アルタナディアが、もう七歳だった頃―――。
その日、少女は見知らぬ通りにいた。
連れとはぐれてしまった。しかし迷子になったわけではない。建物と建物の隙間……街の中なのに別世界のような、不思議な空間。その暗がりから何か呼ばれた気がして、自ら入って行ったのだ。
高い建物に囲まれたその通りは陽の光が差さないが、特別暗くもなく、また狭くもない。しかし馬車や荷車が行き来するには手狭で、その中途半端さが眩暈を起こしそうな異様さを醸し出す。まだ幼い少女はそれらを肌で感じながらも、怖れを知らずに進んでいく。その表情に喜怒哀楽は見られない。ただ、進んでいくだけだ。
人の気配はほとんどない。裏口がいくつかあるが人の出入りはなく、窓辺にも人の影はない。ここは通り抜けにも使用されないらしい―――少女はそう理解したが、ふと足を止めた。通りの脇に、小さな机を置いて腰掛けている老婆がいる。机の上には布が敷かれ、水晶玉が置かれている。占い師だ。
占い師の老婆を見た少女は、この通り以上に不可解なものを感じた。初見ですぐに占い師だとわかったが、一度席を離れて街の人ごみに紛れてしまえばそんなことはわからなくなるほど普通の格好をしている。雰囲気もまた然りで、話しかけるとして何の抵抗もないが、かといって愛想を振りまいているわけでもない。接する側が独特な印象を持てない―――それこそが独特なことだった。
「おやお嬢ちゃん、占ってあげよう。なに、子供から金を巻き上げたりはしないよ。ほんの暇つぶしさ」
少女の姿を見つけた老婆が手招きする。少女は返事も拒絶もせず、ただ黙って歩み寄り、机の前に立った。
「それじゃ将来のことを占ってあげようかね。フム―――」
老婆はすぐさま水晶玉を脇に寄せる。
「それは使わないのですか?」
少女は初めて口を開いた。変わらず無表情のままだったが、それなりに驚いたようだ。
「水晶玉で見るのは未来じゃないよ、相手さ。アタシが水晶玉を覗くとね、相手はその結果を予感する。未来に期待してる者は夢を膨らませ、不安を抱いてる者は怖れる。その胸の内が顔に出ちまうもんなのさ」
「水晶玉は相手の心を映す鏡の役目なのですね」
「そういうことさ。だからこいつは使わない。アンタの目は、真っ直ぐアタシを見ているからね」
そうして老婆はぐっと少女を見つめた。少女は動じない。老婆の瞳には少女が、少女の瞳には老婆が映る……。
「……お嬢ちゃん、いくつだい?」
「七歳です」
「そうかい…。ずばり言うとだね、お嬢ちゃんには傾国の相がある」
「ケイコク?」
「そうさ。アタシがお嬢ちゃんに抱く感想はこうだ――『美しい』。将来はものすごい美人になるだろうとか言われるだろう?」
「言われます」
「反面、かわいいとはあまり言われないんじゃないかい?」
「…そうかもしれません」
「それだよ。七つのガキなんてのは子ブタのように丸々していてもかわいいと褒めちぎられるもんだよ。だがお嬢ちゃんはそうじゃない……天才彫刻家が作った生涯一度の最高傑作のように綺麗な顔立ちのくせに、可愛げがない。生意気だとかそういうことじゃなく、お嬢ちゃんには『無い』んだよ。だけどお嬢ちゃん――アンタ、自分の美しさを自覚しているね。それが間違いないとも思っている。その賢しいところが、国をも壊す。わかるかい?」
「わかります……でも、本当のところではわかっていないと思います」
「その答え方がダメなんだけどねぇ」
老婆が笑うが、少女は表情を崩さない。
「お嬢ちゃんの美しさは呪いさ。誰も彼も引き寄せ、戸惑いと争いを生む。お嬢ちゃんが選ぶのは二つだ―――自分を押し殺して生きるか、自分を押し出して生きるか。中途半端に流されるのが一番いけない。お嬢ちゃんは周りに大きな影響を与える人間になるよ。だからあっちにふらふら、こっちにふらふらするたびに、大勢の人がてんてこ舞いするだろうさ。もしかしたら……人死にだって出るかもしれない。まあアタシが見たところ、すでに実践しているようだがね……」
「…………」
「フ……可哀想なコだよ。神様は時々、いたずらのように何もかもをお与えになる。人の手には余るってのにね」
皺だらけの老婆の手が少女の頭を撫でる。頑なだった目元が、ほんの少しだけ緩んだように老婆には見えた。
