第53恐怖「忌み団地/誰かの落書き」

 

 これは、カラス団地の公園で起きた不可解な出来事である。


 Yさんという男性が、幼い二人の娘と団地内の公園へ遊びに出ることとなった。建物のすぐ外で長女のなわとびの練習に付き合っていたのだが、それに飽きた次女が、どうしても公園の遊具で遊びたいと言い出したのだ。


 長女は二重跳びの練習に集中できないからここに残ると言ったのだが、Yさんとしては、たとえ建物のそばとはいえ娘を一人で外に残しておくわけにはいかない。Yさんと長女は次女に付き従う形となった。


 休日ともあって、公園はそこそこ賑わっていた。同じように子連れが目立つ。

 公園が目に入るや否や、次女は真っ先に滑り台へと駆け出した。やぐらのような形で、滑り面のほかにもいくつか遊べる機能がついている複合型だ。元はカラフルで綺麗だったのだろうが、今や色褪せており、それもあってか子ども人気は微妙なところだ。


 次女は階段を駆け上がり、Yさんに手を振ると、体勢を整えてから滑り面を一気に滑降した。

 勢いよく下まで来ると、何がそんなに面白いのか、爆笑しながら再び階段に向かう。どうも、いつにも増して機嫌がよさそうだ。この公園などとっくに遊び尽くしているはずなのに、子どもというのは不思議なものだ。


 と、やぐらの上まで来た次女が、壁に隠れるように屈み込んだ。そのまましばらくが経過する。何をしているのだろうか……下で見守るYさんからは、壁の隙間にちらりとその姿が見えるだけだった。


 おーい、と声をかけると、次女はひょこりと首を出し、「こっち来て」とにこやかに言う。しかたなしにYさんは階段を上がった。

 上まで来ると、次女はやぐらの壁の内側を指し、


「よっちゃんだよ!」


 と言った。

 そこには、黒い油性ペンか何かで書いたであろう、女の子の顔の落書きがあった。

 一瞬、いま娘が描いたのかと思ったが、いくらか日が経っている感じがした。それに、娘の絵柄とは全く違う。上手いとはいえないものの、妙なリアリティがある。別の子が描いたのだろう。


