大きなお世話
斜奪
第1話
隣の布団で眠る夫を見る。眠りの深い夫は、カラスの鳴き声には気付かない。
妙子は頭まで布団を被った。こんなことで奴らの声は防げない。なんせ来るのは八羽である。それがギャーギャーとうちの前で、向かいに住むババアから餌を貰うまで鳴き続けるのだ。
うるさい。妙子はしぶしぶ布団を出た。パートが休みで良かった。この分は昼寝で取り返そう。
それにつけても向かいに住むババアである。妙子はカーテンを開けた。二階のベランダに川島寛子が現れた。川島は七十代の独り身で、未婚なのか、離婚したのかはわからない。ここ一帯は田んぼを埋め立てて作られた新興住宅地で、妙子は三年前に建売の二階建てを購入した。子供の頃に夢見たシャッター付きのガレージも、くしゅくしゅカーテンの似合う出窓もない。床は当然合板である。贅沢は言わなかった。中学生に上がる前に、玲奈に二階の一人部屋を与えたい。妙子が一軒家を望んだ理由はそれだけだった。二千万の買い物を渋る夫には、「家を買ったら猫を飼ってもいい」と言った。夫は他人の猫を携帯の待ち受けにするほどの猫好きで、世話もできないくせに「飼いたい」と常々ぼやいていた。
「おい、眩しい」
夫が不機嫌な声で言う。カラスの声には起きないくせに、日光には反応するのだ。
「ねえ、また川島さん、カラスに餌やってる」
「ほっとけよ」
「一度注意してよ。生活に支障が出てるんだから」
「大袈裟だって」
妙子は肩を落とした。夫は気の弱い人間だ。注意するより我慢を選ぶ。もっとも妙子もそれは同じで、人並みに腹が立っても、声を荒げて怒ったことは一度もない。たぶん、相手の反論が怖いのだ。小学生の頃、掃除をサボっていた男児に「しっかりやって」と注意したら、「ブース」とからかわれた。以降、妙子の胸には、何か言えば顔を侮辱されるという潜在意識が根付いてる。
ベランダに出た川島が、パン屑を路上に撒いた。カラスがワッとそれに群がる。妙子はカーテンを閉め、ため息をついた。救いは、川島と自分の家との距離が、他の家と比べて広いことだ。川島の家は、ここが住宅地になる前から存在しているため、そこだけ区画が歪んでいる。
妙子は朝食の支度をした。昨晩の味噌汁を温め直す。おかずは納豆。ネギを刻んで小皿に乗せる。豪華ではないが、必ず一手間加えるようにしている。味噌汁は海の七草を加えて味変した。
ケンジが起きてきた。オスのアメリカンショートヘアである。夫はマンチカンを希望したが、猫に三十万も払えるかと却下した。ケンジは地元のホームセンターで七万円で買った。生後八ヶ月だった。
「なに、食べないの? 猫がより好みしてどうするの。ほら、食べなさい」
ケンジはプイッと顔を背け、妙子の足にスリスリする。シーバを寄越せと言っているのだ。まったく、なんて贅沢な猫なのか。
「わかった、わかった、ちょっと待ちなさい」
仕方なくカツオ節をトッピングすると、ケンジはしぶしぶ口をつけた。
夫は気まぐれで高い餌を買ってくる。ケンジの世話をしているのは妙子なのに、ケンジは夫に懐いている。
かつお節を食べると、ケンジはさっさとトイレに行ってしまった。当てつけなのか、砂をかく音が激しい。ケンジにはそういう所がある。猫相もアメリカンショートヘアにしてはふてぶてしい。
七時半になって、玲奈と夫が降りてきた。
妙子は三人分のご飯と味噌汁をよそい、卓についた。
「あ、これ昨日の新聞か」
夫がアピールする。自分で取ってこいと言うのも面倒で、妙子は仕方なく立ち上がった。
家を出ると、カラスが残したパン屑が路上に散乱していた。妙子は舌打ちした。残飯くらい回収しろ!
路上にカラスのフンはない。カラスは川島が出てくるのを、うちの屋根に乗って待つ。したがってカラスのフンは、うちの屋根に集中している。
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