第11話
少し荒い呼吸と舌足らずの中、城戸が訥々と言葉を紡ぐ。
「俺が入ったことはないけど。入っている人を見たことはあるから、なんとなく分かる。Sub spaceだ、これ」
Sub space——Subが完全にDomのコントロール下に入った状態で、多幸感に満ち意識がふんわりと蕩けるもの……らしい、けど。
真紘が得た知識によれば、それは大概プレイ中に起こるものだ。Domが出したcommandをSubが実行する。Command通りの行いができていたら、DomはSubにRewardという褒め言葉を与える。それを繰り返していくことで、Subの心がだんだんとDomに寄り解れ開かれ、そして完全に委ねられる。
真紘は城戸にrewardどころかcommandすら与えていない。まだプレイをしていないのにSub spaceに入ったなんて信じがたい。しかし、城戸の様子は明らかに異常で、真紘よりずっと経験値のある彼がそうだというのなら、そうなのかもしれない。
となれば、今この瞬間も、彼の幸も不幸もまさに真紘が握った状態だ。手綱をしっかりと握ってコントロールしなければ、城戸の精神状況は乱れ、Sub dropへと落としてしまう可能性もある。
緊張と焦燥が口腔を乾かし、背に汗を落とす。その奥底で、胸や腹の底がかすかに震えるような、妙なむず痒さも覚える。
真紘は城戸の頭に手を伸ばす。金色の髪をそっと掬って、撫でる。
すると、城戸は猫のように真紘の手に頭を擦りつけてきた。それに真紘はやんわりとした安堵とさらなるむず痒さを覚える。
spaceに入り昂揚した気分を落とさせないためには、とにかく、否定をしないこと。つまり肯定すること、褒めたり慰めたりするのがいいらしいというのは、本とネットから得た、詰め込みたての知識だ。真紘の中でその筆頭に浮かんだのが、頭を撫でるという行為だった。
だが、これだけで城戸のテンションを保つことはできるだろうか。
先にも城戸自身にそう告げたように、真紘はまだ彼のことをよく知らない。出会ってからまだ短く、城戸自身が腹の底を見せないタイプに思うから。それでも。
「屋上で牛乳こぼしたとき、拭ってくれてありがとう。それから」
知っている部分がまったくないわけでもない。
「この間……クラブのトイレで、助けてくれてありがとう。時間稼ぎのために多少の荒事はって思ってたけど、お前が来てくれたから、平和的に解決できた」
伝えきれていない感謝が、ないわけではない。
それが城戸にとって善意によるものだったのか、気まぐれによるものだったのか、戯れだったのかは分からなくとも。それがこの厄介の始点になったとしても。
それでも、被害が最小限におさまった、感謝すべきことなのは事実だ。
「璃凪って、呼んで」
城戸の頭をゆっくりと撫でながら、ゆっくりと言葉を紡いでいると、ふいに、城戸がちらりと真紘を仰いだ。
「璃凪?」
「うん、真紘先輩」
城戸が小さく笑った。なんだか、くすぐったいやりとりだ。
「俺、先輩の好きが欲しい」
真紘はぱちりと瞬く。好き、はたしかに肯定的なワードだ。城戸が望むのならば、彼のテンションを保つために言うべきなのだろうか。
そう口を開きかけたとき、城戸の人差し指が真紘の口元に当てられた。
「今じゃない。かりそめじゃないのがほしい」
花が綻ぶようにそっと細んだ薄色の瞳に、真紘の心臓が歪な音を立てる。
「だから、俺、これからいっぱい頑張るね」
勢いのままについ返事をしてしまってから、あれ、と思う。
これからもいっぱい頑張る、とは。
一回プレイをしたら、バイト中の真紘を捉えたあの脅しと質種は撤回される予定だった。
だが、これは——この調子じゃ今日はプレイをするのが難しそうだからもう一度会いましょう、ってだけの意味だけに聞こえないのは、まるでこれから先も城戸は真紘と交流する気があるように聞こえるのは気のせいじゃない……よな?
脅されたりしないのであれば、別に城戸のことが嫌いなわけではないから、交流を持つのは吝かではない——はねつける必要はない、のだけれど。
どうしてだろうか。これからも城戸と交流が続くかもしれないと思うと、なんというか、落ち着かない気持ちになるのは。抱きたいとか、好きが欲しいとか、奇妙な頼みを向けられているからだろうか。
城戸が真紘への奇妙な興味というか遊び心をなくしてくれたら、普通の友達になれたりはしないか——いや。それこそが城戸と真紘を巡り合わせたのだから、なくなれば他人に戻る他ないのだろう。
城戸が真紘に飽きたら、この関係は終わりを告げるのだ。
それはそれで、なんだかちょっと寂しいと思うのは。
細くやわらかな金髪を梳いて、あたたかな頭皮に触れる。ゆっくりと撫でると、彼の頭がとても滑らかで綺麗な形をしていることが分かる。
まだ希薄でも、城戸との縁が一度生まれてしまったから。
少しずつだけれど、城戸について知ってしまっていっているから。
真紘に凭れて蕩けている男を見る。
このまま関係が続くとしても、いつか飽きられて終わるとしても、落ち着かなくても、寂しくても。
どんなことでも、喉元を過ぎればその熱は失せて、過去に変わり、思い出となる。
だから。
真紘はただ、浅瀬に佇み目を閉じる。そこにある流れに身を任せる。
これまでのあらゆる嵐をそう乗り越えてきたように、やるせないことをそう昇華させてきたように。
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