「よっちゃんとお話ししてたの」と娘は言った。

「お友達かな?」と聞くと、「うん、このまえお友達になったの」と娘は言う。


 よっちゃん……団地の子だろうか。それともぬいぐるみのような感じで、いわゆる架空の友達なのだろうか。


「よっちゃんね、いっぱい、いるんだよ!」


 目を輝かせながら、娘はそう言った。

 どうやら、この公園に同じような落書きがいくつかあるらしい。


「どこに?」と聞くと、娘はまた、何が面白いのか爆笑した。ツボに入ったらしい。

 もしそこらじゅうの遊具にあるとしたら、何か問題にならないだろうか。


 絵が消されたとき、娘が泣いて騒ぐようなことにでもなったら面倒だ。これ以上思い入れが深くなる前に、手を打っておいたほうがいいかもしれない。

 その日、部屋に戻ってから、Yさんは団地の管理室に連絡を入れた。



 翌日に公園の様子を見に行くと、年配の作業員が公園内を掃除していた。

 挨拶を交わしてから、「どうですか」とYさんが作業の具合を尋ねると、「あぁアレのことね、消しときました。わざわざ連絡していただいて、すみませんね」と微笑む。


「でもね、他には見当たらないんですよ」


 作業員はそう付け加えた。

 どうやら、落書きは滑り台の壁にしかなかったようだ。


 娘が言葉足らずだったのかもしれない……「いっぱいいる」とは、一体どういうつもりで言ったのだろうか。

 別に大したことではないだろう。Yさんは深く考えず、それからあっという間に一週間が過ぎた。



 休日になって、またもや娘が公園で遊びたいと言い出した。

 Yさんは別にそれでもよかったが、もっと他のところに出かけないかと奥さんや長女が提案した。だが次女は、公園がいいのだときかない。


 結局、お弁当を持ってみんなで公園を訪れた。

 長女はすっかりなわとびにハマっていたので、さっそく二重跳びの練習に取り掛かり、次女はというと一人で滑り台に駆け出した。


 壁の絵が消えていることに気づいて、落ち込まないだろうか……

 心配だったが、次女は元気よく複合滑り台で遊んだ。人見知りせず、他の子達と一緒になって楽しそうにしている。


 安心して、Yさんは木漏れ日のなかで気持ちよく読書を始めた。

 ふと気がつくと、滑り台に次女の姿が見えなくなっていた。よく目を凝らすと、滑り台の壁の内側に屈んでいるらしい。


 おや、とYさんは訝しんだ。まさか、絵を描いてるのではあるまい。

 Yさんが滑り台を上がると、次女が他の子達に「よっちゃん」を紹介しているところだった。壁には見覚えのある絵が描かれている。


 威圧的にならないよう注意しながら、「誰が描いたの?」とYさんは尋ねた。

 すると、娘を含めた全員が「わからない」「知らない」と言った。嘘を言っているようには見えない。手には何も持っていないので、すくなくとも、いま描いたわけではないだろう。


 お昼を食べて少し経つと、娘たちが眠そうにし始めたので、みんなで一緒に帰宅した。

 家の中でゆっくりした後、暗くなる前に、Yさんは消毒用エタノールと雑巾をナップザックにつめて再び公園に赴いた。


 滑り台に上がり、壁に描かれた女の子の顔を見つめる。

 消すべきか、それとも娘のために残しておくべきか……


 本来なら、神経質になるような問題でもないのだろう。

 だがこの絵を見ていると、なぜか、胸の中を這いずりまわるような不安感をおぼえる。消したほうがいい理由はそれで十分だった。もしかしたらまた描かれてイタチごっこになるかもしれないが、とにかくさっさと消すべきだ。


 Yさんは雑巾をエタノールで湿し、壁をゴシゴシこすった。落書きはなかなか消えなかった。すぐにあたりは暗くなり、ケータイのライトで照らしながら作業をした。

 すっかり顔がなくなったとき、壁の塗装も一緒に剥がれ落ちてしまっていることに気づいた。不自然にそこだけが白くなった。


 まあいい。さっさと帰ろう。あまりここにはいたくない。

 いつの間にか湧いた焦燥感に掻き立てられ、Yさんは公園をあとにした。



「どこに行ってたの?」

 帰ってすぐ奥さんから聞かれ、Yさんは返答に困った。近くに次女がいたため、適当に嘘をつくほかなかった。


 夕飯をみんなで食べ、順番にお風呂に入り、娘を寝かしつける。Yさんの頭にはすっかりあの絵がこびりついて離れてなくなっていた。まるで滑り台の壁から頭蓋骨の内壁へと、よっちゃんが居住を変えたかのようだ。


 そんな調子だったため、Yさんはなかなか寝付けなかった。どうにかこうにかやっと寝入ったと思いきや、ハッと目が覚めてしまった。


 ほとんど眠っていない気がする……いま何時だろう……


 枕元に置いた腕時計を確認すると、午前一時少し前だった。もう一度寝ようと思って目を閉じ、布団を頭にかぶると、そこで、やけに心臓が早鐘を打っていることに気づいた。体を起こしてもいないのに、なぜだろう……


 そういえば、起きる直前に何かの音を耳にした気がする。たぶん無機物的な音。そう、金属音というか……

 玄関だ。


 Yさんは布団を放り投げて起き上がった。そうだ、耳にしたのは、玄関の扉が閉まる音だ。

 忍びやかに奥さんの横を駆けて寝室を飛び出し、隣の子ども部屋のドアをそっと開ける。それは直感だった。次女が玄関の外に出たのだろうという、嫌な直感。


 ドアの隙間に体をすべらせ、子ども部屋の二段ベッドを確認する。上には長女が寝ていたが、次女がいるはずの下は空だった。いつもここで、小動物のように丸くなって愛らしく寝息を立てているのに。


 冷ややかな焦りに突き立てられ、Yさんは携帯電話を手にするとすぐさま家を飛び出した。階段を駆け下り、建物の外に出る。

 公園だ。次女は公園に行ったにちがいない。


 巨人の群れのようにぼんやり浮かび上がる建物の間を駆け抜け、公園に向かう。

 敷地入り口の車止めの柵まできて、一旦公園を見渡してみる。外灯がいくつか立っているが、明かりは弱い。娘の名前を呼びかけてみたが、返事はなかった。

 いるとしたらやはり、滑り台だろうか……


 娘がまた滑り台で「よっちゃん」と話しているところを想像してみると、途端に強烈な気味の悪さに襲われ、公園内に足を踏み入れることがためらわれた。


 そもそも、娘は本当に公園に来ているのか? 少しの暗闇でも怖がるあの子が、一人でこの時間にこんなところへ来るはずもない。そうだ、冷静になってみるとまったく考えられない。もしかして、トイレに入っていたのでは? 玄関扉の音ではなく、トイレのドアの音を耳にしたのかもしれない。


