3

「そろそろ平地は終わりです。ここからは少し山道になります」

 田牧の言う通り、車は朝比町の最奥に近づいていた。

 奥へ行くに従って段々と左右の山が近くなり、谷が閉じていくため平地がすぼむ。そして道は蛇行し傾斜を増していった。

 ちょうど谷の終わりに見える部分では、左手を並走していた夜須川がはるか下で谷川になっており、右手はコンクリートで固められた斜面となっている。車道はもはや対向車とギリギリすれ違えるくらいの狭さで、いかにもな日本の渓谷の道である。

 そのくびれとも呼ぶべき細い箇所を超えると、下り坂となり右側の斜面がぱっと開けた。傾斜が緩やかに広がり、石垣を備えた多くの棚田が悠然と佇んでいる。

 うわ、と思わず声が漏らすと、車は路肩に停車した。道脇には先に白い車が停車しており、作業着に身を包んだふくよかな女性が立っていた。

 運転席から降りた田牧が紹介してくれる。

「こちら前田係長です。農業政策課の職員で、これから棚田の案内をしてもらいます」

 三十代半ばくらいの色白な下膨れ顔で、ふっくらとした体型、農家の女将さんと言われても違和感がない。そして作業着は少し土で汚れており、普段から現場に出ていることが分かった。

 しかし、目の下に濃いがある。

 柔和な雰囲気と相反する生気のなさに妙な引っ掛かりを覚えたが、女性をじろじろ見るわけにもいかないため、挨拶をする。

「谷原と、こちら部下の安川です。今日はよろしくお願いします」

「遠いところありがとうございます。前田です」

 意外にも高くて可愛らしい声だが、やはりどこか疲れて聞こえる。そして控えめな性格なのだろうか、少し恥ずかしそうに説明を始めた。

「こちらが棚田になります。普通関東でしたら法面のりめんは土で固めるのが一般的ですが、朝比は石積みしているんです」

 下から見上げると、何層もの積まれた石しか目に入らないため、まるで荘厳な古城のようだ。以前静岡出張の際、山際に作られた段々の茶畑を見たことがあるが、比にならない規模である。何より山が険しくなっていく中で急に開けたので、純粋な驚きが強かった。

「でもさっきの平地にたくさん田んぼあったのに、なんでここにも作ったんでしょうか」

 安川は肌寒そうに腕をさすっている。

 日は出ているのだが、山特有のひんやりとした空気が流れているため日差しの暖かさを感じない。冷たい空気は下に溜まるというが、この谷間に山中の冷気が集まっているような気がする。夜須川の源流が道路のすぐ横を流れているため、湿度も高く、いわば蒸し涼しいというべきだろうか。

「役人が言うのもあれだけど、年貢がきつかったから逃れるための隠田おんでんじゃないか」

 山の中の田んぼといえば大体が隠し田である。

 お上に見つかりにくい場所に田畑を作り、年貢を逃れるのだ。現代風に言い直すと脱税用の田んぼということになるだろう。江戸時代では重罪で、見つかると厳しい処罰を受けることになったはずだ。

「半分合っております。朝比は土地が痩せすぎて年貢を納めきれなかったようでして、許しをもらって新たに田を開いたんです。普通の田では年貢すら払えないありさまで、ご先祖様達はずいぶん大変だったとか」

「へえ、そこまで土地が痩せてたんですか」

「朝比町の土は悲しいくらい栄養がないんです。関東は平野が広いので棚田の法面は土で緩やかに作ります。でもここではギリギリまで耕作地を増やす必要があって、側面が急角度でも耐えられる石積を先人達が選んだようです」

 それはそれで気の毒な話だ。

 豊作を願い他所から神様を招いたという話も納得できる。この石垣も少しでも収穫量を増やしたい朝比の人達が一つ一つ地道に積んでいったのであろう。

「あちらから登っていきましょう、靴は用意していますので」

 田牧が端の方のあぜ道を指さした後、トランクからスニーカータイプの登山靴を出してきた。靴底がギザギザしていて、いかにも土を捉える能力が高そうに見える。革靴では歩きづらいし、黒土で汚れるのが気になったので助かった。

 車からは緩やかな斜面に見えたが、実際に登るとそんなことはなかった。一本道がまっすぐ上まで伸びているため、傾斜が逃げることなく直に足裏へと伝わってくる。アキレス腱がぐっと伸びる感覚を覚えながら登っていく。先行する田牧は大柄な体を苦にすることなくひょいひょいと上がっている。筋肉量の差だろうか。振り返ると、安川と前田が苦労しながら足を動かしており、少しほっとした。

 息が上がってきたところで最上段の棚田までやってきた。

 その一段上には真新しい木柵が植わっており、展望台のような小綺麗な空間となっている。木製のベンチや柵は自然との調和がとれており、そこに木々が覆いかぶさるように伸びて、天然の日陰として機能していた。

