んだら終わり。こんなクソみたいな世界で、クソみたいな環境で、それでも生き延びてこそ、この何処へもぶつけられない想いは救われるのだ。
こんなところで死ぬ気はない。
こんなところで終わる気はない。
「オレァ、負けねえ! 死なねえ!」
怒りが彼女を突き動かす。物心ついた時からあった人とは違うことへの鬱屈。どぶ底から眺めた世界への憧憬、そう思う己の弱さへの憤怒。
何よりも、あの眼から逃げた自分の――
○
都市全体に蛇のように蠢く巨大な根の行進。触れるだけで不味いのは生存していた人間や、死体としてそこに転がっていたはずの躯を見ればわかる。
あの根は血を求めている。
生者も死者も構わずに、全てを吸い上げる悪魔の木。其処にいた、その証拠すら残さずに、根こそぎ奪われる。
「……ぃ」
ソロは歯を食いしばる。別に以前の村や町でもそうであったが、見ず知らずの他人が死んだところで心を痛めてやれるほど、彼の人生に余裕はなくそう思うには死が身近過ぎた。飢えて死ぬ。病で死ぬ。最後は悲惨である。
それに比べたら綺麗さっぱり全部消えるのだ。
合理的である。衛生的でもある。
だから――
「……死すら奪うのかよ、こいつらは」
『……相棒』
ソロは怒りを覚えていた。路傍に散った無数の人々、ただ通り過ぎてきた彼らも最後は躯を残した。腐り、周囲への嫌悪を呼び、最後の最後、イタチの最後っ屁として刻み込むのだ、呪いのように。
俺の腐った死体を処理するのはしんどいだろ、ざまーみろ、と。
放っておいたら病気が広がるぜ、お前もこっちにこいよ、と。
クソみたいな考えかもしれない。ただただ迷惑を振り撒く、普通に生きている連中からすればそう映るだろう。
それでもそれが底辺の、最後のクソみたいな意地なのだ。
それすらなくなる。その権利すら奪われる。
それが不愉快で仕方がない。たぶん、ズタボロに殺されるよりもずっと――
「クソ、大聖堂にいてくれりゃいいんだが」
『とっつぁんや嬢ちゃんたちが揃ってりゃ何とかしのげている、とは思いたいが……如何せんオイラも何もわからん。対人にしちゃ、オーバースペック過ぎるしな』
「じゃあ何用だよ?」
『そりゃあ対天使、その奥にいる女神用だろーさ』
「……ちっ、勝手にやってろって!」
『ごもっとも』
天使と、女神とやり合いたいのならそっちとバチバチやってくれたらいいのに、人を巻き込むなよ、とソロは憤りを覚える。
端的に言うと腹が立つ。
そんな時、
『相棒!』
「ああ、見えた!」
少し離れたところに蒼い炎、その火柱が見えた。あれほどわかりやすい目印もない。さすが普段から高飛車なだけあって生命力が強い。
「きっと今頃怒り狂ってんな」
『おん、目に浮かぶぜ』
「何とか説得しないとだなぁ。あー、面倒くせー」
そう言いながらソロの貌には笑みが浮かんでいた。最悪の事態は回避できた。ルーナにとって大事な妹の無事が見えたから。
説き伏せるのは面倒だが、それでも生きていれば何とかなる。
それがソロの持論でもあった。
「ソアレ!」
どうせキレ散らかしている、それを止めて冷静さを取り戻してやる。まあ、元気なのは良いことだ、なんて考えていた。
その、
「……ソロ」
見たことのない貌を見るまでは。
常にお高く留まり、高貴だなんだと言って回り、自分の弱い部分など見せようともしない。ソアレ・アズゥはそういう女である。
しかし今、ソアレは涙を浮かべながら、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、ソロに、仲間に、縋りつくような、弱った姿を見せていた。
「……とっつぁんか?」
「私を、かばって、私の、せいで」
「……」
それなりに長い時間、一緒にいた旅の仲間。あの絶望の襲来を、希望を奪われた悲しみを、手も足も出なかった無力を共有できる存在が、死んだ。
「逃げるぞ!」
「で、も――」
「でももクソもあるか!」
有無を言わせずにソロはソアレの手を引く。今は都市の外縁を根が囲み、突破は難しい。逃げるのも頭を使い、機を窺う必要がある。
それに出来ればヴァイスとも合流したい。
「あそこに、シュッツが……でも、剣で切っても、炎で根を焼いても、出てこなくて、お願い、ソロ。シュッツを、助けて」
(……トロ助)
『あそこにはもう、誰もいねえよ』
(……そうか)
ソアレが指を差した根、其処にいたはずのデカくて、無駄に目立つ巨躯の騎士はもう何処にもいない。それを知り、ソロは唇を噛む。
「グダグダ言わずに走れ! とっつぁんの死を無駄にする気か!」
「……っ」
言いたくもないクソみたいなセリフ。それでも、引きずってでも生かして見せる。逃がして見せる。ルーナが生かしたシュッツが、ソアレを生かした。
此処でそれを断ち切ることこそ、彼女らの遺志を無駄にすることであるから。
だから、走る。走らせる。
「安心しろ、ソアレ。こんなもん屁でもねえ」
「……」
「ネズミ食って腹壊した時の方が、よっぽどピンチだった。ついてこい、プロの逃げ方ってやつを見せてやる」
「……うん」
力強く、嘘を口走る。
だけど、
『空前絶後のピンチだと思うけどなぁ』
(馬鹿言え。逃げりゃ済む。なら、楽勝だ。にっこり笑って逃げてやらァ!)