 音──を意識したせいだろうか。公園のどこからか、妙な音がすることにYさんは気づいた。何か……引っ掻くような音だ。


 もう一度娘の名を呼んでみるも、やはり返答はない。しかし、音はなんだか人為的なものに聞こえる。

 とにかく、滑り台を確認してみよう。娘がいないのを確認してから帰ればいい。


 いよいよ敷地に踏み入り、滑り台へと足を運ぶ。

 と、徐々に音に近づいているのを感じた。間違いない、これは滑り台から聞こえてくるのだ……あの場所に誰かいる……


 Yさんは、もしかしたら絵を描いている犯人と遭遇するかもしれないと思った。滑り台の足元まで来て、恐る恐る「すみません」と上に声をかけてみた。返事はなく、謎の音は止まない。


 意を決し、Yさんは携帯電話で足元を照らしながら階段をのぼっていった。一段、また一段と踏みしめるたび、胸中はいやにざわつく。

 二階の床がすぐそこにきて、Yさんは携帯電話を構えながら、そっと背伸びをしてそちらを覗き込んだ。


 いた。娘がいた。


 Yさんは目を疑った。滑り台にいるのは娘だった。そればかりか、娘は彫刻刀か何かで壁をカリカリと削っていたのだ。

 慌てて階段をのぼりきり、Yさんは娘の名前を呼んだ。


 とそこで、おかしなことに気づく。心臓が大きく跳ね上がる。

 ──違う。やっぱり娘じゃない。娘はパジャマだったはずだが、この女の子は──


 気づくのとほぼ同時に、女の子がこちらを振り向いた。

 その顔を見て、Yさんは腰を抜かしそうになった。見覚えのあるようなないような顔。見知らぬ人のようで知っている人。


 よっちゃん。

 よっちゃんだ。


「パパ?」


 女の子はYさんをじっと見つめて呟いた。

 Yさんはあとずさった。パパじゃない。俺はお前のパパじゃない。


「ねえ、パパ?」


 女の子は立ち上がり、彫刻刀を手にしたまま歩み寄る。

 ちがう、俺はお前のパパじゃない!


 Yさんがさらに足を後ろへやっとその瞬間、視界が大きく揺らぎ、体にすさまじい衝撃が走った。

 Yさんは階段のところで足を踏み外し、そのまま下のほうまで落下したのだった。


 乱れる意識のなか、「パパ、パパ」と声がする。Yさんはなぜか湧き上がる凄まじい恐怖心によって、あいつから逃げなくてはと痛む体を起こした。


 ところが、階段を下りてこちらに歩み寄る女の子の姿は、今度こそ、次女に見えた。

 お互いに、顔をまじまじと見つめ合う。


「パパ?」


 確かに、いま目の前にいる女の子は、パジャマを着た自分の愛する娘だ。よっちゃんじゃない。

 何がなんだかわからない……さっき見た姿は一体……


 滑り台がプラスチック製だったおかげか、Yさんは大きな怪我もなく、体を痛めただけで済んだ。いまだ脳内は混迷をきわめているが、娘の手を握って、とにかく公園を出ようと歩む。


「なんで公園に来たんだ」


 そう聞くと娘は、わからない、気づいたらあそこにいてパパが立っていた、と眠そうに答えた。なぜ彫刻刀を持っているのかも全然わからないという。


 Yさんは彫刻刀を預かって捨てようと思ったが、見覚えがあると思い持ち手を確認すると、長女の名前が記載されていることに気づいた。なるほど、姉の彫刻刀を持って公園に赴いたらしい。壁に、よっちゃんの顔を刻み込むため。


 夢遊病……なのだろうか。


 あれこれ考えているうち、そういえばと思ってとある質問をした。

 よっちゃんが「いっぱいいる」とは、どういうことか。


 すると娘は拙い言葉で説明しだした。

 どうやら、「いっつもいる」ということを言いたかったらしい。それを「いっぱい」だと表現したのだ。


「いつも公園にいるって、昨日遊んだ時もいたの?」


 うん、と娘はうなずく。


「壁の絵じゃなくて、団地の子?」


 うん、と娘はうなずく。


「まぼろしじゃなくて、生きてる人間?」


 うん、と娘はうなずき、Yさんの近くを指差してこう言った。


「そこにいるじゃん」



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