運命を選ぶ

 その夜、琴葉は懐かしい夢を見た。


 父と母が縁側で、寄り添って座っている。まだ自分は無垢な赤ん坊で、覗き込んでくる二つの顔を交互に見ては手を伸ばしていた。自分を抱いた母の両腕は温かく、二人の顔は慈愛に満ちている。

 そんな、本当だったかどうかも不確かな、幸せな夢を見た。


 暖かい。

 暖かい。


 ――暖かい?

 否、熱い。


 がばりと身を起こす。またうまく寝付けずに、数多の札を書き起こしているうち事切れるようにして布団の上に倒れ込んでいた琴葉は、妙な異臭に気がついて顔を顰めた。


 何かが、焦げるような。

 外が昼間のように明るいことに気がついて、琴葉は窓辺に駆け寄る。


 目に映った光景は、あまりにも信じられないものだった。琴葉はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。


 筆ノ森神社の小さな鎮守の森が、篝火を焚いたかのように赤々と燃えていた。地鳴りのような恐ろしい音が、体全体に響いてくる。


「逃げ、なきゃ。逃げなきゃ」


 わざと言葉にして、自分を奮い立たせようとする。ただ死を待つ気はない。工房はまだ燃えていない。

 けれど、腰が抜けてしまったかのように、立てない。


 盗みくらいは覚悟していたが、まさか森ごと焼かれるなんて、誰が想像するだろう。それとも、自分が危機感をもっと持たなければならなかったのだろうか。


 どうにかして立ち上がり、出られる場所はないかと探す。裏口にもすでに火の手が回っていた。玄関は通れない。だんだん酸素が薄くなってきて、琴葉は再び膝をついた。視界が揺らぐ。


 詰めたペン入れの木箱のところまで、なんとか四つん這いで移動する。気休め程度に貼った札が少しは効いているのか、まだ工房内に火が燃え移った気配はない。しかしそれも、時間の問題だろう。


 琴葉はその箱を守るように上から覆い被さった。


 このまま、骨まで灰になるのを待てば良いのだろうか。苦しさに深く息をつき、朦朧とする意識を手放しかける。

 その時、閉じかけた瞼の裏に、今朝会った清一郎の顔が浮かんだ。


 そうだ。札がある。彼に渡された札は、肌身離さず持つようにと念を押されて、寝巻きの懐に入れたまま寝たのだった。


 届くのだろうか。札を扱う才のない自分でも、まるで御伽話のような奇跡を、起こす事はできるのか。

 着物の合わせをぎゅっと握り、琴葉は浅い呼吸を繰り返す。


 ――駄目で元々だ。


 別に本当に助けてくれなくてもいい。どうせ朽ち果てる運命なら、叶わない言葉を吐いても、誰も聞くまい。

 琴葉は胸元から札を抜き出して、くしゃくしゃになるほど強くその札を握り込んだ。


「ひと……め……」


 最後に一目、お会いしたかった。

 この気持ちがなんであるか、琴葉はようやく自覚した。


 





「――無事か!」


 玄関の方から、よく通る美しい声がした。

 足音が響く。激しく燃える木の匂いが、直接鼻腔に入ってくる。誰かが工房に続く扉を開けたのか。琴葉は重たい瞼を必死にこじ開けた。


 揺らぐ陽炎の奥、そこに、焦がれた姿があった。


「おい、聞こえるか、私だ」


 清一郎が琴葉の体を揺さぶる。名前を呼ぼうとして、琴葉は激しくむせ返った。


「意識はあるな」


 琴葉の背中を、大きな手のひらが何度も往復するのを感じる。安堵と息苦しさで、意識が飛びそうになった。

 本当に、来てくれた。

 約束通りに、来てくれた。


「必ず守る。きみも、きみの大切なものも」


 低く呟いた清一郎は、腰に巻いた革鞄から一枚の札を抜き出した。


「奉る――『雪降らせ、静寂しじま星夜ほしよ』」


 清一郎の言葉と共に、ふっと空気が軽くなる。息苦しさが楽になり、琴葉は驚いて顔を上げた。

 朦朧としていた視界がはっきりと像を結ぶ。

 軍服を纏う清一郎が、そこにいた。


「紫藤、来ているな」

「はい、ここに」

「結界内に対象を保護した。紫藤は迎え火を打ってこの炎を沈静してくれ。私は脱出の準備をする」

「承知。火が治まった後は、どちらへ向かいます?」

「一度我が家に避難しよう。隊舎に戻って、部外者に根掘り葉掘り詮索されても困る」

「かしこまりました」


 しどう、と呼ばれた青年が部屋の外で清一郎に向かって敬礼をした。まだ年若そうな黒髪の短髪の彼は、清一郎と同じ軍服を身にまとい、札を入れる革鞄を腰に巻いている。彼がちらりと視線をこちらに投げたので、床に伏している琴葉とも目が合った。彼は琴葉に対してもわざわざ九十度の一礼をして、踵を返した。


「さて」


 清一郎は膝をついた。先ほどまでの煙たさと喧騒が嘘のように、工房の中は清浄な空気のもと、静まり返っている。これが清一郎の作った結界の中だということは、先ほどの祝詞のりとと札を見れば分かる。


