第8話 白蟻
それからほどなく、
小花の状態を使者から聞いた
「この分だと、今日明日にでも小花ちゃんとはお別れだね。短い間だったけど楽しかったよ」
「……うん、ありがとう虚。私も、最期にあなたに会えてよかった。普通の女の子みたいに愛してもらって幸せでした。こんな穏やかな最期を迎えられるなんて思わなかったから」
虚は骨と皮だらけの小花の手をしっかり握りしめた。
「オレもこんな気持ちは初めてだよ。もう誰も娶りたくもないくらい。愛してるよ小花。生まれ変わったら、今度こそ末永くオレのそばにいてくれる?」
「……本当? 約束だよ?」
「ああ、オレは嘘なんかつかないさ」
「ふふ、嬉しい」
くぼんだ大きな瞳が、ぎょろり、と虚を凝視する。
「今日は外せない用があって、どうしても行かなきゃならないんだ。なるべく早く帰るから、決してここから出てはいけないよ。ゆっくりおやすみ」
「はい。いってらっしゃい。おやすみなさい、虚」
そうして、虚は出て行った。
暗い
〝式神の器〟として生きることが小花の人生だった。身体に化け物を入れられ、呪いたくもない人たちを呪わされる。自分が何者なのか、誰を恨んでいるのか、自分のことも、自分の感情すらも分からなくなる。小花の宝物は〝小花〟という名前と〝良平さんが好き〟という恋心だけだった。それだけが自分自身を証明する唯一だった。でも、最後のひとときだけ、縋るような恋からも解放されて、〝神様の伴侶〟として身をゆだねることができた。それで充分悔いはない。痛みに喘ぎ。絶望し。魔性に憑りつかれて訳も分からず潰える最期にならなくて、本当によかった。
ふ、と小花が呼吸を止めようとした瞬間。
「──小花、小花、どこにいるんだ」
「……
聞きなれた声がして、ガッと小花は目を見開いた。魔性に憑依されて自我が崩壊しそうになったとき、〝小花〟を何度も呼び戻した声。安らかに眠りにつきたい心とは裏腹にその声に反応する。呪いのような、恋の言霊。くぼんだ眼球が声のするほうを凝視する。
「小花。迎えに来たよ。約束を果たそう。一緒に逃げよう」
「良平さん、りょうへい、さん、リョうヘイさん」
首を傾け、這いつくばり、枯れ木のような腕を振るい立たせた。立ち上がることができず、小花は腐りかけの身体を這いずって進んだ。にじみ出る邪気。蛆虫たちが反応し、小花の身体に
少しずつ、少しずつ。邪気を巻き散らかし、蛆虫をまとわりつかせ。
「小花、小花、小花」
痣だらけになりながら、とうとう石室の入り口。神域の外まで小花はたどり着いた。秋風が吹き抜ける。枯れ葉の舞う。血のような夕暮れ時。スラリと背の高く、同じ
「小花! よかった! 来てくれたんだね!」
ぼろり、と小花の髪から菊花が落ちた。虚からもらった花。邪気払いの花。
小花の瞳は一瞬正気を取り戻した。
「……良平さん? なんで? どうしてここへ、なにしにきたの」
「もちろん、助けに来たんだよ! 今なら黒木家も蝕神さまもいない。二人で逃げよう。約束しただろう?」
小花は腕を掴まれて、身を震わせた。その力の強さで記憶が蘇る。
犬神を降ろして正体を失くした小花を、昏倒させるほどの力で殴ったのは──
「や、やめて、あなたが殴ったから、私は死にかけたんだよ? 本当に痛かった。死んでしまうと思うくらい怖かったんだよ!」
「……それは、本当にごめん。でもおかげでやっと外に出れただろ? 結果的にはよかったよ! 小花なら、あれくらい耐えられると思ってたんだ。我慢強い子だからね」
悪意のない笑顔で、良平は笑った。髪の毛を振り乱し、痣だらけで、蛆虫に集られた小花を見ても、なにも反応を変えず。なにも態度を変えなかった。──まるで、なにも見えていないかのように。
「……こわい」
喰われたはずの〝恐怖〟がぶり返した。異形の神様なんかよりずっとおぞましい。
恩人と信じていた、善良だと信じていた、目の前のただの人間が恐ろしくてたまらない。麻痺していた感情が戻り、小花の頭は靄が晴れたように鮮明になる。本当に怖かったのは──〝恐怖〟していたのは、蝕神でも、黒木家でも、魔性に自我を乗っ取られることでもない。この男だ。この男が恐ろしくてたまらなかったのだ。
「小花、さあ行こう。ふたりで逃げよう。蝕神さまや黒木家は邪な気配には目ざといけど、清いものには鈍感だからさ。僕の気配は辿れないんだ。僕たちの恋はとっても純粋なものだから」
