第21話 私にはお蝶がよくわかる
すればいまの一葉の立場は自明であろう。確かに彼女はいま兄入江頼三のために妾になるのだった。自分のためではない。しかし斯く云う私が見取った彼女に於ける理を世間はそうとは見まい。いや見れまい。単にやはり「自分のため」か、あるいは「生活に負けて」妾になるのだとぐらいにしか見ないだろう。しかしいずれにせよ、それへのくやしさと、またどうしても自分で自分をあざむくような、単に自らに詭弁を弄しているだけとも見てしまう、そのくやしさもあいまって、彼女はいま斯くも堪えがたいのだった。そのうっ屈のからくりが、他ならぬそのいとしいお蝶を前にすれば、私には実によくわかるということだ…。
と、このとき目には見えないが我々二人のかたわらで何の為にか、いや誰の為にだろうか、人が泣いているような、何某か波動のようなものが伝わって来た。何とはなく私は、もし今この彼女の姿を彼女の父上、今は亡き樋口正義氏が見るならば、いったいどう思われるだろうかとふと思ったのだった。愛する妻を、また愛娘二人を、彼は心ならずも事業の失敗ゆえの貧窮の中に残して行かなければならなかった。はたしてそれはどれほど無念だったろうか。そして生計の煩わしさなど考えさせもしなかった、箱入り娘として人一倍可愛がっていた娘夏子(一葉の本名)の、今の生き行く苦労を見るならば、こちらもまた万端遣るかたあるまいと思われた。そのように想像するうちに突然胸がいっぱいになり、はからずも私の目に涙がにじみ出た。するとそれに呼応するかのように私を睨視していた一葉の目付きが急に変わり、そこにも切なげな、しかし愛しげでもある涙が浮かびあがる。
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