第20話 ずっと笑っていたかった

「ぶはっ!」


 黒き荒波に残花が顔を出し、大きく呼吸する。ざんざん打ちつけるは雨粒か波飛沫か、激しい風雨の中、見上げれば船べりから身を乗り出した船員が叫ぶ。


「いた、残花さんだあッ! 早く綱を投げろ! あとはタネを――」

「何!」


 船員の声に、残花はすぐに勘づく。タネが船上にいないと。嵐の揺れに船から落ちたか? まさか俺を追って――。考えている暇は無い。まだ遠くへ流れてはいないはず。決して死なせはせん! タネのためならば、この命惜しまん!


 荒波に激しく揺さぶられる中、残花は桜花の剣に手を掛けた。渾身の力を込め、一気に抜く。黒き海に桜色の剣閃がはしる――


 ――ザンッ…………!


 時は止まり――海が、消えた。


 帆船を囲む一帯の海がぽっかりと深さ三丈(※9m)の大穴を空け、膨大無数の桜が舞う。船は宙に浮き静止している。暴風も、雨粒も、波飛沫も、雷光すらも動きを止め、ただ花弁だけが微かな桜色の光を放ち、舞い散る。


 残花は刀を抜いたまま、すっと花筏はないかだに降り立ち、周囲を見渡す。どこだ、タネ――いた!


 タネは仰向けに眠るように、桜舞う宙に浮いていた。残花は花筏の上を跳ぶように駆け寄り、剣を納めタネを抱く。


「タネ!」


 返事はない。脈も、呼吸も――!


 時が、動き出す。轟く雷鳴と共に、割れていた海は形を戻すように一気に大穴へ流れ込み、花弁が黒海に飲み込まれていく。船は戻る海に着水し、激しく揺れた。残花はタネを抱えたまま、まだ一艘残っていた手漕ぎ船に乗り、帆船の船員に声をかける。


「ここだ! タネを見つけた! 引き上げてくれ!」


 風が、雨が、波が、雷が。残花の心を掻き立てる。ぎゅっと強く抱き締めて。タネ、すぐに助けてやる。死なせはせん、お前だけは――……!



 ◆


 ◆


 ◆



「……げほっ、がはっ……」


 息苦しさに、目を覚ます。あれ、確か私、残花を追って飛び込んで――? 頭がぼうっとして、うまくはたらかない。


「タネ!」


 目を開ければ、残花が険しい表情で覗き込んでいた。ここは、船室? 私、なんで寝台に? 船行灯が、残花の顔を照らす。


「良かった、目を覚ましたか」


 残花は寝台横の丸椅子に腰を降ろし、険しい顔を緩めてふうと息を吐く。残花の髪は濡れて張り付き、そのせいかひどく疲れているように見えた。私はいつの間にか水気を拭かれ、薄手の一枚着に着替えている。残花は再びふうと息を吐き、言う。


「幸い、脈と呼吸は心肺蘇生ですぐに戻ったが、意識が覚めず心配したぞ。どこか苦しい所は無いか」


 残花は汗か海水か、額に垂れる水を拭う。段々状況がわかってきた。残花を助けに飛び込んだはずが、逆に残花に助けられたんだ。私はゆっくりと身を起こし、寝台から足を降ろす。


「……ううん、だいじょぶ。ありがと、残花」

「無事なら良い」

「残花も無事みたいで良かった。本当に……」


 残花は黙って、じっと私の顔を見つめた。


「な、何?」


 戸惑う私。残花はおもむろに立ち上がり、寝台に腰掛ける私を正面から抱き締めた。残花の体は冷えきっている。


「死ぬな」


 残花は耳元で、ただ願うようにそう言った。私もぎゅっと抱き返し、言う。


「残花も、死んじゃダメ」


 だって、死ぬと思ったんだ。だから、飛び込まずにはいられなかった。


「俺は死なん。黄泉を斬るまでは」

「……」


 ……斬るまでは? 強く、一層強くぎゅうっと抱き締める。


「違うよ。ずっと。ずっとだよ」

「……」


 残花は応えず、腕の力を抜いた。私の腕を優しくほどいて体を離し、扉へ身を返す。


「江良にタネの無事を伝えてくる。今日はもう寝ておけ」

「残花……」


 ――バタン


 扉を閉め、残花が出ていく。まだ頭がぼうっとして、追うことは出来なかった。ただじっと、残花が出た扉を見つめていた――。


 ◆


「遅いな……」


 いつの間にか嵐は止み、夜は静かに更けていく。だんだん頭もしゃんとしてきた。いくら待っても船室に戻らぬ残花を探しに、寝台を立つ。上着を一枚羽織り、扉を開け廊下に出た。皆もう寝ているのか、船内は静かだ。穏やかな波に揺れ、ぎいぎいと船が軋む音だけが響いている。


「――心配したんだから……!」


 船長室から、江良の声が漏れ聞こえた。残花、江良の部屋にいるのかな。そろそろと船長室に近付き、扉の取っ手に手を掛けようとしたその時――


「あなた、散るつもり? 王花様のように!」


 ――え? びくっとして、宙で手を止めた。部屋の中から江良の悲痛な声が続く。


「あんな膨大な量の花弁、いったいどれだけの……!」

「心配は無用だ」


 残花の落ち着いた声が聞こえた。やっぱりここにいたんだ。でも、どういうこと? 何の話をしているの?


「タネなら私達が探して必ず助け出したわ! 黄泉を斬る時ならまだしも……今度また私の前であんな大規模な樹法を使ったら許さない」


 江良の怒声が響く。


「何と言われようが、俺は躊躇しない。タネの為ならば」


 残花の言葉に、江良は一層声を上げる。


「あの娘が大事なのはわかってる。海の民にとっても、世界にとっても。何より、あなたが大事に想っていることも。でも、私はあなたが一番大事なのよ! わかってよ……! どうせあの娘には言ってないんでしょう? じゃないとあんな呑気にあなたの隣にいられる筈ないもの!」

「江良、落ち着け」


 足が動かない。扉の前に釘付けになって、ここから一歩も動けない。とても大事な話をしている気がする。私に言ってないことって何……?


「あの娘こそ知るべきでしょ!?」

「知らずとも良いこともある。タネの笑顔を曇らせたくはない」

「……! ええ、そうでしょうよ! 私だけ泣けばいい!」

「江良、違う」


 なだめようとする残花を振り払ったのか、部屋の中からパンと叩く音が聞こえた。


「――私だって、何も知らず笑っていたかったよ。あなたの隣で。ずっと、ずっと。でも二年前、頭領を継いで……知ってしまった。海の民の伝承を。世を守る葉桜家の力を。知りたくなんて、なかった――」


 江良が悲痛に、ぽつりと言葉を落とす。



「――桜の花が散る度に、あなたの命が散るってこと」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る