「いやーいい景色ですね、車が小さく見える」

 安川が白い歯を見せる。

 柵を掴んで見下ろすと、長方形や台形、様々な形に仕切られた田が斜面にへばりついていた。その下の道に車が、谷川の向こうには木々が生い茂っており、観光パンフレットに載っていそうな景勝地である。

「はあはあ……、ここで獲れたお米でおにぎりを作ってきました。良かったら召し上がってください」

 前田がまだ息を切らしながら、籐製の容器と水筒をリュックサックから取り出した。艶々と光るおにぎりに暖かいほうじ茶、単純だがこれ以上の組み合わせはない。ベンチに腰掛けて、一口頬張った。

「うわなんだこれ、すごい」

「めっちゃ美味いですよ、このお米!」

 驚きのあまり、安川と同時に感想が漏れる。

 農水省の役人といえども別に米の専門家ではない。だが、そんな素人でもこの米のうまさはすぐに分かる。口に入れるまでの香り、粒一つ一つのみずみずしさ、噛んでいると出てくる甘味、どれをとっても最上級だ。

「塩だけの方が米の味が際立つので、あえて具無しにしてみました」

 我々の反応にほっとしたように、前田が微笑む。

「これがアサヒカリです。うちのブランド米いかがでしょうか」

 田牧が嬉しそうに胸を張った。

 有名銘柄米を地元の品種と交配させた『アサヒカリ』

 これほどの米であれば間違いなく特定地域農産物に認定されるだろう。審査基準の一つとして、味は大きな比重を占めているからだ。もしかしたら、裏工作というのは考えすぎで、柿崎部長が先にこの米を口にしたのかもしれない。

「来月には水張りしますが、棚田が鏡みたいになって、すごく綺麗なんですよ」

 前田が、棚田の説明を再び始めた。

 水面が日の光を反射しキラキラ輝く中で、農夫が稲を植えていく、そんな素朴で悠々とした風景が想像できた。景観的には夕日も映えるのではないだろうか、沈みゆく太陽が水田に映る光景は、観光の目玉になりそうだ。

「ここを宣伝すれば、どんどん人を呼び込めますね」

「ええ、もちろんこれから整備して売り出していこうと思っています。元々複数の棚田なので権利関係が複雑でして、中には耕作放棄されて所有者が分からない田もあったんですが、ようやく町の方でまとめることができたんです。ただ色々問題があって……」

「うーん、確かに臭いますね」

 安川がおにぎりを頬張ったまま、くんくんと犬のように鼻を動かして顔をしかめる。ぷんと動物園のような臭いがする。清涼な景色にそぐわない不快な臭い。小学校で飼っていたウサギの小屋のような動物特有のあの匂いが鼻を突く。

「このちょっと先に養鶏場が新しくできまして、風向きによってはそこから匂いが来てしまうんです」

 田牧が苦笑いをしながら、車道の続く先を指差した。

「私としてはせめて平地の方にしたかったのですが、住民の反対なんかもあって中々難しくて。養鶏場をやられている方は、都会からの移住者の方で、地方創生の面では非常にありがたい話なんですけどね」

 流石の田牧も民意には勝てないだろう。

 それにしても間の悪い話である。棚田を整備して売り出したい町と地方で養鶏をやりたい移住者どちらとも悪くない。

 アサヒカリのおにぎりをほうじ茶で流し込み、報告書用の写真を何枚か撮影する。実地調査と言っても、ただ棚田を見るだけである。安川と二人でぐるりと田を見渡すが、時折養鶏場の匂いが漂ってきて顔をしかめてしまう。ここの観光地化は難しいだろうが、米の生育に匂いは関係ないのでアサヒカリの方は順調にいくだろう。

「平地にも田んぼがたくさんありましたけど、あっちでアサヒカリは育ててないんですか」

 ふと思った疑問をそのまま口に出す。

「いえ、朝比町で作っている米はほとんどがアサヒカリなんですが、雷が落ちてないとダメなんです」

 前田の言っている意味が全く分からなかった。

 しかし、それを見越したように田牧が続ける。

「来る時にお話しした雷の話は覚えておられますか? 麻生山にかかった雲からすごい雷が落ちてくる話です。不思議なもので、あれが落ちた周辺の田しかあの味にならないんです。有難い限りなんですが、全く原理が分からない。再現性が欲しいので研究機関に土壌サンプルを送っても、いまいち解明できなくて」

「ええっ、そんなことあるんですか、というかその理屈だと、この棚田にはたくさん雷が落ちてるってことですか」

「ここが麻生山だからでしょうね。やっぱり近くに落ちやすいみたいなんです」

 思わず上を見上げた。

 当たり前だが自分のいる山を俯瞰で見ることは出来ず、頭上に広がる木々がさらさらと心地よく揺れていた。

「じゃあ谷原さんが見た御幣もここらへんにたくさん刺さってたんですね」

 安川の言葉につられ、真下に広がる棚田へ目を戻す。

 百枚以上ある田の一つ一つに御幣が突き立っているのを想像し、思わず眩暈がした。

 なぜか、刺さっていたであろう御幣達が墓石のように感じた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る