05 もしかして

 何だかどぎまぎする話だ。

 妹、女の子だからどうと言うのではなく、親のほかの家族。兄妹。

 両親が生きているかもしれないと考えるまでは、天涯孤独とも思っていた。親を探すということになってからも、過剰な期待はしないようにしていた。とんでもない大間違いである可能性だってあったからだ。

 幸いなことに、希望は打ち砕かれなかった。

 父、母、それに妹たち。

 何という驚きと、そして喜びか。

 彼はこれまで漠然と「両親」という絵を思い浮かべていただけだった。だがいまやそこにはふたりの妹がついて、曖昧な抽象画などではない明瞭な現実となって彼の前に現れたのだ。

(いや、現れたのはむしろ俺なんだろうけど)

 夫妻は、攫われたクレスのことを忘れなかった。折に触れては話をしたものか、哀しい思い出と封印していたものか、それは彼には判らない。

 ただ、娘たちに話をするから待っていてくれと言われたとき、彼にもぴんとくるものがあった。

 妹たちは、兄がいたことなど知らないのだ。

 無邪気に歓迎してくれるものか、はたまたウォルカスが最初に考えたように詐欺師とでも思うものか、或いは、本当だと思っても歓迎しない――ものか。

 コンコン、と扉が叩かれて、クレスはびくっとする。

「あ、ええと、どうぞ」

 こんなふうに礼儀正しく訪問などされたことはない。幼い頃はもちろん自分の部屋などなかったし、ダタクたちがたまに高価な宿を取ったって、クレスは最大級の贅沢が馬車のなかだった。

 雇ってもらえたアーレイドの食事処〈赤い柱〉亭では部屋をもらったが、主人のバルキーは、用があればノックもせずに入ってきた。娘のウィンディアは戸こそ叩いたが、返事を待つことはなかった。

 〈パルウォンの隊商〉も、似たようなものだ。移動中は叩くべき扉はなく、宿を取ることがあっても寝るだけで、互いの部屋を訪問するようなことはなかった。

 つまり、クレスとリンは二年半も旅路を共にしながら男女の事柄は何もない――ということになったが、彼らは何もそれを不自然だとは思わなかった。隊商にはほかの人間もいるし、そもそも彼らは雇い主と雇われ人であり、同時に友人だ。

 同年代のふたりを時にからかう者もいたが、当人たちには全くその気がない。リンの方ではともかく、クレスのような年代の青少年としては、いささか「目覚めが遅い」方だと周りに思われがちだった。

 出会ったばかりの頃、リンと出かければ周囲がみんなして「逢い引きラウンだ逢い引きだ」と言い立てるのが不思議でならなかった。その感覚は、いまもあまり変わっていない。

 男女の事柄を知らない訳でもなく、彼はただ、リンという人間をそうした対象に見ることがない。それだけだ。

 ともあれそのとき、慣れぬ丁重な扉の音に対応を迷いながら、彼は声を出したのだ。

 すると、遠慮がちに、取っ手が回った。

 そうっと、まるで音を立てまいとするかのように、扉が隙間を作る。

 部屋のなかにいる人間に気づかれまいと慎重になるのならば判るが、音で訪問を知らせておきながら何なのだろうかとクレスは訝しんだ。

「どうぞ」

 聞こえなかったのかもしれないと思って、もう一度言った。だが隙間の広がる速度は、あまり変わらなかった。

 たっぷり二十トーアもかかっただろうか。

 茶塗りの厚い板は、どうにか、訪問者を隠すことをやめた。

 クレスは目をしばたたく。

 そこにいたのは、美少女、だった。

 年の頃は十五、六歳。ぱっちりした茶色い瞳を持ち、肩より長いまっすぐな濃い茶色の髪。フリルのついた薄桃色の上衣と膝丈の下衣は、それで一式のようだ。腕に抱えたケニイのぬいぐるみが、見た目よりも幼い印象を作る。

「君は……」

 もしかして、と思う。

 妹の、ひとりだろうか?

