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 目の前に座る上司は不機嫌そうにカレーを口に運んでいる。

 農水省の食堂では、食料自給率にこだわって食材は全て国産。それが気に入らないらしい。

「ニタリクジラの竜田揚げカレーって何だ? 普通にカナダ産の豚ロースカツがいいんだけど」

「カツカレーいいですね、僕は唐揚げでもいいです」

「唐揚げねえ」

 そう呟くと、不気味そうに赤黒い揚げ物を頬張った。

 しかし予想外に美味しかったのだろうか、目を見開いて咀嚼している。吐いた台詞と表情が全然合っていないので、ついからかいたくなった。

「クジラはやっぱり給食を思い出しますか?」

「そんな年寄りじゃねーよ」

 谷原さんは苦笑いをする。

 彫りが深くて目付きが鋭いが、表情はころころと変わる。寡黙な雰囲気に反して人望があるのはそのギャップのおかげだろう。

 あの子に少し似ている。

 先日出張先の朝比町で会った女性、日置玲奈。彼女も近づき難い雰囲気を出していたが、中身は普通の女の子だった。

 ただ、ふとした瞬間に一切の表情が抜き落ちて、能面の様になるのが気になった。

 やっぱり姪のことを考えてしまうのだろうか。

「そういえば、今日は小春ちゃんのお通夜みたいですね」

「じゃあ葬儀は明日か。香典でも送りたいけど、そこまでの仲でもないしな」

「それに谷原さん、明日は午後半休じゃないですか?」

 ああそうか、と忘れていたようだ。

 何だか体調が悪いから病院に行くと、自分で言っていたのに。

「ていうか、香典とかそこらへんよく分かんないですけど、難しそうですよね」

「ちゃんと覚えておけよ、大人は色々あるんだから。そもそも香典っていうのは――」

 葬式と香典に関する講義が始まった。

 腕時計をちらりと見て、真面目に聞いていては時間内に食べきれないと悟った。なるほどですね、と聞き流しながら箸を動かす。

 谷原さんは何でも知っている、記憶力もすごいし、当然仕事だって出来る。若手から中堅、部長も皆この人を頼りにしている。

 でもスーパーマンじゃない。

 仕事では完璧に見えるが、結構ポンコツな時もある。何でも背負う性分だから、他人から荷物を持たされ過ぎて、いつの間にかマッチョになったタイプだ。本来は不器用なのに、傷つきながら戦い続けて生き残った人。こうなれるのはほんの一握りだ。

 最近、霞ヶ関では若手官僚のレベル低下が問題になっているが、当然の話だと思う。給料に見合わない激務、建物はオンボロ、議員に忖度する上長、この環境で優秀な人間が集まるはずはない。いや、いたとしてもどんどん辞めていく。使命感だけで仕事をする人間、谷原さんみたいな人のおかげで何とか回っているのが現状だ。

 ふと講義が止む。

 まずい、聞いていないのがバレただろうか。

 谷原さんは足元を見つめて、じっと固まっていた。

「何か落としました?」

「……いや、何でもない」

「もしかして例の犬ですか」

 犬という単語にびくりと肩を震わす。

 出張先でもこんな調子だった。顔色の悪さが尋常ではなく、ただの車酔いでないことは分かっていた。日置さんから説明を受けて何となく事情は呑み込めたが、全てを信じた訳ではなかった。

 ……あの御幣を見るまでは。

 二人と違って何かを感じる体質ではないので、逆に目に見える異常は分かりやすかった。あれは普通じゃない。悪戯でもあんな風にはできないはずだ。別に信心深い訳でもないのだが、あの御幣ははっきり『壊れている』と感じた。

 そして、犬。こちらの方が実害は大きいようだ。僕だけでなく日置さんも見てないようだったが、谷原さんには白い犬が付き纏っているらしい。今朝もデスクで二回ほど大声を出して、周りに心配されていた。