「待たせてすまない。なんとか準備が間に合った。きちんと約束を守ってくれて、良かったよ。お陰で飛んで来れた」


 琴葉の握り締めた右手に、清一郎の手が重なる。くしゃくしゃになった札が、熱を帯びたような気がした。


「本当は、きみが言うところの『浪漫がある』場所で、正式な手順を踏みたかったが」


 清一郎は、一度琴葉から視線を外した。何かを言い淀むように口を開いては閉じ、短く息をつく。やがて清一郎は腹を括ったように琴葉の瞳をまっすぐ見つめ直した。

 何を言われるのかと身を固くした琴葉は、清一郎の口からこぼれ出た台詞に思わず目を丸くした。



「――仮初で構わない。私と夫婦になってもらえないだろうか」



 驚く、などという言葉では足りない。どうして、も言葉にならない。ただただ静かに清一郎の目を見つめ返してしまった琴葉は、次の瞬間、顔から火が出そうなほど真っ赤になったことを自覚した。

 清一郎は琴葉の目を見て続けた。


「私は政府の退魔科の中でも、それなりに強い。きみが私の家族になる、つまり見せかけであっても名実ともに私の庇護下に入ってくれるのであれば、今まで通り、静かに札を作りながら暮らせる環境を整える事ができるだろう。札を刷っている印刷所との取引もそのままだ。私はきみが何かを犠牲にしたり窮屈な思いをしたりすることを望まないし、強制しない。代わりの縁談であれば、先方も引くしかないだろう。全方位、丸く収まる」


 どうして彼が琴葉の為に、そこまでしてくれるのか全くわからない。

 けれど、弓弦家で感じた嫌悪とはまるで違う、温かい気持ちが胸の奥から溢れ出してくる。


「今朝のお話の、準備、というのは」

「私が婚約者を定めるとなれば、色々面倒な手続きが待ち構えていて。それを解消するのに、一日必要だったんだ」


 何も口に出せない琴葉に、なおも清一郎は言葉を続ける。


「きみの札は一級品だ。きみが政府に卸す札屋を続けてくれることは、我々退魔科としては非常に心強い。あとは――そうだな、これは個人の想いだが。きみと過ごす時間は、とても心安らぐものだから。語らう時間が一分でも一秒でも長くなるなら、それは純粋に、私が嬉しい」


 最後を小さな声で言い切って目を逸らした清一郎の、耳まで赤いのを見つけてしまって、琴葉はなんだかこそばゆい気持ちになってしまった。外は火が燃え盛るこの状況下だというのに、不思議と心は凪いで穏やかだ。


「返事はあとで聞く。とりあえず今は――」

「分かりました」


 琴葉の返事に、今度は清一郎が固まった。

 自分の中の言葉を整理しながら、出来るだけ簡潔に、と考えて口を開く。


「妻というものが、どのようなことをせねばならないのか、私には見当もつきません。それでもいいと……札をこれからも書かせていただけるというのであれば、どこへでもついて参ります。私でも、貴方様のお役に、立てますか?」


 誰かの役に立ちたい。

 それは幼い頃からずっとある、琴葉の胸に燻る願いだ。

 けれど琴葉は自分の意思で、何かを選ぶ決定をしてこなかった。与えられた世界の中で、なんとなく、ぼんやりと、言われたことを言われたようにしてきただけだった。


 今、運命はこの手に握られている。彼と自分、二つの手の中にある。


 彼は本物の退魔科の将校なのか、とか、どうしてそこまでして琴葉を救おうとしてくれるのか、とか、考えることはいろいろある。もしかしたら、今の決断を、数年後の自分は後悔するかもしれない。けれど、琴葉は今目の前にいる清一郎を信じることにした。


 術士の言霊は強い。故に、嘘をつくことは極力避ける。その理がある限り、彼が後々自身に不利になるような嘘は、ついていないはずだ。


 清一郎は琴葉の言葉を聞いて、深く、深く頷いた。そして、触れていた琴葉の手を強く握り直した。


「必ず幸せにするという約束はできないが、その代わり、私にできる全ての努力をすると約束しよう。きみは誰にも遠慮せず、今まで通り仕事ができる。我々も助かる。そして私が、きみのことは必ず守る。八百万やおよろずの神に向かって、言霊をもって誓約しよう」


 琴葉を見つめる彼の瞳は、薄暗い部屋の中でも、青を内包して美しい宝石のような色をしていた。

 彼に引き寄せられ、琴葉は腕の中へすっぽりと収まった。

 聞こえてくるのは自分の早鐘のように脈打つ鼓動なのか、それとも彼の心音か。抱かれた腕の中は暖かく、琴葉は先ほどまで見ていた両親の夢を思い出した。


「奉る。『千代万代ちよよろずよさかずき取り交し、永きちぎりを結び固めて常磐ときわに変る事無きを誓詞うけいごともうさく』。雪宮ゆきみや清一郎は、筆村琴葉を生涯唯一の伴侶として大切にすると誓約する。何卒幾久しくご守護下さいますよう」


 誓いの言葉が頭上から聞こえる。優しい彼の声が、琴葉に降り注ぐ。

 たとえこれが、彼に騙されていたのだとしても――


「お、お待ちください、いま、お名前が」


 とんでもないものを聞いた気がして、琴葉は彼の腕の中から慌てて身を起こした。


「冬見、ではなく、『雪宮ゆきみや』と 」


 清一郎がわざとらしく咳払いをした。


「隊舎外では母方の旧姓を使って仕事をしているんだ。きみに本名を名乗り損ねていたな」

「え、ええと……では、つまり」



 琴葉はたった今、『五藤宮家ごふじみやけ』と名高い旧家のうちの一つ、雪宮家の嫁として、神に誓約されたことになる。


 連日の心労から火事、そして婚約まで、あまりのことがありすぎて、琴葉はその場で目を回して気を失った。

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