いつもそうだった。悪意と苦痛と呪いまみれの黒木家の中で、この男だけは無垢だった。悪気がなく、謀りなく。口から出るのは嘘偽りない言葉。それが果たされない約束であっても、本人には嘘をついている自覚すらない。だから、小花は何度も良平の言葉を信じた。信じ続けて、耐え続けてしまった。その異様さに、小花はようやく気付く。たったひと月、そばを離れてみただけで理解する。あの家は異常だったし、小花もおかしかったし、この男もまた狂っているということに。
「……い、嫌、わたし、良平さんの、そういうところ、嫌だったの」
「小花? どうしたんだ?」
「いつも期待させて、裏切る。もう信じないって決めたのに、次こそは私をあの家から連れ出してくれるんじゃないかって、救い出してくれるんじゃないかって。何度も信じて、信じて、裏切られた。そのうわべだけの約束を期待し続けたの。それがつらかった。化け物に心を乗っ取られることよりずっと、身体がぼろぼろになることよりずっと──わたしの心をないがしろにされ続けたことが、つらかったの」
「ないがしろ?」と良平は首を傾げた。無垢な子供のように。何も知らぬ、何の考えも持たぬ童子のように。
「ないがしろになんかしてないよ! こうして、ちゃんと約束を果たしに来たじゃないか」
「い、今更? 私の身体、私の姿、ちゃんと見えている? もう逃げられる体力もないよ」
「大丈夫だよ! どうにかなるよ! 小花が動けなくなったらおぶってあげるから!」
小花は反論する気力を失くした。時刻は夕暮れ時。夜の闇が落ちた山の中で、子供のようなふたり。どうやって逃げ延びるのか。そんなこと、少し考えれば分かるだろうに。思考放棄した良平は、解決できない話題からは目を逸らし、うわべだけの労わりを向けた。
「蝕神さまの妻になったと、黒木家の者が話していたのを聞いたよ。あんな会話するだけで吐き気のする神様に。つらかったろう」
ざわり、と小花の感情が波立った。
「うつ……蝕神さまのこと、悪く言わないで。こんな私にとても優しくしてくれたの。私、蝕神さまの妻になれて、すごく幸せだった。心の隙間を埋めてくれたの。痛みを食べてくれたの。だから、もう誰も恨んでないし、それでよかったのに」
「小花……蝕神さまのことが僕より好きになったの? 僕がずっと小花を支えていたじゃないか」
ふるふると小花は首を振った。
「違うよ、全然違う。良平さんは、好きなら我慢してって私に強いるばかりで。私に苦痛しか与えなかった。蝕神さまは違う。私になにも無理強いしたりしなかった。全然違うよ」
良平は突然無表情になった。憤りでも悲しみでもなく、死人のような顔つきになり、小花の細腕を握りしめた。加減もなく、骨が軋むほど強く。小花は振り払おうとしたが、びくともせず。
「でも、それは小花のためじゃないよ」
「──え?」
「黒木家の使者が蝕神さまと話しているのを聞いてたんだ。蝕神さまが小花に優しくするのは好きだからじゃない。小花の中の魔性があふれ出るのが怖いからだ。刺激しないようにしていただけさ。うわべだけというなら蝕神さまだってそうさ。そんなこと、小花だって分かっているだろ」
「……やめて」
「好きだとでも言われたの? 蝕神さまは必ずまた贄を娶るよ。黒木家の娘と契りを交わすことで氏神として祀られているんだ。そうでなければ蝕神さまは信仰を持続できず、ただの蛆虫に戻る。かわいそうに、騙されたんだね」
「やめてよ!! そんなこと聞きたくない!! 気づかせないでよ!!」
小花に集っていた蛆が一気に蒸発した。ぽろぽろと涙が流れる。憎悪が、悲しみがあふれ出す。胸の内の魔性が騒ぐ。小花の負の感情に反応して、ざわめく。──どうして、優しい嘘の中、死ぬことすら許されないのか。
「蝕神さまは黒木家に言われて、小花の穢れをろ
「ひどい」
「うん、ひどいね、何も知らない娘と見下して。だから、小花のこと、本当に好きなのは僕だけだよ。一緒に逃げ──」
「ひどい! ひどい!! ひどいいいい!!」
どろり、と小花は泥の涙を流した。感情の栓が切れた。竜巻のような邪気がとぐろを巻く。目から口から耳から、
「呪ってやる! 祟ってやる! 皆大嫌い! 皆消えろ! 皆死ね!! 死んでしまえ!!」
良平の首を目掛けて鋭い爪を振るう。
喉元に血が掠った瞬間。
──地中から湧いて出た
「
あきれ果てた虚は、大きなため息をついた。
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