29. 蘆屋と墨馬と鬼

 美陽は陽平に手を握られたまま、陽平の半歩後ろを歩く。手のひら全体で陽平の体温を感じる。陽平の柔らかいものがぴたりと美陽に密接する。少し汗ばんで湿った皮膚の吸い付くような感触を感じる。それは守ってやるとか、離れたくないとか、そんな生ぬるい感触ではない。

 ――離してはやらない。

 そんな思いが伝わってきた。

 美陽がじっと握られた手を見つめて歩く。

「明日ハルのおばさんは?」

「休みやから家にいる」

「よかった」

 それだけ陽平が返す。

「なんでヨウが緊張してんねん」

 陽平の手に力が入る。

 可哀そうなヨウ。人を疑うなんて不得手なくせに。蘆屋を必死に疑って、それでも疑った先にハッピーエンドを望んでいたのだろうに。

 可哀そうなヨウ。疑いたくないと心が言い、疑えと頭が言う。俺のために自分を裏切ろうと葛藤する。

 可哀そうなヨウ、愛おしいと思う俺のために。

「ヨウ、ありがとう」

「ん? 何が?」

「別に」

 二人の間に流れる空気は穏やかだった。そしてそれは嵐の前の静寂だった。


 次の日は朝から降り始めた雨に外はどんよりした空気に包まれる。次第に激しくなっていく雨は昼を過ぎる頃には危険を伴うまでになっていった。厳霊山いかちやまの麓には緊急避難が警告され、早々に避難場所への移動が始まっていた。

 鬼の力とはこれほどなのか。

 これでは鬼の所業などではなく、神の逆鱗ではないか。

 美陽の部屋に閉じこもる二人が身を寄せ合う。激しい雨に渦巻く風。窓の外は空から滝が落ちてきているのかと思うほどの水量で視界が閉ざされる。合わせて数秒ごとに突き刺す閃光と轟く霹靂が尋常ではない。恐怖を煽るほどの地響きが壁と天井を震わせる。びりびりと窓が鳴る。メリメリと空間を走り伝わる音は木が裂かれ引き千切れる音。厳霊山を数多の落雷が襲う。

 陽平がぎゅっと美陽を抱いたまま離さない。大丈夫だと言っているのに、不安で不安で仕方がないのだろう。チカチカと電気が点滅するとふっと明かりが消えた。どこかの電線に雷が落ちたのだろうか。

「美陽! 停電かしら?」

 一階から母親の呼ぶ声が聞こえる。数秒するとパッと再び明かりが点く。

「大丈夫みたい」

 美陽が声を張って返事すると母親も安心したのかリビングへと戻っていった。

 さきほどから陽平は言葉を発しない。あんなにお喋りなヤツが静かなのは調子が狂う。

「ヨウ、何か喋れって」

 巻き付く腕をぽんぽんと叩く。

「お前ってこんな怖がりやったんか」

 鋭く差し込む白光が部屋に窓枠の影を映す。ゴロゴロとまた雲が唸り出す。部屋のテレビから聞こえてくるニュースは、やはりこの地の異常気象の事など一切触れることはない。しかしSNSを見ると、ここへ向かう電車、道路、すべての交通網は天候により封鎖されている事実を伝えていた。何かの力が働いた素早い対処だ。美陽が携帯の画面をオフにする。

「俺さ、やっぱり県外の大学行こうかな」

 久しぶりに陽平が顔をあげる。思ったよりも情けない顔をしていた。

「なあヨウ、俺が遠くに行ったらどうする? ここを出て違う場所に住むねん。すぐには会えへんくなって、お互い忙しくなったらだんだんと忘れていく。今日のことも、その前のことも」

