多幸式
小狸
短編
さる会社の入社試験を受けた時の話である。
それは面接であった。
――あなたは今、自分を幸せだと言えますか?
それは、私が用意していた質問集に掲載されていたものだった。幸せかどうか、幸福度、いかなる反応をすれば世間からどう見られるか、面接官からどう見られるか、そんなあれこれが脳裏を
なので、あまり深読みすることなく、読み飛ばしてほしい。
しかし、幸せ、ねえ。
宗教勧誘で良く聞きそうな問いである。
私は無宗教なので興味はないし、実際に遭遇したこともない。学生時代、一人暮らしをしていた頃にそれらしい二人組が家のインターホンを押したことがあったけれど、居留守を使った。
幸せかどうか、か。
改めて鑑みると、考えたことがなかったかもしれない。
もしこれが親からの質問だったら、どうだっただろう。
多分突然のことに驚き、逡巡するだろうと思う。
そして、幸せだよ、と答えるだろう。
少なくとも、私はそう思っている。
両親のことも、兄のことも、尊敬している。
そういう家を――居場所を作ってくれた彼らには、感謝の意しかない。
同級生の「死にたい」が口癖のT君よりは、恵まれていると思う。
でも、幸せかどうかと問われると。
ふと立ち止まってしまう。
まだ当時の私はそんな考えはなかったけれど、世の中の平均的な幸せ像というのは、どこか固定されているような感は否めない。
幸せな関係。
幸せな家庭。
幸せな家族。
「幸せな」が接頭語となる言葉は、多くの場合において、何かしらの人間関係の末に成り立っているもののように表現される。
逆に一人である、群れない人間に対しては――令和の今でこそ表現は緩くなったけれど――寂しいとか、孤独死とか、そんな言葉が投げかけられる。
固定観念としての「幸せ」像があって、その上に私達はいつの間にか立っているのではないか、と思うのだ。
そう思うと、揺らぐ。
私が今、幸せなのかどうか――ということ。
それは、どこから見た視点での、「幸せ」なのかということか。
他人から見ると、どうしても色眼鏡を通すことになる。
羨望、嫉妬、そんなドス黒い感情が蠢いている。
しばし日本人は「主体性に欠ける」なんて、主語を大きくして語られることがある。
それはまあそうなのかもしれない。
だってそうじゃないか。
やることなすこと前へ倣え、はみ出すな飛び出すな逃げ出すな、一度落ちたら後はない、社会の構造自体が、そういう人間を生み出すようにできている。
そんな中で確固たる自己を持って生きている人間は、成程貴重であるといえよう。
まあ、果たしてそういう人が、幸せなのかどうかは、分からないけれど。
場面は、面接会場に戻る。
秒数は、一秒をもうすぐ経過する。
しかし、少なくとも会社の入社面接というものは。
本心を吐露する場所ではなく。
本音を語る場所でもない。
だからこそ、私は言える。
虚勢を張って、笑顔を貼り付けて。
用意された模範解答を述べる。
私は「幸せです」と答えた。
結果面接に受かり、最終面接まで行って、その会社に入社することになった。
今では、そこで働いている。
給料も悪くないし、営業で繁忙期は忙しいけれど、やりがいのある仕事である。
しかし時折思い出す。
あの時、「分かりません」と。
本音を答えていたら、本心で言えていたら。
どうなっていたか。
少なくとも、この会社には受かっていなかっただろう。
でも。
それが果たして幸せなのかどうかは。
今の私にも、分からない。
(《
多幸式 小狸 @segen_gen
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