 これまで彼が目にしたなかで、最も美しい部類に入る、美少女。

 まさか自分の妹がこんな美人だなんて、などと思ったが、母ラッシアは美しい女性だ。彼女を思い出せば、目前の少女とよく似ているような。

「あの、俺、クレス」

 まず彼は名乗った。

「君は?」

 再び、尋ねる。少女は黙っていた。

「あの。君は、ここの」

 言いかけてクレスもまた黙る。

 ここの娘さんか、と訊くのは何だか他人行儀だ。だが、自分の妹か、と尋ねるのも気恥ずかしかった。

 少女は明らかに、彼を警戒している。

 珍しい生き物を見たいという好奇心に負けて部屋をのぞきにきたが、がなかったので戸惑っている。そんな感じだ。

「君の名前は?」

 沈黙を破って、クレスはそう尋ねることにした。妹たちの名は聞いていないから判定材料にはならないのだが、とりあえず何かしら反応をもらいたい。

「……リエ」

「えっ?」

「ミーエリエ」

 か細い声が言った。

「そう、ミーエリエ。はじめまして、よろしく……」

 語尾が曖昧になった。初対面の挨拶としては何もおかしくないが、彼の状況で「今後ともよろしく」はいささか図々しいような誤解を受けないだろうか。

「ああ、ええと」

 だが代わりの言葉も考えつかなければ、ミーエリエの反応も薄いままであり、クレスは困ってしまった。

「あ、あの」

 そうだ、と彼は思いつく。

「この家の台所はどこにあるんだろう? よければ案内してくれないか」

 名案だと思った。

 アクラス邸では専属の料理人を抱えているのか、雑事全般を行う使用人がいるのか、その辺りはまだよく判らなかったが、何にせよ、まずは単純に興味がある。

 何もせず滞在するのも気が引けるから食事の支度を手伝わせてほしいと話したが、両親はそんなことをしなくていいと応じてくれなかった。だが彼は単純に調理が好きなのだ。直接料理人に手伝いを申し出てもいいが、とりあえずどんな施設があるのか知りたいという好奇心も大きい。

 彼が立ったことのある厨房はこれまで、〈赤い柱〉をはじめとし、〈丸石山〉亭、〈硝子の指輪〉亭、一日だけの下準備係として雇われたものを含めれば、覚えていないほどだ。

 どこもその店なりの規則や工夫があって、とても勉強になった。なかには逆に「それはやばいだろう」と思うような食事処――たとえば日にちの経ちすぎている生ものを平気で使ったり、客の食べ残しを次の皿に利用したり――もあったが、そうしたところはさっさと辞めた。改善が目的でも余計な口を挟めば解雇だし、そんなことをやっている店には自然と客も寄りつかなくなるものだ。

 最初の師匠たる〈赤い柱〉のバルキーが衛生には厳しかったおかげで、クレスはそうしたことに敏感だった。ならず者たちの隊商トラティアがあまりにも不潔だったと知ったのはそのあとだが、その嫌な記憶を打ち消すように、彼もまた厳しい目を育てていたと言える。

 クレスは、二十歳ほどの年齢にしては、数多くの店を見てきた。旅の暮らしにあれば長く勤めてられないから、知らないこと、判らないこともたくさんある。そのことは彼自身よく判っており、偉そうに批評をしようというつもりではない。ただ「家庭の台所ってどんなものだろう」と思っていた。

 大きな街町であれば、一般家庭はまず調理設備を持たない。食材の保存や調理に手間や金をかけるより、すぐ近くにある屋台へ出向いた方が早く、安く、美味いものだからだ。

 田舎であればまた別だったが、大通りに屋台が連なるような街町なら、台所と言えるようなものがあるのは中流から上流家庭。厨房という段階になれば、貴族王族の屋敷や王城ということになる。

 クレスの人生に、これまで「家庭の台所」はなかった、という訳だ。だからただ、見てみたいのである。

 次には、何でもいいから、この部屋で沈黙大会に突入する以外のことをしたいと思ったこと。他愛もない話をするのは苦手ではないが、ミーエリエ相手には少々難しそうだ。

 あとは、ほかの人物に行き会えば、この少女が何者か判るのではないかとの期待も少し。

 館の主人の娘ならば、使用人の反応もそれに適したものになるはずだ。たぶん。

 ミーエリエは判ったともいいわとも嫌だとも冗談じゃないとも言わなかった。ただ、兎と一緒に後ろを向いた。

「あ」

 だが扉が閉められる様子はない。

 案内してくれるのだと考えることにして、クレスはミーエリエと名乗る少女の背中を追った。

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