 情けない顔だと思っていたが、これはの方だったか。

「はあ? ハルが県外に出るとして、違う場所に住むとして、なんで俺らが離れるん。俺はずっとハルと一緒におるつもりなんやけど。ハルには俺が必要やろ?」

 頭でも打ったんかとでも言いたげな顔で美陽の顔を見ている。思わず美陽が笑いだす。

「せやな。そうやんな、ヨウは」

「でもよかった。やっぱりなんか理由あって諦めてたんやろ。おばさんのこと? お金? それなら大丈夫やで、俺が働くし」

「いやお前は進学せんの?」

「ハルー、俺の勉強嫌いなんで知らんねん。いや、勉強が心底嫌いってわけじゃないけど。うちは金ないし、仕事していろいろ学びたい。それより、早く家を出たい」

 以前美陽が県外へ出る事を辞めたと伝えた時、焦っていた本心はこれだったのかと知る。

「お前はほんとに、俺がおらなダメやな」

 美陽が陽平に体を預ける。

 ヨウは、俺が必要としていると実感して初めて安心する。分かってて利用してるんは俺か。

「でも俺はこれからも鬼と共に生きていかなあかんらしいし、もう普通の人として生きるんは無理かもしれんで?」

「それは俺が離れる理由か? 加持とか体調とか、いろいろ気にすることは増えるけど、それは俺の理由にもならん」

 陽平にもたれる美陽の体に一つだけ変化があった。今まで感じていた血が巡るようなざわつきがなくなった。そわそわと体が悦ぶのを感じない。その代わり、とても静かで暖かな安心感が体の中を流れているようだった。



 一方で穏やかでない状況が蘆屋たちに襲いかかっていた。

 積祈つみき神社の本殿の中。護摩釜から轟轟と立ち上がる火が部屋の中を熱する。部屋の中でガラガラと何かが崩れ落ちる音が盛大に響いた。

 暴れ出し部屋の外へと這い出ようとする墨馬の襟首を蘆屋が掴むと引き倒す。うつぶせに倒れた墨馬の手足を封じようとするが凄まじい力で振りほどかれると爪を剥いた手が蘆屋を襲う。襲い来る手首を掴むと力任せに床へと押し付ける。息を切らした蘆屋が墨馬に馬乗りになった。

 下たる汗が墨馬の顔へぽたぽたと落ちる。蘆屋のシャツのボタンは二つ三つ無くなっていた。はだけ乱れたシャツからのぞく肌についた引っかき傷から血が滲む。そんな怪我には構っていられない程蘆屋は必死だった。

「暴れんなって香住!」

 護摩壇に目を遣ると少しも火に犯されていない形代が灰になった護摩木の中へと沈んでいく。くそっと小さく吐く。蘆屋が他に気をとられた瞬間、再び墨馬が蘆屋を跳ね飛ばし扉の方へと手を伸ばした。しまったと抱きかかえるように墨馬の動きを封じると、暴れた墨馬の肘が見事に蘆屋の脇腹に入る。ぐふっと息を吐き出すが、腕の力を緩めるわけにはいかない。こんな状態ではまともに誦文じゅもんを唱えることも出来なければ護摩木を組むことも出来ない。護摩釜にある護摩木が燃え尽きてしまえば加持が失敗に終わる。鬼を鎮めることが出来なくなる。

「おまっ。このツケは高いからな」

 必死に手を伸ばし取り上げた15cmほどの護摩木を口にくわえる。ふつふつと口の中で何かを唱えれば、なんとか墨馬を仰向けに押し倒し、咥えていた護摩木を墨馬の歯牙に噛ませるように押し込んだ。鬼を封じるごくごく簡単な術。墨馬ほどの鬼相手に効果はさほど期待できない。それでも少しだけ弱まった墨馬の体を感じ取ると、今だと蘆屋が散乱した護摩木を拾い上げ、数枚釜へと投げ込んだ。

 墨馬へと視線を戻すと、咥えさせた護摩木をぎりぎりと噛み砕こうとしている。そんな事をすれば人の歯がもたない。次は護摩木を取り上げる為墨馬の口をねじ開ける。

「香住の体を壊すんは頂けんなあ!」

 力任せに誦文を叫べば炎が力を取り戻したように燃え立った。どこを殴られたかも分からない。蘆屋の体も限界が来ている。護摩木を吐いた墨馬がさらに蘆屋を突き飛ばし威嚇する。

