第30話
南洋にぽっかりと浮かぶこの小島、スリング島はかつてソール・オリエンス王国の統治下にあった。しかし、王国の消滅によりその支配権は宙に浮き周囲の大国が手を伸ばそうとしたが、仲介を買って出た極西の共和国連合の協力もありどの国の支配も受けない緩衝地域として自由貿易が可能になることとなった。
そんなスリング島の主な貿易物は紅茶ならぬ緋茶、鮮やかなスカーレットレッドのお茶のブランド名は、スカーレットプリンスという。
ソールオリエンス王国の最初の王であるユリウス一世のひ孫であるユリウス二世は、このスリング島を避寒地としていて、度々訪れては癖のある島の原始の茶を好んで飲んでいた。そして植物学者としても知られていたユリウス二世は島の民と協力し、酸味の強いその茶を一般にも飲みやすく改良するため尽力しやがて緋茶が誕生した。
ユリウス二世の協力の元緋茶は王家の献上品となり、ベリーのような香りとコクのある深い甘みにほのかな酸味が利いたその味の良さと色味の艶やかさ、そしてぐつぐつと煮立った湯を一気に注ぐと茶葉が花びらのようにパッと開くといった手品的な楽しみもあって貴族たちに一気に人気が広がり、今までこれといった主な産業のなかったスリング島の貿易の主力となったのだ。
ユリウス二世はその王子という立場を少しも驕ることなく、島の人々にまるで家族のように接した。
島民が是非にと懇願して名付けられたスカーレットプリンスの収穫の時期には、島民とともに泥だらけになって収穫し、嵐の日には大きなござを広げて苗を守り、緋茶農夫の妻たちのお手製のクランペットにたっぷりのはちみつをかけて頬張り、自分にちなんだ名前がついて照れ臭いとはにかみながらスカーレットプリンスを楽しんだ。
島人に愛され、そして彼も彼らを愛した。
そんな由来があったため、王国の消滅後もスリング島の人々はその名を変えようとすることはなかったのだ。
そんな緋茶農園の裏手の川べりにある藁ぶき屋根の小さな家が、今のメイベルとロレッタの住居だ。部屋は一つしかなく、ベッドを二つ置いたら足の踏み場もないほどの家というよりも小屋のような代物だが、それでも小さな船室よりはだいぶ広い。使用人としてとはいえ立派な城や屋敷で生活していたロレッタには狭苦しいのではとメイベルは少し心配したが、「私、立って眠るほど狭い場所で生活していたこともございますのよ」とまた謎の返事が返ってきたのだった。
そして、この二人の新居にはメイベルを訪ねて毎日二人の男が現れていた。
男といってもその一人はプッピー、島長の孫の8歳児だ。
「ボクね、メイベルお姉ちゃんのボディーガードなんだ。キャプテンダイヤモンドと約束の指切りげんまんしたんだからね、はい、これあげる」
プッピーは、道すがら摘んできた野の花をはいっとメイベルに差し出す。
「わー、いつもありがとうね、プッピー」
しかし、野の花を受け取った後もプッピーはその手を引っ込めることはせず、何かをねだるようにメイベルの目を見上げてじっと見つめる。
「ねぇ、お姉ちゃん、あの子はー?」
そう、プッピーが毎朝メイベルの元を訪れるのは、キャプテンダイヤモンドと約束したからだけでも、自分が強い男と証明したいからという背伸びした気持ちからでもない。
「えっと、あの子かな?」
「うん!」
メイベルはその掌に、ちょこんとビーを乗せる。
「わー、ふわふわ、可愛いなぁ」
ビーは少し嫌そうに体をひねるが、プッピーはお構いなしだ。
「うーん、ビーちょっと疲れてるみたい、今日はもうおしまいにしてね」
プッピーの小さなふくふくとした手からビーを取り戻すが、まだその手は引っ込まない。
「今度はあっち!」
「はいはい」
メイベルはベッドの下からごそごそと小箱を取り出し、その中から黄金色のシロップに浸かっ鮮やかなオレンジ色の金柑の甘露煮のガラス瓶を取り出す。
ダイヤモンド号が出発する前に、ジャネットがくれたものだ。
「呑み過ぎたときにこれを食べると調子いいんだよね、ベルはまだ酒呑まないけど、おやつとしてもうまいからさ、あたいが唯一まともに作れる食いモンなんだよ」
