26

 僕は古びた屋敷に座っていた。

 くたびれた畳に、所々崩れた土壁、調度品を見ると裕福な家のようだが、何故か荒れ果てている。そして、視界全てが白黒映画のようにざらついていた。

 最初は谷原さんから聞いた屋敷の夢かと思ったが、どうも話と違う。

 ……そうだ谷原さん。

 あの木製の仏様が手に触れた時、痺れるような電流を感じてここに来たのだ。

 正面は障子が開け放たれて、太陽の光が差し込んでいる。逆光の中、目の前には土下座をしている男性がいた。上座に座る僕に対して何かを話しかけているが、まるで水の中にいるように不明瞭で聞き取れない。

 月代が広い丁髷に紋付の袴、こんな格好は夕方の時代劇でしか見たことが無い。

 ふとその男が顔を上げた。首が太く恰幅の良い体格、それにどこかで見たような顔だ。しかしその頬は痩けて目は落窪んでいた。時折一筋の涙を零す。必死に訴えているのを見ると、何かお願いをしているのだろうか。

「平兵衛は如何に」

 突然、僕の口が動いた。

 ついて出た声は威厳があり、それでいてどこか優しげだった。視界の右端から、正装をした老人が罷り出て、ごにょごにょと何かを呟く。こちらの声もやはり聞こえない。

「……左様か、坪刈つぼがりをして尚悪ければ仕方なし」

 ぱちりと扇を開いて、また閉じる。その動作を何度も何度も繰り返す。場が緊張に満ちていた。しばらく手遊びをして、考えこむように閉じた扇の先を額に当てる。

 報告した老人は皺だらけの顔をぎゅっと萎ませた。それが彼なりの恐縮なのか、ひたすらに渋面をつくっている。

「大検見をするまでもない。年貢は赦免とする」

 僕が結論を出すと、どよめきが起こった。それは段々と大きくなり、津波のように轟く。目の前の男性は伏せたまま、背中を震わせ泣いていた。

 それよりもこの歓声はどこから来ているのだ。

 よく見ると、男性の後ろの庭で大勢の人間が喜んでいた 逆光で白飛びして見えにくいが、野良着を纏った人達が飛び跳ねていた。みな痩せ衰えている。枯れ枝のような手足を舞わせて精一杯歓喜を叫んでいたが、その様子もどこか元気なく見えた。

 飢饉。

 この村は皆が飢えている。農民達は骨と皮だけの姿で舞い踊り、まるで骸骨達の宴のようだ。そして、彼らはひとしきり騒いだ後、畏れ多いとばかりにこちらを拝みだした。

 僕は下がれ、と手を振った。男性は伏せたまま恐れながら退出し、庭が見えていた障子も閉められる。

「平兵衛、近う」

 僕は先ほどの老人を呼びつける。

 相変わらずのへりくだりようで、自分の置かれた強い立場に気付いた。平兵衛は木綿のくたびれた紋付袴だが、僕は絹の立派なかみしも。そして一存で年貢の取り止めまで決定しているのだ。官僚としての肌感覚で分かる、相当偉い政治家だろう。

「これほど酷い村は初めてだ。一時年貢を赦免しても根本は変わらんだろう、そこでわしに腹案がある」

 老人は返事をするが、相変わらず耳に膜が張ったように聞こえない。

「ちと銭がかかる故、先ほどの名主には内密にする。これ以上の負担は負わせられん。見よこの屋敷を、土壁の繋ぎまで民に与えておる」

 哀れみと同情、そして激しい義侠心が湧き上がるのに気付いた。崩れた壁の中に入っていた何かを食べるまで、飢えているのか。それも自分のためではなく、農民達に分け与えるとは。お役目ということもあり、外面には出さないが涙が溢れそうであった。

 先ほどの伏せていた人物、彼は田牧町長に似ていた。

 おおやけのために尽くすという行いだけでなく、容姿がそっくりなのだ。それに、庭から見た山の形が、旧田牧家である資料館からの景色にどことなく似ていた。ひょっとしたら、ここは過去の朝比町なのかも知れない。

 そんなことを考えていると、視界が暗転していく。

 まるで上映の終わった映画のように。

 これは記憶だ。

 誰かの記憶を見せられている。

 そして、新しい映像が始まった。

 今度は夜だ。

 闇に満ちた山道を、荷を引く牛と共に歩いていた。牛車には、不格好な木がたくさん積まれている。行列は足場が悪く急勾配の山道をひたすらに進んでいた。ときおり人夫が牛の尻を叩いて、転げ落ちないよう誘導している。

 そして、何故か懐が冷たい。氷の塊でも突っ込まれているようだ。に触れた箇所から生気が奪われて、手足が思うように動かせない。

 苦労しながら牛達と共に歩くと、山間から僅かばかりの平野が見えた。朝日が顔を覗かせて、谷川に反射している。

 夜須川だ、朝比町を貫く川。

 何て美しい川だろう。感動で胸が一杯になったが、これは僕の感情ではない。そして、今は正装ではなく山伏のような格好をしていた。

 不思議と、先ほどの綺麗な裃より肌に合う気がする。手に持つ錫杖しゃくじょうから鈴の音を鳴らしながら、一歩づつ歩く。

 ここは見覚えのある山、麻生山だ。

 監査の時に見た十分の一程度の棚田が、遥か下に見える。

些事さじは任せる。材木が余れば神社に持ってゆけ、宮司に話は通してある」

 人夫達にそう告げると、僕は薄暗い洞窟へと入っていった。

 右手に松明、左手に錫杖、冷たく湿った空気が僕を包み込む。蜘蛛の巣や蝙蝠には目もくれず、ひたすらに下へ下へと降りていく。松明の明かりで限定的に照らされているが、その先は暗闇。

