24

「——おい、おい! 起きろ、大丈夫か!」

 何かが上にのしかかっている、息をするのが苦しい。

 それに目の前が真っ暗で何も見えない。

 しかし、自分の片手が冷たいものに触れていることに気付いた。襖ではない。

 古く滑らかな木の感触、鉄板、鋲、これは門だ。

「目、覚めたか」

 片手は後ろ手で固められている。

 自分を拘束している人物——鈴木は行動と裏腹に、心配そうな声色で問いかけてきた。

「何が何だか、いてて。あの遠吠えは?」

「寝ぼけてるのか。起きたんなら離すぞ」

 暗闇の中から返答があり、身体を解放される。

 上半身を起こし、湿った泥が付いた顔を擦ると、後ろでカチッと懐中電灯が灯った。

 白っぽい光が、自分のいる場所を断片的に照らし出す。

 岩壁に囲まれている六畳くらいの空間。

 天井からは氷柱つららのように、何本も石が垂れている。

 壁の窪みには白いろうがだらしなく溶け広がってこびりついていた。

 鈴木が蝋燭を取り出して灯すと、暖色の火に照らされて、よりはっきり空間が認識できる。

 ——ここは鍾乳洞だ。

 空気全体がじっとりと重く湿っている。

 我々がやってきたらしき細い道が背後にあり、右手側には蝋燭。

 そして正面にある門に自分は手をかけていた。

「あっ、閂が外れてる」

「ちょっと手伝え」

 鈴木と共に、大きな木の板を嵌め直す。

「……ここはもしかして」

「そうだ、例の鍾乳洞。それも生贄を置く場所だよ」

「なぜだろう、座敷の夢を見ていたのに」

「聞きたいのはこっちの方だ。社の戸が開く音が聞こえて飛び起きたら、あんたが出ていくところだった。殴っても抑えても目覚めずに、ここまで引きずられたんだ」

 そう言われてみると、頬がじんじんと痛む。

 鈴木から借りたウェアも泥に塗れて、真っ黒に汚れていた。夢の中でも急に身体が重くなった気がしたが、彼に押さえつけられていたのか。

「外に出たって、かのしは?」

「朝日が出る前だが、一匹もいなかった」

「祓えたってことでしょうか?」

「さあな、もっと悪い事態になっている気もするが」

「……夢の屋敷の中に、あれの、亡者の被害に遭った子がいたんです。身体中を怪我して出血もしていました」

「それからどうなったんだ」

「その子を追いかけて、屋敷の奥に入っていくとどんどん襖の絵が変わっていって……」

 そこまで話して思い出した。

 最後の襖の一つ前、男と子供と女の襖絵。

 あれは「あさ比百姓図」、資料館で見た朝比村の飢饉を描いた絵図だった。

 今思えばあの屋敷自体が、麻生山の神だったのかもしれない。

 最後の雷の襖を開けていたら、どうなっていたか。

「危ないところで目が覚めました」

「お互い良かったよ、ちょっとまずい事態になってるんだ」

 鈴木は門をじっと見ている。

「ここには閂以外にも、鉄で出来た大きな錠前があったんだ。だが今は無くなっている」

「それはつまり……」

「誰でもこの扉を開けることができる」

 ごくりと唾を飲んだ。

 言葉にされずとも理解した。

 麻生山の神が、この向こう側にいる。

「あれがここにいるんですね……」

「ああ、そして錠がないってことは、あれを出そうとしている奴がいるんだ」

 鈴木の言葉にぞっとした。

「そもそも、ここはあなたしか入れないのでは?」

「最後にこの鍾乳洞へ来たのは二年前だ、あんまり頻繁に来たい場所じゃないしな。その間に何かあったのかもしれん。まだ俺を疑うのは自由だが、とりあえずここから出よう」

 それには同意見だった。

 この中は寒い。

 気温が低いという以外にも、骨の髄まで凍らせる冷気が漂っている。

 それは封をしている扉の隙間から漏れ出ているような気がして、ぶるっと身が震えた。

「牢獄みたいな門に洞窟を出た先には社、更には阿須賀神社の結界。すごいセキュリティですね」

「よっぽど外に出したくなかったんだろう、おかげで錠前が外れても何とかなっている。さあ、出るぞ」

 鈴木は蝋燭を吹き消して、背後の細い道へ入っていった。

 懐中電灯の光が闇を切り裂いて、石灰石で出来た鍾乳洞を照らしていく。登山道の様に整備されているわけではなく、足元は滑りやすい。石の氷柱から水が絶えず垂れており、それが道を濡らすのだ。

 腰を屈めながら三分ほど歩くと、微かな明かりが入口から差し込んでいるのが分かった。

「出口ですね、いや入口か」

「何事もなくて良かったわ」

 鍾乳洞を出ると、東の空が薄っすらと赤く染まっていた。山の向こうには太陽が登ろうとしているのだ。

「もう日の出だな、あんたも大丈夫そうだし。練習に遅れんうちにとっとと下山だ」

 変わらぬ熊笹の道を下ると、少し開けた場所に社が立っていた。

 ここからの道のりを夢遊病のように歩いて、鍾乳洞に向かったのだ。動物達が満ちていたはずの空間を突っ切って……。

 彼らが夜明け前に姿を消した理由は考えなくても分かる。

 が現れたのだ。

 ピラニアの群れを追い散らし、獲物を横取りする大型の肉食魚を想像した。捕食される哀れな小魚は自分だ。

 嫌な妄想を振り払うように、鈴木の背を追って足を動かした。

 行きと比べて帰りはすぐだった、下りということもあるだろう。疲れているはずの身体は軽く、まさに憑き物が落ちたようであった。笹の茂った古道から注連縄の大木、そして杉の登山道と、昨日の半分の時間で走破することができた。

