第4話
果たしてこの学校に通っていて城戸璃凪を知らない人間はいるのだろうか。
月光を編んだような金髪、白雪の肌、秀麗な眉目。すらりとしながらも決して細すぎない、均整の取れた長身。いかにも神様に愛された容貌はそれはもう人目を惹く。そのうえ、人当たりもよく、スポーツ万能、成績も優秀らしい。
噂によれば、彼を射止めたい女子は数多、Domである彼と一度でもいいからプレイをしてみたいと希うSubも数多。毎日のように誰かしらから告白されたり、プレイに誘われているらしい。そしてフリーの期間であれば誰からの告白も、プレイの誘いも断らないのだとか。大した縁のない真紘の耳にすらそんな話が入ってくるほどである。
もちろん噂というのは大概が第三者が楽しむためだけに存在する添加物に塗れたおもちゃだ。その真偽は二の次、いっそ不要とさえ言えるかもしれない。
しかし——城戸のその噂がただの噂ではないかもしれないと思う現場に真紘は出会したことがあった。
*
「真紘先輩」
翌日の昼休み、城戸は宣言通り真紘のクラスを訪ねてきた。
彼が姿を見せた瞬間、クラスの中は一気に色めき立った。そして彼が真紘の名前を呼んだ瞬間に集まった「どういう関係?」「なんでお前が?」と言わんばかりの好奇と怪訝の視線がそれはもう痛かった。真紘はクラスで浮いてもいなければ目立つ方でもない。学内の有名人が突然教室に現れたかと思ったらそんないかにもなモブの名前を莞爾とした笑顔と弾んだ声で呼んだのだ、そりゃあ奇妙な空気が生まれるに決まっていた。
昼休み明けに教室に戻るのが少し怖いなと思いつつ、しかしそれよりも城戸の方がずっと怖かったから、大人しく彼についていった。
階段をいくつか登って、たどり着いたのは屋上に続くドア。生徒は基本的に立ち入り禁止の場所のはずだが、城戸はポケットから鍵を取り出してあっさりと解錠する。
「なんで屋上の鍵持ってるの」
「なんでだと思う?」
質問を質問で返すな、と目を眇めれば、城戸は小さく笑った。
「そんな顔はじめてされた」
ドアを潜って、はじめての屋上に足を踏み入れる。
夏らしいじめっと蒸した空気はあるものの、太陽は雲に隠れているため日差しはなく、時折吹く風は心地いい。
城戸は塔屋を半周ほどまわった壁際に腰を下ろすと、「先輩も座りなよ」と真紘を手招いた。
真紘は城戸からひと一人分の隙間をあけて座った……のに、城戸はその距離をさっと詰めてくる。
「それ、真紘先輩のお昼? 何食べるの」
「……メロンパン」
「それだけ? やっぱり先輩苦学生的な感じ?」
やっぱり、とは。
「真面目そうな先輩がプレイクラブで働いている理由。家計が苦しいんじゃないの?」
「いや、全然違うけど」
「全然違うんだ」
つい素直に答えてから、しまったと思った。
ここで嘘でも家計のためと言っておけば、もしかしたら同情を得て昨日のあれそれを見なかったことにしてくれるかもしれない。
「いや、やっぱり、家計のためです」
「先輩ってすごい嘘下手だね」
城戸はくすくすと笑い、持っていたコンビニの袋から焼きそばパンを取り出した。
「俺の分けてあげる」
「いや、いいよ。っていうか、お前の昼ごはんがなくなるだろ」
「大丈夫。俺、早弁してるから。これはおやつみたいなものでさ」
焼きそばパンをおやつにチョイスするとは。
育ち盛りらしいの男子高校生らしい、年相応な一面に少しだけ可愛らしさを覚える……が、真紘は今この男に弱みを握られ脅されている最中にあるのだった。
学内ですれ違うことも稀にあり、昨夜話していたときも思ったが、城戸は常に淡い笑みを浮かべている。フロアで女たちと話していたときも、悪事を働いた男を追い詰め捕らえたときも、真紘を脅したときも。美艶でありながらどこかあどけない笑みは底が知れない。本当に楽しんでいるようにも見えるし、一物を抱えているようにも見える。
「そんなに警戒しなくても、毒とか仕込んでないよ?」
「さすがにそんなことは考えてないけど」
「じゃあ、どんなこと考えてたの」
城戸が変わらずにっこりと微笑みながら問うてくる。
「……どうしてこんなことするのかなと思って」
「先輩のお昼ごはんがあんまりに少ないから、分けたいと思って」
「そっちじゃなくて……もしかして、実は俺のこと恨んでたりする?」
「恨む? どうして俺が先輩のことを恨むの」
「それは……その……」
本人が覚えてなさげなのに、あの出来事を掘り返すのは、真紘の方が恥ずかしい。気まずかったし、気恥ずかしかったし、自意識過剰みたいだし。とりあえず、やけに乾いた喉を潤かそうとパック牛乳にストローを挿したとき——城戸が、あ、と声を上げた。
「もしかして、去年の秋のこと言ってる? それとも、今年の卒業式の三日前のこと?」
「ぎゃ」
真紘は思わず手にもった牛乳パックを握りしめてしまった。ストローを挿したばかりのそれから白い液体が噴き出て溢れ落ちる。真紘の手はもちろんこと、シャツやスラックスにも飛沫が飛んでしまった。
「先輩、大丈夫?」
言いながら城戸は真紘の手から牛乳パックを取り上げると、いつの間にかウレタンに敷いていたティッシュの上に置いた。
それから城戸は、ビニール袋から、紙おしぼりとミネラルウォーターを取り出した。
「これで手拭いて」
わざわざ包装を解いて渡してくれた紙おしぼりを遠慮なく受け取り促されるままに手を拭いている間に、城戸は
ポケットからハンカチをミネラルウォーターで濡らし、真紘のシャツやズボンをぽんぽんと叩いていく。
「気休めだけれど、拭かないよりはマシでしょ」
「あ、ありがとう」
「……いいえ。なんか、俺が先輩のこと動揺させちゃったみたいだし?」
そうだ、牛乳噴出事件で吹っ飛びかけていた。まさか、城戸がこれほどはっきり覚えていたとは——真紘は城戸が女子とプレイしているところに出会していた、しかも二度も。
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