前吐いた嘘よりよほど、現実味がある。
少なくともソロは出来ない、とは思っていない。荷物が一人だろうが、二人になろうが、必ず脱出させて見せる。
○
機を窺うために一旦大聖堂に入るソロとソアレ。しかし、外から見るよりもずっと、大聖堂の中も悲惨の一言であった。至る所に徘徊する根、すでに人の姿はなく、ほとんどがオークに呑まれてしまったのだろう。
ソロは最悪の事態を想定する。したくはないが、マイカの部屋に戻ってダメなら諦める。そう決めた。多分人生で一番付き合いの長い、腐れ縁。
それでも割り切る。割り切らねば自分たちが死ぬから。
「ソアレ、足音を立てるな。あの根、音にも反応するぞ」
「が、頑張っているわよ、私なりに」
根の傾向も大体つかめてきた。あれは物音に、音をメインに探知しているのだろう。特に本体がある地下へ響く足音を。
手当たり次第暴れ回り、動いたやつを捉える。
非常に合理的である。
「ってか、どの部屋だっけ?」
「あなたねえ」
「全部同じに見える。お綺麗な場所は水に合わないんだよ」
「こっち」
「へーい」
立場逆転、ソアレの案内でマイカ司教の部屋へ向かう。
其処にいてくれ、と祈りながら。
「あの」
「……ん?」
「……さっき、ありがと」
「……逃げ切ったらもっかい聞かせて」
「一度しか言わない」
「ケチ」
「音がよくないんでしょ、黙りなさい」
「うーい」
ソアレの感謝と言う貴重なイベントを経て、二人とひと振りはマイカ司教の部屋に辿り着く。もっと言えばその手前、部屋を出た通路。
其処に、
「なんだ、生きてたのか。さすがにしぶてーな」
暴力シスター・ヴァイスがいた。部屋の中からここまで暴れ散らかしてきたのだろう。引き千切った木々が至る所に散乱している。
さすがは暴力の化身、きっと世界一聖職者には向いていない。
「……」
そんな彼女の必死な痕を見て、ソロは押し黙る。
「なあ、煙草あるか?」
「……ああ」
「くれ」
「ああ」
短く答え、なけなしの一本を出して咥えさせてやる。
「火」
「あいよ、プロク」
「嗚呼、うめえな。貰い煙草が、一番、うめー」
「……だな。貸し一つだぞ」
「おう、今度、返す」
ヴァイスは笑顔を零し、そのまま彼女の口から煙草がポロリと落ちる。それをソロは左手で掴み、もう吸えぬ彼女の代わりに口に咥えた。
木に取り込まれたばかりの、らしくない貌を見つめて――
「新品で返せよ、馬鹿が」
こんなにも不味い煙草は、生まれて初めてかもしれない。
「……ソロ」
「ま、よくあるこった」
必死に生き延びようと足掻いたのだろう。そんなこと言わずともわかる。一緒に同じどぶ底で生きてきたから。
簡単に諦める奴じゃない。
彼女が進んできた道を見れば、その一端が垣間見える。
無念が、煙草を伝い滲む。
それでも――
「さてと、逃げますか」
「……」
ソロは味のしない煙草を握り潰し、あっけらかんとそう言った。頭の中はぐつぐつ煮え滾っている。だけど、冷静に努める。
そうしないと死んでしまうから。死んだら終わりだから。
生きていれば――
(こんな俺が生きて、何ができるって言うんだよ、なぁ)
何か、出来ることがあるかもしれないから――
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