3. 昔話2

 次の朝、目覚めると同時に美陽みはるの家に電話をかけた。しかし電話には誰も出ない。急いで外へ駆け出し美陽の家に向かう。チャイムを鳴らしたが、こちらも応答がなかった。おかしいと思ったが仕方がない。もう一つの心配事へと走り出す。小山を登り祠へと向かった。

 この頃は不思議に思った事も興味を持った事もなかったが、ここの祠は階段に背を向けて建っている。祠の正面側には探検隊しか使うことのない獣道がふもとへと続く。祠などは普通、人が往来する階段側に正面を向け、訪れる人を迎えていそうなものなのに。

 祠の正面に回り込むと昨日置いていった段ボールを見つけた。一安心するとその中を覗き込む。その瞬間、陽平が言葉を失くした。目を見開きひゅっと息を吸うと一歩後ろへのけぞる。段ボールから逸らした目を再びそちらへ向ける事が出来なかった。一歩二歩後ずさり呼吸を整える。どうしてか美陽の存在を探してしまう。こんな時、いつもなら美陽の手を握ってやるのに。いや、握りたいのはいつでも陽平の方だった。

 もう一度心を落ち着け段ボールの中をゆっくりとのぞきこむ。やはりそこには猫がいた。四肢をぴんと張り、硬直した猫が。「死んでいる」。何かの死に直面したのは初めてだった。よほど心に衝撃を与えたのだろうか。猫がどんな顔をしていたのか思い出せない。苦しそうだったような、何かに驚いたような、そんな顔だっただろうか。とはこういうことだと思ったと記憶している。段ボールに触れることも出来ず山を走って下る。ぬかるんだ土に一度足を滑らせ転びそうになる。それでも足を止めず走り続けた。登校前の早い時間は団地に人の姿など見当たらない。一目散に戻った家で母親に今あった事実を伝えた。「かわいそうだったわね」と言った母は一体どれほど同情してくれていたのだろう。

「地区会長さんに言っておくから、陽平は学校へ行きなさい」

「お墓、立ててあげるん?」

 それには答えず、「ちゃんと供養してもらうから」と、それだけ言い残してキッチンへと入っていってしまった。陽平もその言葉を信じるしかなく、それ以上の追及は諦めた。

「うん」

 母には聞こえないほどの小さな声で頷く。後ろめたさを感じたまま学校へ行く。その日、美陽は学校を休んでいた。


 不安な気持ちのまま一日を過ごした陽平が放課後に向かったのはやはり美陽の家だった。体調が悪いのだろうか、家族に何かあったのだろうか、それとも自分が何かしてしまったのだろうか。あらぬ想像をしてしまう。緊張しながらもう一度チャイムを鳴らした。

 出て来なければ先生から預かったプリントと共に手紙を置いていこうと考えていた。しかし今度は玄関のドアがゆっくりと開いた。

「ハル!」

 具合が悪そうな美陽が顔をのぞかせる。

「大丈夫か! 風邪、ひいたん?」

 大きな声で呼びかけるとげっそりとした美陽に駆け寄る。陽平の顔を見た美陽がほっと安心したように見えた。

「ちょっと体調悪くて。母さん、昨日は帰って来なくて」

 美陽の母親が仕事で家を空けることはままあった。そういう時は陽平の家に来たらいいと言っているのに、たまに美陽は我慢をする。

「一人は危ないって、うちのお母さんも言ってた。遠慮すんなや」

 悲しそうな顔をすると、それを美陽が愛おしそうにする。

「ハルは寝とき。俺がおったるから」

 美陽の手を引くと、ずかずかと他人の家へと入っていく。二階に上がり、慣れた様子で一つの部屋へと陽平が向かう。美陽を部屋のベッドに寝かしつける。シーツやカーテンも男の子の趣味にしては可愛らしい美陽の部屋。母親の趣味だろうか。この部屋に入ると美陽の存在を直に感じる。陽平はこの部屋の空気が好きだった。

 美陽が大人しく布団にもぐりもぞもぞと動くと、やがて静かになった。片時も離れまいと言わんばかりに陽平がベッドの脇に座り込む。布団からひょこっと出た目元が陽平を見つめている。その視線に気づくと陽平がニカっと笑った。

「昨日、怖かったやろ」

 怖くなくても美陽は「うん」と頷く。布団になど入っていなくてもいいのに横になりくるまっている。そうすれば陽平は心配してくれる。

「あんな、ハル。昨日の猫やけどな――」

「ヨウ!」

 突然大きな声で言葉を遮られる。驚いた陽平の手首を美陽が強く掴んでいた。

「ど、どうしたん。急におっきな声」

「ごめん、ヨウ。その話、したくなくて」

「え、あ、そうなん。ごめん」

 一日家にいたから、どこかから話が入ってきたのだろうか。猫が死んだこと。どこかで供養されたこと。知らないのなら美陽が話を避ける理由がない。しかしさらに悪くなった美陽の顔色に、この話はもうしないでおこうと陽平は話をそらした。それから美陽がその日の事を聞いてくることはなかった。そして陽平も猫を飼おうなどと提案した罪悪感からか、その話を当分はすることはなかった。

 しかしその時感じた恐怖や不安や後ろめたさは色褪せていく。思い出したように陽平が猫の話をするようになる。そしてその度に美陽が苦しそうに話を遮った。

「ごめん。俺バカだから、すぐに考えてる事口に出しちゃって」

 そう言うと決まって美陽は「気にしてない。大丈夫。陽平は悪くない」と優しく返す。だからだろうか、定期的に陽平は猫の事を思い出しては口を滑らせた。

 そういえば、美陽の家から帰った後母親にこっぴどく叱られた。「猫の死骸なんてなかった。地区会長さんをお連れしたのに、大恥をかいた」。そう怒鳴られた。どうして猫がいなかったのかという事よりも、怒る母親が怖くて、ずっと今まで忘れていた。



 ジャングルジムの上で高校生になった陽平が当時の事を思い出す。さきほど怒られた手前、さすがに意識して口を噤む。きっと美陽にとってのトラウマなのだ。美陽に目線を移しては落ち着きなく視線をはずす。そんな陽平に気付いた美陽が怪訝そうに眉をひそめる。陽平がごまかすように笑顔を作った。

「なんかいらんこと考えてるんやろ」

 美陽の言葉に方言が混じり出したのはこの地に慣れたからではない。ちょうど猫の事があった頃からだろうか。からかわれていた標準語をなるべく話さないようにしていたのは知っていた。陽平は美陽の言葉が好きだった。もちろん標準語はテレビで聞きなれている。それらではない、美陽の放つ言葉は今いる環境から違う世界へ誘ってくれているような言葉。それを手放させたのは自分の力不足だったと、今でも悔やむ事があった。

「ハルものぼってきてや」

 手を差しだすも「汚れるから嫌」と拒否されてしまう。クールな性格は元からであったが、最近いやに冷たいことがある。そもそもジャングルジムにのぼって遊ぶなんて美陽のノリとは違う。諦めた陽平はこの時、美陽の態度を深く受け止めることはなかった。


 公園に着いてから一時間は経っただろうか。昔と変わらずただ話しているだけの時間が過ぎる。ほとんどは陽平がケラケラと笑いながらたわいもない話をしゃべり続ける。たまに口元を緩ませながら美陽が陽平の話を聞いていた。空に青と朱色のグラデーションが出来始めた頃だった。

「陽平くん!」

公園にもう一人、団地仲間が顔を見せた。

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