第3話
3日の謹慎の間に考えを整理したい、と日記帳を買って貰ったベルルシアは、それに異世界のことを書き留めて過ごした。
誰にも読まれないよう向こうの世界で覚えた言葉を使い、あちらで過ごした日々の記憶を思いつくまま書いていく。
翠玉騎士団で使われていた滙国文字は、横向きの直線が多く使われおり、ペンでは少し書きにくい。
(筆記具の造りの違いね。筆をまともに使えるようになるまで、たしか、一年くらい掛かったでしょうか?)
そんな事を思い出し、ベルルシアはほっと息をついた。
ベルルシアにとってこの作業は、異世界の事に区切りをつけるための、一種の儀式のようなものだ。
普通に暮らせば戦いなど縁遠い、平穏な世界に戻ってこられたのだという実感を手繰り寄せるためのもの。
「ベル、お勉強はほどほどにね」
お茶と少しの菓子を用意して、クレヴァリー夫人は軽い調子でベルルシアを優しく咎める。
娘が見たこともない文字列を
外国語を複数読み書きできるようにする事は、宮廷女官になるための必須教養の一つである。ベルルシアが女学院に通い出した頃から、このような事はいくらでもあったからだ。
「思いついたことを書き留めているだけですわ、お母さま」
「そう? ならいいけれど……あまり考えすぎないのよ」
はい、と素直に頷いて、ベルルシアはペンを置き、目の前にある焼き菓子を摘んだ。
日記は既に20頁が埋まろうとしている。
根を詰めてやるような事でもない、とベルルシアは自分に言い聞かせる。
「ああ、そうそうベル。お父様が昨日、あなたの事情について侍女官長様に説明してくれたのよ」
「お父さまが?」
「ええ。もっと早く相談して欲しかったとは言われたようなのだけれど……それでも、事情は配慮して下さると仰っていたそうよ」
母の聞かせてくれた話に、ベルルシアは「お父さまにお礼を言います」と笑みを浮かべて返した。
『配慮』に関してはほとんど期待はできないが、父のことだ。医師の診断書と共に客観的な事実を女官長に伝え、その記録も残してくれたに違いない。
侍女官は、女性のキャリアとしては最高のものである。
数年も勤め上げれば、公爵家の姫君の侍女や家庭教師の務め口さえ求める事ができる。
その席を求める女性は当然多く、碌に仕事を覚えていない新人を、わざわざ留めておく理由はない。ベルルシア個人の評価も、さほど高くはないはずだ。
だが辞めるにしても、正当な理由が証明されているのといないのとでは、次の就職に大きな違いがある。
(大変だけれど、侍女官以外の仕事を見つける事はできますし……。どうしても女官の道しか無かったなら、もう一度勉強して、試験を受けましょう)
女官の登用試験は、王宮の高貴な女性の身の回りの世話や事務を行う侍女官職だけでなく、各省の女性官僚を募る事もある。
そういった登用であれば、人事権があるのは侍女官長ではなく、各省の長だ。
(それに、まだ退官と決まった訳ではないわ)
望みは薄いが、現状は謹慎で済んでいる。
侍女官長に会うまでは、どうなるかは分からない。
……待つのが苦手になったかしら、と溜息を吐いたベルルシアは、再び日記帳へと手を伸ばした。
◆
「ベルルシア・クレヴァリー。16歳。代々の政務官を輩出する、廷臣貴族の男爵家の娘。経歴はアルニタ女学院を卒業後、カラティオンの女官登用試験に受かり侍女に任官。女学院時代に騒ぎを起こした形跡も無いし、女官になってからも真面目な新人という評価、と……」
ユランの上司であるローアン・トラヴィスは、提出された報告書ざっと読み上げると、眉根を寄せて唸った。
「調査の発端となった男女間の
バサリ、と机に報告書が投げ出して、ローアンは宙を仰ぐ。
ユランの情報の取り扱いと判断能力に、ローアンは全幅の信頼を寄せている。師団の人員を独自に動かす権限を与えているのはそのためだ。
だが、だからこそ、ユランの行動には常に結果が求められる。
「あの威力の体術を
「報告書にあった調査理由か」
ユランが王師でも指折りの体術の使い手である事は、ローアンも認めている。
そのユランの見たものを疑うつもりは無いが、それはあくまで、ローアン個人の判断に過ぎない。
「……お前一人の目撃証言だけではな。個人的に習得した護身術がたまたま上手くいった結果だと言われれば、それまでだ」
ローアンが率いる
しかしユランは団員内でも年少の身ながら、ローアンの副官の地位にあり、その入団経緯もローアンの関わる異例のものだ。
人事に私情を挟んだつもりは一切無いが、ユランの特殊な扱いに不満を持つ団員は多い。
団の規律を守るためには、これ以上団員に贔屓を疑われるような真似はできない。
「その護身術とやらのの習得経路が炙り出せるまでは、野放しには出来ない。違う?」
師団内の政治的な問題に頭を抱えるローアンに対し、ユランは常の無表情のまま、淡々と追求すべき理由を述べる。
翼竜師団は宮廷の隠匿警護も担っている。ユランの主張はもっともで、ベルルシア・クレヴァリーは間違いなく調査対象ではある。
だが、副官が即時独断で調査を急がせるに足る理由は無い。
強いて言えば、3日間の謹慎処分の最中らしく、その間に調査をしたかったというところではある。
だが、それは独断調査の理由にはならない。
「……ユラン。俺に話を通してからでも、十分に時間はあっただろうと言っているんだ。仮にお前の懸念通り、ベルルシア・クレヴァリーが王宮に潜り込んだ刺客なり何なりであったとしてだ。謹慎で目立った直後に行動を起こすとは考えにくい」
「あの女が隣国の手先でもない限り、
ユランの声が僅かに険を帯びた。
正確にそれを察したローアンは、別の意味で頭を抱える。
「ああ……、そこに絡んでくる訳か」
副官として情報統括、及び作戦立案を担うユランは、前々からローアンに人員補充を奏上している。
ローアンとしてはその必要性は理解できるが、ユランの早過ぎる昇進への妬みがある程度落ち着くまでは、と先送りにし続けていた。
「それに、ただでさえ筋肉バカばかりで、書類仕事が滞ってるんだ。書類仕事向きの団員候補の事前調査とでも報告書に題目をつけておけば、調査理由は十分でしょ。偽装情報として、今年入った官僚の基本情報は全て同時に抜いてある」
ユランが上げた二つは、中でも特に必要性が高まっている人材だった。
この数年、ユランの関係で師団員は戦闘向けの人材ばかり獲得しており、事務処理の滞りが問題になっている。さらに最近王都内で起こった騒ぎは、女性調査員がいれば随分楽に熟せたであろう内容続きだ。
「なるほど……。不審人物の調査というなら理由は弱いが、最初から女官からの引き抜きを考えての調査だったとすれば、それだけで対外的な話は収まる。監視も継続できる、か。ユラン、……どれが本音だ? 一石三鳥は流石に都合が良すぎるだろう」
「さあね。俺にとってはどれもどうでもいい」
心底興味が無さそうに、ユランは静かに言い捨てる。
何年経っても変わらない態度を、ローアンは痛ましく思う。だが、それがユランを信用する理由にもなっている。
だからローアンはその感情を
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