 俺っぽくないことはしたくないんやけどなあ。こんなんまるで陽平くんみたいやん。

 自分を嘲笑するようにふっと笑いを零す。儀式や術など、もはやそこに打開策はない。

 蘆屋が最後の力を振り絞り墨馬を捕えると、両手でその顔を挟んだ。そして無理やり自分の目を合わせさせる。

「香住! 戻って来い! 俺や、累や! 分かるやろ! 香住‼」

 こんなものは術でもなんでもない。ただのまやかし。それでも人はそんなものに縋る。形のないもの、方法が確立されていないもの、一か八かの運、そんな不確かなものに望みをかけて祈る。しかし祈りこそが古より途切れることがなく人々がとってきた手段だった。そして何よりも人にある心という一番不確かなものを信じて来た。

「香住!」

 一瞬だったか、墨馬の瞳孔が鮮やかな黒を帯びた。蘆屋が護摩壇に向かい手印を結ぶと叫ぶ。

ね! 鎮まれ!」

 ぼっと音を立て形代が燃え始める。みるみると縁が黒くなると形を残したまま炭になった。蘆屋の腕がずしりと重くなる。抱えられた墨馬から力が消え、何事もなかったような穏やかな寝顔を見せていた。ちりちりと燃え尽きていく火を見届けると、蘆屋もガクっとその場に座り込む。浅い息を繰り返し、汗で濡れた顔を拭う。そのままばたりと仰向けに寝転がる。上下する腹を枕に墨馬が眠っている。

「勘弁してや、ほんま」

 もう朝日が顔を出した頃だろうか。荒々しい風と雨、雷の音も聞こえない。手を伸ばし扉を少し開けてみる。つうっと一筋の光が部屋の中に差し込んだ。部屋のこもった空気と入れ替わりに綺麗な風が吹き込んでくる。天日を確認した蘆屋がようやく安心し目をつむった。



 朝日が顔を出すころ、みるみると雲が退き、厳霊山へと薄明光線が空から伸びた。放射状にのびた光は町にも明かりをもたらす。青々と茂り穂をつけだした田んぼ。大きな水たまりをあちこちに残した畦道。濁流が溢れだした水路。葉や枝が張り付いた家々の屋根。ひっくり返った鉢たち。折れた木々。泥まみれになった道路。全てのものを照らしていく。

 カーテンから漏れ入る光を、眠い目をこすりながら陽平が見上げた。

 コンコンと美陽の部屋のドアがノックされる。

「ヨウくん、美陽、起きてるの?」

 母親の声に美陽がのそりと立ち上がりドアを開ける。

「え、あなたたちずっと起きてたの!?」

 へろへろになった二人の姿を見た母親が呆れている。

「いや、えーと、ずっとゲームしてて」

 頭を搔きながら陽平が言い訳する。もちろんゲームなどする心の余裕などなかったのだが。

「電車も道路も昨日の雨で封鎖ですって。点検作業で今日一日は動かないみたいよ」

「わー、今日が月曜なら学校サボれたのにー」

 元気良く声をあげる陽平に、どうしようもない奴だなと美陽の視線が言っている。そんな二人を見て母親はふふっと笑った。

「交通機関以外の被害も大きそうよ。厳霊山は山崩れの危険があるって、未だに避難指示は解除されてないって」

 青葉台は厳霊山からも数キロ離れているため山からの被害はない。ただ避難を余儀なくされ、気が気でない同級生たちもいるだろう。

 晴れたということは、蘆屋たちは上手くやったのだろうか。それとも予想だにしない事態になっているのだろうか。蘆屋からも墨馬からも連絡は入っていない。

「ヨウ、行こう」

 美陽が陽平を連れて部屋から出ようとすると、母親がそれを制した。

「こんな早くどこに出かけるの!? 外はまだ危ないわよ」

「おばさん、ちょっと散歩。危険なところには近づかないから。徹夜しちゃったから外の空気吸いたくて」

 陽平がおどけてみせたが母親の顔は渋っている。

「ダメよ」

「母さん、ちょっとだけだって」

 二人に背を向けて廊下を歩いていく。

「朝ごはんを食べてからにしなさい。せっかく作ったんだから」

 ぷりぷりと怒りながら階段を下りていく母親に陽平と美陽が顔を見合わせる。ニっと陽平が笑うと、美陽も眉をひそめて笑い返した。

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