言ノ葉を織る乙女 〜仮初めの契りは帝國軍人の溺愛を生む〜
楠木千歳
序 出逢い、その始まり
「仮初で構わない。私と夫婦になってもらえないだろうか」
あの日、確かに彼はそう言った。
取り立てて才のない、どころか、庇護対象にすれば確実にお荷物になるであろう自分に対して、彼は真摯な眼差しでそう告げた。
「必ず幸せにするという約束はできないが、その代わり、私にできる全ての努力をすると約束しよう。きみは誰にも遠慮せず今まで通り仕事ができる。我々も助かる。そして私が、きみのことは必ず守る。
そっと重ねられた手のひらが暖かかった。
そのような優しさを向けてもらう理由はどこにもない。けれど自分の生き残る道は、彼の手をとることしか残されていないことも分かっていた。
燃え盛る炎の中で、彼の青みがかった美しい瞳だけが静かに凪いでいる。
「分かりました」
頷いてしまった烏滸がましい自分のことを、数年後の自分は呪うだろうかと思いながら。
たとえそれが、彼に騙されていたのだとしても。
それでも自分は、彼の手を離すことができなかった。
言 言 言 言 言
からからと下駄を鳴らして走る。
ぜえぜえと口から息が漏れる。
夜に出歩くなとあれほど言われていたのに、言いつけを破った自分がいけなかった。今更後悔をしたところで、もう遅い。
ひたひたと付いてくる足音はまだ消えない。かといって、後ろを振り返ることは決してできない。目が合えば、連れて行かれる。
怪異だ、と思った。
暗闇に人を引き摺り込む、恐ろしい夜の闇。悪意を溶かしたようなどす黒い闇を、人気のない路地でうっかり目にしてしまった琴葉は、「それ」に存在を知覚された。
怪異は幾度も目にしたことがあるけれど、実際に琴葉が恐ろしい思いをするのは初めてだった。街はすでに寝静まり、彼女に気づく者は誰もいない。この怪異を連れたままでは、誰かに助けを求めることもできなければ、すがる知り合いの家もない。
「あの、神社まで辿り着けば……」
そこへ飛び込めば、怪異は結界に弾かれて消滅するはず。琴葉は最後の力を振り絞って足を進めた。
けれど。
「あっ!」
あと一歩で神域に踏み込める。そう思った時には、躓いてすっ転んでいた。
黒い黒い影法師のようなものが、琴葉を覆うように伸びてくる。
転けた体勢のまま、ずりずりと地面を這いつくばる。視線を後ろに投げれば、その深淵にどろりと蠢く、目玉のような物体を見てしまった。
嗚呼、もう駄目だ。
喉が張り付いて声も出ない。はくはくと動く口は言葉にならない。諦めるという気持ちも湧かなかった。ただ、目の前の恐怖を受け入れるしかない。
琴葉が目を閉じた、その時だった。
「奉る――『禊ぎ祓え、
低く、美しい、声がした。
次いで布を切り裂くような、派手な音が琴葉の耳に届く。黒い闇が真っ二つに割れて、白い炎に焼かれていった。燃え上がる端に紙切れが見える。正に自分へ襲い掛からんとした影が、宙に舞う塵になっていく様を、琴葉は見た。
「随分と大きな闇が出たものだな――きみ、大丈夫か」
その声の主はゆっくりとこちらへやってきて、地面にへばりついていた琴葉に手を差し伸べる。
「たす、かった……?」
琴葉は放心したままその手を見つめた。
「一応は。若い娘がこんな夜半に出歩くなど、怪異が無くても感心はしないが」
ガス灯の逆光で彼の顔はよく見えない。だが、ざりざりとした足音と軍靴、それから目深に被っていると思われる軍帽という風貌から、”おそらく軍人さんだろう”と琴葉はあたりをつける。
「あの、ありがとうございました。命を、助けていただき」
「周囲の怪異は祓っておいた。今のうちに帰るといい。夜遊びはほどほどに、な」
琴葉を引っ張り上げると、軍人はくるりと踵を返す。その言葉に少しの呆れの色が混じっていて、琴葉は羞恥に顔を赤くした。別に遊び歩いていた訳ではない。けれど命の恩人に、馬鹿な申し開きをするほど、琴葉の面の皮は厚くない。
「あの……あの!」
琴葉が慌てて呼び止めると、彼は訝しむようにこちらを振り返った。
月に照らされたその横顔は、はっと思わず見惚れるほど美しかった。
「こ、これを、お礼に」
懐から一枚の紙を引き抜いた。先ほどの恐怖とは違う、緊張の意味で震える手を、叱咤しながらその紙を差し出した。
「――これは?」
「あ、怪しいものではありません。安眠のお札、です。いらなければご家族かご友人にでも差し上げてください。効能に不安があるなら、神社で鑑定してもらってからでも構いません。今差し上げられるものが、それしかなくて」
「怪異を祓うのは、私の仕事だ。礼を受け取る謂れはないが」
「で、でも、それでは私の気が収まりませんので」
琴葉は思い切って軍人の手を取り、その札を握らせた。そのまま、顔も直視せずに深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。では!」
「あ、おい、きみ!」
軍人の静止を聞かず、琴葉は背後の神社へ駆け込んだ。
鳥居をくぐると、淡い光が琴葉をふわりと包み込んでくれる。
(軍人さん、ありがとうございました。おかげでお家へ帰れます)
心の中でもう一度礼を言い、琴葉はすっと目を閉じる。両手を胸の前で合わせ、帰るべき場所を思い浮かべる。
彼女を追いかけてきた軍人が鳥居をくぐる頃には、乙女の姿はどこにも無かった。
うっそうと茂る鎮守の森が、静かに佇むばかりであった。
「この札の文字……どこかで」
握らされた札を見つめた彼がひとりごちた言葉は、風にさらわれて流れていった。
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