 麓が近くなった山道で、鈴木が口を開く。

「おい、最後にこれやるよ」

 黒く萎びた何かを手渡された。

 よく見ると、それは木から削り出された仏だった。手に持った時の滑らかさで、かなりの年代物ということが分かる。穏やかで優しい顔が長年の摩擦により溶けかけて、元の木に戻ろうとしていた。

「これは、もしかして」

「社と同じ木材で出来ている、補修材の在庫が神社の倉庫にあるんだ。この仏さんはその端材で作ったやつだと思う」

「全て同じ、何か意味がありそうですね。というか神社なのに、仏像なんですか」

「昔の奴には仏様だろうが神様だろうが一緒だったってことだ。日本人って適当だからな」

「ありがとうございます。住職」

「坊主じゃねえよ」

 鈴木は苦笑いする。

 遂に山道は終わり、行きに運転したワンボックスカーが見えてきた。その横に、見覚えのある車と大柄な男が立っている。

「あ、いたぞ、おーい」

「先生、どうも。あ、谷原さん昨日ぶりです」

 こちらに応え手を振る男は、田牧町長だ。

 朝早いというのにしっかりスーツを着ている。その服装と山の自然のアンバランスさが際立っていた。

「すまんな、朝早くから。駅まで送っていってやってくれ」

「どうもすみません」

「いえ、どうせ今日は出勤しようと思っていたので。さあ行きましょう」

 鈴木と別れ、田牧の車に乗り込んで荒れた山の道路を下っていく。黒塗りの高級車は滑らかな走り心地で、地面に吸い付くようにカーブも曲がる。

「田牧さん、朝早くから申し訳ないです」

「全然大丈夫ですよ、先生の頼みですし」

「その先生というのは?」

「ああ、そうでした。鈴木先生は高校の担任で、野球部の顧問だったんです。私ピッチャーやっててよく怒られてました」

「頭が上がらないんですね」

「そういうことです」

 田牧は笑いながら続ける。

「谷原さん、『かのしさま』にやられてたって聞きましたよ」

「恥ずかしながら」

 自分でも何が恥ずかしいのかは分からないが、そう答える。

 意外だったのが、田牧が怪異を否定することなく自然と口に出したことだった。

「田牧さんは信じてるんですか?」

「うちは祖父をあれにやられてますからね、それ以降田牧家は信心深いんです」

「なるほど」

「祖父は苛烈な性格だったと聞いています。それくらいでなければ変革する時代には着いて行けなかったんでしょう。それと反対に両親と兄は穏やかな人間でした。愛情深いというんでしょうか、家族としては良い思い出ばかりです。ただ公人としてそれが正しいかは別の問題で、結果的に朝比町は時代に取り残されてしまった」

 ようやく出てきた朝日が田牧の顔を照らし始める。

 道は棚田に差し掛かろうとしていた。

「この棚田もそうです、観光資源になるのは分かっていたのに反発を招かないよう何も手を付けていなかった。観光で食べていくしかなかった朝比が、ですよ」

「確かに整備されていないのは不思議でした」

「結局祖父の敷いたレールに乗っていただけなんです。それは先々代と先代、つまり父と兄の責任と言えます。正直、贖罪の気持ちで町長の職を受けました」

「贖罪?」

「父兄は農夫と言えば良いでしょうか、長年の伝統を守ることに全神経を注ぎ、村の調和を守るのには適した人間でした。しかし、農夫では今の状況には対応できない。彼らが停滞させた朝比町を、祖父のように私の手で改革する。それがこの町に対する償いだと思いました」

 言葉に力が入り、熱がこもってきた。

「が、今は違います。高齢化して後継がいない農家、観光客の減少に苦悩するホテル、そして必死に朝比町を良くしようと働く役所の若手達、彼らの生の姿を見てしまったら、そんな小さなことどうでも良くなったんです。コンサルの時は他人事でしたが、町長は違う、全部自分事なんです。私の一挙手一投足が皆の人生を変えると思うと、何だか町民が子供のように思えてきてしまって。その時に父と兄が守りたかったものはこれなんだと気付きました、ただやり方が違っていただけなんです」

 彼の町政に対する熱い思いの根幹を見た気がした。

「それにもう私には家族がいません」

「えっ、ご不幸が?」

「はい、兄が亡くなってから父は徘徊を始めるようになって、ある日を境に戻ってきませんでした。そして母は認知症が進んで施設に入ってしまって。昨日も脱走して引っ越す前の家に戻ってしまったようで、親切な女性が介抱してくれたようで何とかなりました。まだ自分があの家に住んでると思っているようなんです。両親を介護するために家を新しくしたんですがね」

「そうだったんですか」

「結婚もしていませんし、朝比町が私の家族みたいなものです」

 がらんどうの家に一人過ごす寂しさを想像した。

 そして両親の介護に充てるべき情熱、働き盛りの有り余ったエネルギーが朝比町の改革に注がれているのだ。

「ですので、谷原さんアサヒカリの件を是非よろしくお願いします」 

 父親だ、ふと思った。

 朝比町という子供を頼みこんでいる。

 家族を失った男の最後の砦が朝比なのだ。

「ええ、もちろんです。善処します」

 アサヒカリが亡者によって成り立っていることを考えると、苦しい返答しかできなかった。



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