ガハハと笑いながら託されたそれを、メイベルは大事に大事にゆっくり味わおうと思っていた。しかし、帰り際目ざといプッピーに大事に抱えた瓶を見つかってしまい、物欲しげに指をくわえて見つめる幼い子供に根負けしたメイベルは一つ分けてしまった。
「わー、これちょっとだけ酸っぱい味もするけど、とっても甘い、美味しいねー。島には生えてない果物だねー」
味をしめてしまったプッピーは、それから毎日のように金柑の甘露煮をおねだりするようになり、大きな瓶にパンパンに入っていた金柑は一月も経たないうちにもう残りわずかだ。
子供ながらに残り少ない瓶の中を見つめてちょっと寂しそうなメイベルの姿に気が咎めるのか、お土産の野の花は欠かさないプッピーだったが、金柑を前にしたらもうよだれが噴き出してきてしまって気持ちを止められないのだった。
「はー、あたしもローもまだ二つずつしか食べてないんだけどなぁ、こんなことならジャネットにレシピ聞いておくんだった。まぁこの島に金柑ないんだけどさ」
軽く溜息をつきつつ瓶のふたを閉めていると、二人目の客がトントンとドアを叩く。
「メイベル嬢、もう起きていますか?」
昼手前の時間、今まで一度もそんな時間まで寝ていたことはないのだが、これが彼流の挨拶らしくなぜか毎回こう訊かれ、「えぇ、数時間前に起きていましたよ」ドアを開けたメイベルの方も毎度毎度こう答える。
客の名はズーイー、島長の甥っ子でメイベルより三歳年上の青年だ。またしても島長の身内だが、プッピーのようにキャプテンダイヤモンドから頼まれて様子を見に来ているわけではないらしい。
ではなんの目的なのかというと、それはメイベルにも謎なのだ。理由がとんとわからない。
ドアを叩き、メイベルが起きているかを確認する。
そしてメイベルが顔を出すと、野の花を渡すでもなく、何か用事を頼むわけでもなく、「あぁ、そうですか」それだけ言ってぺこりと頭を下げて帰っていく。
意味不明の行動だ。
彼がくるりと踵を返すと、慣れっこになってしまったメイベルはその背中をしばらく見送るでもなくすぐにドアを閉めてしまうので、彼が頭を掻きながら「あー何でオイラって気が利かないんだ。今日はいいお天気ですね、とかいくらでも会話の糸口はあるってのに、また起きてるかだけ訊いて帰って来ちまった、土産も持っていきたいけど、ガキのプッピーの真似みてぇに花をもっていくわけにもいかねぇしな、あーもうオイラったら何してんだろうなぁ」と、毎度毎度悶絶している様子も見ることはないのだった。
メイベルがやってくる前のズーイーと言えば、エディがすっかりメロメロになった花の首飾りの女性、川向こうのライラに夢中だったのだが、船から降りたメイベルを出迎えたときにその揺れる巻き毛にすっかり目を奪われてしまい、海育ちということからまるで人魚のようだと妄想が膨らみに膨らんでライラのことはすっかり忘れ、緋茶の水やりが終わるとすぐにメイベルの元へ訪れるのが日課のようになってしまったのだ。
ただ、三年もの間夢中だったライラにすらその周りをうろうろしておはようというのが精いっぱいで、恋心を全く気付かれていなかったような、奥手口下手なズーイー、渾身の頑張りを見せているメイベルへのアプローチも本人に全く気付かれていないのだが。
こうして二人の男たちの訪問が終わると、村の幼稚園での授業を終えて家に戻ってきたロレッタと入れ替わりにメイベルは港付近にあるとある工房へと出かけていく。
そこには島一番の長老、シャーマン兼草木染め職人のベベロばあさんがいる。
ベベロばあさんが手掛ける南洋特有の艶やかな花で染められた布やレースは、外国の有名なファッションデザイナーがわざわざ買い求めに来るほど評判だ。
「ベベロ先生、今日もよろしくお願いします」
「あぁ、雑巾がけから頼むよ」
「はいっ!」
メイベルはここで草木染の手ほどきを受ける代わりに、雑用をしているのだ。
ここであたしは、独り立ちできる技術を身につけるんだ。
父さん、ジャネット、ダイヤモンド号の家族、そしてこんなあたしのことを好きになってくれたテュール王子にも胸を張れるように。
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