 もしかしたら自分も見えるかもと怯えつつ、机の下を覗き込む。すると、そこには綺麗に磨かれた上司の革靴があるだけだった。

「一瞬、尻尾のような何かが触った気がしたんだが……」

「やっぱ疲れてるんですよ、昨日は沙耶ちゃんと動物園行ったんでしょ?」

「ああ土曜日は付き合えなかったからな。埋め合わせしないと」

「何か彼女みたいですね。どっかで休まないとやばくないですか?」

「確かに一日も休んでないな。まあ安川も子供を持てば分かるよ」

 そもそも自分が結婚している姿を想像できない。

 職場の上司達を見ても、仕事と家庭を両立できている人はあまりいない。辛うじてやっている人が目の前にいるが、死にそうな顔でカレーを掻き込んでいる。仕事もやって、子供の世話をして、部下の面倒もみてると、病院通いになってしまうのだろうか。

 谷原は黄色信号だな、昼前に柿崎部長が呟いたのを聞いた。

 大昔に長時間労働で頭がおかしくなった人がいたらしく、その心配をしていたようだ。確かに傍目から見て幻覚に怯える姿は、異常者にしか見えないし、谷原さんの疲労度合いから疑いがかかるのも無理はない。

「日曜日は姿が見えなかったから大丈夫だと思ったんだけどな、沙耶にも見えたらどうしよう」

「案外喜ぶんじゃないですか、だって何もしてこないんですよね?」

「今はな、そのうち危害を加えてくるかもしれないだろ」

「分かんないですよ、新聞とか持ってきてくれるかも知れないし。シロ、テレビのリモコン取ってこい! とか」

「変な名前付けるなよ。ていうか日置さんも見えないってことは、やっぱり頭がいかれちゃったのかな」

 冗談で気を紛らわせてもらいたかったが、効果はなかったようだ。

 谷原さんは落ち込みながらも綺麗にカレーを食べきって、流れるように水を飲む。遅れないように慌ててきつねうどんを空にした。

「おう、お疲れさん。二人共飯食うの早いな」

 背中をばん、と叩かれて思わず噎せる。

 振り返ると柿崎部長がコーヒーを持って、にこやかに立っていた。最近特に太ったようで、丸眼鏡のフレームが肉に食い込んでいるのが見える。それじゃ、お先に。と逃げ腰の谷原さんを捕まえて、でんと横に座った。

「先週は出張お疲れさんだったなぁ、どうだった朝比町は」

「いやー、長閑でいいところでしたよ。なあ安川」

「あ、はい」

 長閑どころか恐怖体験をしてきているのだが、それを部長に話しても無駄だろう。谷原さんは迷惑そうに会話を流しており、早くこの場を去りたいと顔に書いてある。

 柿崎部長の思惑は分かっている。自分の部署から精神疾患を出すのが怖いのだ。労務管理が厳しいこの時代に、人材を使い潰したらどんな評価をされることか。そのためにケアをしようというのは分かるが、逆効果になっている。

「そうか、いつも負担かけてすまんな。安川くんも疲れただろう」

 レンズの奥のつぶらな瞳を輝かせて、こちらにも愛想良く話しかけてくる。

 またこの目だ、入省して色々な人から向けられる視線。

 それは僕の胸あたりを貫通して、後ろにいる父さんを見ている。まるで透明人間になったような気持ちだ。

 でも谷原さんだけは違った

 上司だと紹介された時に心底面倒くさそうな顔をしていて、それが新鮮で無性に嬉しかった。猫撫で声で話す他の人間と違って、ミスはきちんと叱るし、ただの一部下として向き合ってくれる。父のことなんてまるで知らないように振舞ってくれるのが心地良かった。普通に扱われることで、ゼリーの様に半透明な自分が本当にここにいることを証明してくれる。

 その谷原さんの横では、まだ部長が饒舌に話している。

 うんざりした気持ちが心に広がっていくのが分かった。


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