第40話「影にうごめく」

 体験者:U田さん


 僕が人生で一番楽しかった時期といえば、小学校高学年の頃だろう。あのときは怖いもの知らずで、わずらわしいことも大人の今より少なかった。

 それでも、みずみずしい青春の日々のなかで、恐ろしい体験をしたことがある。


 僕には唯一無二の親友がいた。仮にSとする。

 Sは家庭環境があまりよくなく、ろくに学校も来ないようなヤツだったが、破天荒にくわえて、読書好きで頭はかしこいという一面もそなえていた。僕は彼に憧れのような感情を抱いていたと思う。


 あるとき、僕は家にあった「トム・ソーヤの冒険」をSに貸した。すると彼はどっぷりハマって、それからというもの僕らはトムとハックルベリ・フィンになりきって遊びまわった。どっちもトムになりきることもあったし、その逆もあったけれど。


 それからしばらく経ったあるとき。初秋だったと思う。Sはとつぜん、家出をするからお前も手伝ってくれと言いだした。家出自体はよくあることだったけれど、手伝ってくれとはどういうことかと思った。

 が、すぐにわかった。Sは椅子や机などの家具、あるいは布団やらの大きな荷物を台車に積んで、本格的に移住しようというのだった。

「無人島に行くぞ!」と彼は言った。「ミシシッピ川に浮かぶ孤島に!」


 実際の行き先は、近所のK川だった。

 K川はおだやかで浅い。幅は広く、大きな中州なかす(土砂がたまって水面から出ているところ)はあるものの、決して人が住めるような場所じゃない。確かにそこには木や植物がいくらかあって、ちょっとした島のようではあったけれど。


「あそこじゃキャンプは張れないね」と僕は言った。

「ま、釣りに出るにはちょうどいい島だろ?」とSは笑った。「家は川辺の森のなかに作るよ」


 そんなこんなで、Sはいよいよ物語の主人公になろうとしているようだった。そして僕は、その相棒というわけだ。

 まあ、実際の話、こういう家出は長く続かない。いろいろと現実的な問題がある。

 そのときの家出は三日ほどで終わり、Sはその場所を「別荘」と呼びはじめた。プチ家出にはもってこいの、いわば秘密基地となったわけだ。


 Kはよく別荘に泊まって、僕はよく別荘へ食料や本を届けた。釣りをして、魚を焼いて、かじって、それから探検に出て、疲れたら本を読んで過ごし、夜になると色々なことを語り合った。


 だが。

 長いようでしかし二ヶ月も続かずに、その遊びは何もかも終わりをむかえた。

 ある夜のことをきっかけに。


 僕は自宅で夕食をすませると、懐中電灯を持って家を抜け出し、別荘へ向かった。しかし、川辺に彼の姿はなかった。

 来てないのかと一瞬思ったが、しかし違った。椅子の上には彼のリュックが置いてあるのだ。とすると、どこへ行ったのか……

 中洲を懐中電灯で照らす。すると、木の根本に、釣り竿を握ったままのSが横たわっていた。


「おいおい、あんなところで寝てたら危ないぞ……」


 僕はどうしようかと考えた。川は浅く、かんたんに向こうへ渡れることは知っている。とはいえ、夜の川を渡るのにはただならぬ勇気がいる。

 僕の心臓は危険を警告するアラームのごとく、わんわんと高鳴っていた。


「おーい! 起きろよー、S!」


 僕は川岸から中洲に向けて声を張った。石を投げたりもした。しかしSが起きる様子はなかった。

 いよいよ助けにいくしかない……僕は勇気をふりしぼって川へ踏み入った。水はいつもより数段冷たく、また、重たく感じられる。

 そのとき、何かゾクッと嫌な気配がした。緊張しながら中洲に懐中電灯を向け、それから川面を照らす。


「──!」


 中洲から少し上流のところに、何か黒々とした影が浮遊していた。それはモヤモヤと真っ黒な雲のかたまりみたいに移動し、そのまま中洲へ上陸した。

 Sが危ない! ──僕は直感的にそう思った。


「おい! どっかいけ! このやろう!」


 僕はそいつを照らし、大声をあげて威嚇した。

 すると、照らされたそいつは、まるで眩しくて目を細めるみたいに、少しだけギュッと縮んだ。

 ほぼ同時に、Sが起き上がった。異変に気づいて目を覚ましたのだろう。

 ところがSはうつろな様子で、なんと、その影へ歩み寄っていくのだった。


「おいS!」


 僕は親友を失ってしまうのではないかという恐怖で、雄叫びをあげながら影に駆け寄った。が、川の水が重たくてうまく進めない。まるで意志をもって僕の足に絡みついているように感じられる。それに、川底の石はゴロゴロして邪魔だし、急に深くなるところもある。


「この、ぼけなす!」


 やっとのことで近寄ると、僕はそのまま影へ突進しようとした。しかし、僕は影を目前にしたところで、おもわず立ち止まってしまった。

 それはただの影ではなかったのだ。影のなかに、黒々とした無数の人の顔がうごめいているのだ。


 あまりの恐怖で僕はそれ以上近寄れなかった。かわりに、無我夢中で川底の石を引っ掴み、次々とそいつに投げつけた。

 すると、無数の顔はうごうごと影の奥へ姿を消し、やがて影自体も徐々に霧散むさんしていった。

 影がすっかり川面に消えてしまうと、Sがハッとしたように僕を見た。


「おれ……死ぬとこだったな……」


 Sは呟いた。ぽつりと。


 そうして、僕らの大いなる冒険の幕は閉じられたのだった。

 というのも、それ以来、なんとなしに二人で遊ぶ機会が減っていき、Sは外で遊ぶよりもゲームに没頭するようになった。僕は彼と今でも仲良しだが、しかし遊び相手はめまぐるしく変わるもの。僕らはたまに会うことはあれど、普段はそれぞれ別の友達と過ごすようになった。


 あのときの出来事は、僕らの間でよく話題になる。そして、ひときしり不可解な影の話で盛りあがったあとは、いつもビクビクしながら帰り路につく。

 影のなかにうごめく、あの怨念がましい無数の顔。

 もしあのまま、Sが影に接触していたとしたら。あるいは僕が突っ込んでいたとしたら。一体、どうなっていたのだろう?


 無数の顔のうちの一体にくわわる……なんてことを、つい想像してしまう。



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