 瞬くように、ちらりと白い何かが見えた。見えたと思うと消える、その繰り返しをするものは光ではない、振り子の如き動作が尻尾に似ている。

 ただそれについて考えることもできないほど、悪寒が酷い。鍾乳洞ではなく、懐の中にある何かが僕の体力を奪う。踏み出す足が重く、指先は感覚がなくなってきた。目の前をちらつくものは僕が歩みを止めると、励ますように左右に振れる。

 必死に着いていくと、小さな空間に出た。

 踊り場のようなその場所は、蝋燭で照らされている。そして行先には大きな扉がはめ込まれ、行き止まりとなっていた。洞窟の雰囲気に似つかないほど、ぴかぴかの新品の扉。だが、先導していたはずのものはどこにもいなかった。

 今は気にしている場合ではない、この先に用があるのだ。頑丈な作りの扉を少し開くと、真っ暗な道が更に下へと伸びるのが見える。ここでいい、そう思うと、懐からあるものを取り出した。

 ——木で出来た仏様。

 優しい笑みとは対照的に、全体が荒々しく角立っている。

 そして、寒さの元凶はこれだった。

 扉の向こうに、ことり、と木仏を置いた途端に体が軽くなる。手足の隅々に血液が行き渡り、体力が回復していく。体の芯が温まっていき、生命力が五体に満ちるのを感じた。

 同時に目の前では、不思議なことが起こっていた。

 木仏の影が伸びている。

 僕の背後から照らす蝋燭が、影を無限に伸ばしていく。それだけでなく横にも広がり、行先の道を満たした。

 すると、ふわりと風が吹いた。洞窟の奥から、何かが腐ったような異臭を運んでくる。これまでの湿度とは違う種類のべたべたした感覚が、体を包み込む。

 なぜ閉ざされているはずの奥から風が吹いたのだ。

 そう思い至った時、自分の手が震えていることに気付いた。

 僕はを知っている、そしてとても恐れている。

 恐怖を覚えながら、さっと木仏を回収し、扉を閉めた。再び懐中に仕舞っても、あのぞっとするような寒さは感じない。閂を掛けて、重そうな錠で封をすると、どっと疲労が押し寄せてきた。

「これで成った」

 ぽつりと呟くと、また視界が暗く遠くなる。

 これで終わりらしい。

 大体の事情は分かってきた、誰が何を見せているのかも。

 しかし何故僕なのだ。

 谷原さんや日置さんに見せた方が、話が早い気がする。

 それとも何か伝えられない事情があるのだろうか。

 ——安川、どうした。固まっちゃって

 谷原さんの声で、はっと我に帰った。

 乱雑に積まれた書類とファイルに、包帯でぐるぐると巻かれた顔。手には優しげな微笑みをたたえる木仏を握ったままだった。

「大丈夫か?」

 上司は心配そうな声色を出すが、表情は分からない。

「どれくらい時間経ってましたか」

「は? どれくらいって」

「いえ、何でもないです」

 恐らく一瞬のことだったのだろう。

 それよりも考えなければいけない、僕に伝えた理由を。

 彼が垂らした糸を手繰り寄せる。

 声や動作を思い出す。

 一つ思い至ることがあった。

 小さい時に父さんから聞いた話が、その結論を補強していく。

 もしそれが本当ならば、に証拠があるはずだ。

「すいません、帰ります」

 言うや否や、さっと荷物を纏め始めた。

「お、おう。お疲れさん」

 戸惑った上司の声を背中に受けながら、職場を後にする。

 走って庁舎を飛び出し、電車に乗る。

 最寄駅に着いてからも走り続けた。

 傾いた太陽が照らす中、雑踏を駆け抜けて、これまでで一番短い時間で帰宅する。

 その足は、自宅の外門を潜ったところでようやく止まった。

 ぜいぜいと息が切らしながら、庭の一角に佇む大きな蔵の前に立つ。

 夕暮れの薄闇の中で、それは不気味に白壁を晒していた。

「……ここにあるはずだ」

 息を整えて錆びついた扉を開ける。

 ぎい、という音と共に、埃っぽい匂いが押し寄せてきた。

 恐らく米倉として使われていたこの建物は、理由は忘れたが、壁際に柱が多い。そしてその壁の側には、漆の塗られた文箱ふみばこがうず高く積み上げられていた。

 以前は古い道具や着物なんかも置かれていたが、改装を機に全て処分されてしまっていた。一緒に書物が捨てられなくて、本当に良かった。

 スマートフォンのライトで、一つづつ照らしながら確認していく。

 小さい時に父さんが見せてくれた、あの巻物を探す。

「実道、ご先祖様は商才があってな。身一つで江戸にやってきて、あっという間に有数の米問屋になったんだぞ」

 言われた言葉が頭によぎる。違う、恐らく感謝の証として送られてくる米を元手に商売をしていたんだ。

「地方で飢饉が起こるとな、ご先祖様は無償で米を送ったらしいんだ」

 彼は正義感が強かった。役人をするよりも問屋として動いた方が人助けになることに気付いたのだろう。

「あった」

 一番古い文箱、漆が剥げかけたそれを空けると、茶色く変色した巻物が姿を現した。

 安川家家系図、と題された紙を破らないよう丁寧に広げていく。

 焦る気持ちを落ち着かせ、指で辿る。

 祖父、曽祖父、その前、どんどん遡るが意外に終点まではすぐだった。

安川やすかわ求道ぐどう

 全てが繋がった。

 工藤ではない。

 親しみを込めて名前で呼ぶ内に、それが苗字だと誤って伝わったのだ。

 彼が他の誰でもない、僕に伝えたのかも理解した。

 血縁だからだ。

 


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