しかし直後、少女は一礼すると服の下に入れていたネックレスを首から外し、その先に付いていた指輪を老婆の前に差し出した。
「今は持ち合わせがありません。代わりにこれをお納めください」
「金はいらないと言ったはずだよ。それに何だい、この指輪は……お嬢ちゃんのものかい?」
「母の形見です」
一際輝くルビーを埋め込まれた指輪はずいぶん使いこまれていたが、上等な品であることは間違いない。
「いいのかい? こんな大事なものを」
「私の生き方について大切な助言を頂きました。これで正しくあれるのなら、母も喜んで下さると思います」
「……なるほどね……わかった、これは頂いておくよ」
老婆が指輪を懐にしまうのを見届け、少女はもう一度頭を下げてその場を去った。
「あ…! どこへ行っていたんだアルタナ! 探したんだぞ!」
息を切らせてアルタナディアの細い腕を掴むバレーナ。アルタナディアは視線を落とし、小さな声で謝った。
「ごめんなさい…」
「全く……何かあったら事だぞ? ちゃんと自覚しなきゃだめだ。こんなことがお父様に知れたら、アルタナを連れ出すお許しが貰えなくなっちゃう」
バレーナはアルタナディアを一通り叱ると、それで満足したのかいつもの無邪気な笑顔に戻って小さな手を引く。されるがまま、アルタナディアはバレーナの後をついていく。
「……バレーナ姉さま」
「ん?」
「………何でもありません」
「ふん? フフ、かわいいな、アルタナは」
「かわいい? どこがですか?」
「どこ? ふむ……どこだろうな。考えたこともなかった」
「姉さま…」
「冗談だ」
珍しく落胆するアルタナディアの頭を撫で、バレーナは少しだけ屈んで目線を合わせた。
「私はアルタナの可愛いところをたくさん知ってるぞ。でもこれは私だけの秘密だ。だから、さっき言いかけたことを話してくれたら教えてやる」
ひどい言い分だった。
からかわれている。
子供扱いされている。
「………」
アルタナディアは何かに突き動かされるようにバレーナにぎゅっと抱きついた。
「わ、お!? どうしたアルタナ…!?」
アルタナディアは何も言わない。言えなかった。
「……よしよし、姉さまが抱っこしてやろう」
冗談か本気かわからないが、バレーナは往来の真ん中でアルタナディアを抱きしめる。アルタナディアもまた、されるがままに抱かれた。
母が死んだ。
待望の王子となるはずだった弟は流産で死に、その時の出血が止まらずに母も死んだ。
人知れず、幼くして天才的な才能を開花させていたアルタナディアは物心つくころには字を覚え、書庫に紛れこんで本を読み漁り、まだ片手の指で数えるほどの歳で膨大な知識と発達した精神を得た。その異質な才格を知った母は、娘を怖れることなくやさしく見守った。
「アルタナディア。あなたはとても賢いから、まわりの大人はびっくりしてしまうわ。賢い人間はお利口でなければいけないの。相応の歳になるまでは大人しく振舞いなさい。決して才能をひけらかしてはだめよ」
アルタナディアがほとんど感情を表に出さないのは母の言いつけを理解し、守っているからだ。しかし早熟の少女は子供らしく振る舞う事ができなかった。純粋な子供である時間が短すぎたのだから当然である。どれだけ言葉数が少なくとも、たった一言で知性の高さが窺い知れてしまう。母譲りの美貌と相まって早くも将来を期待されたが、ゆえにアルタナディアはさらに己を殺した。生まれてくる兄弟が男だったらいずれ王になる。姉と比較されるようなことがあれば苦しむことになるだろうと思ったからだ。ほとんど無口になったアルタナディアが唯一気兼ねなく話せるのは母の前でだけだった。
しかしその母が死に、生まれてくるはずだった弟も死んだ。父王・ガルノスはとても悲しんだ。アルタナディアも悲しかったが、涙は出なかった。アルタナディアの胸には次代を担うのは自分であるという強い決意が芽生えていたのだ。
だから母の指輪を手放した。母はもういない。甘えを捨てなければならなかった。
……だが、本当はそうではなかったのではないか? 本当は母がいなくなったことを誤魔化そうと強がっていただけではなかったのか? 一年経っても理性と感情が合致しない……。
バレーナと出会ったのはそんな頃だ。正確には初対面ではないが、物心ついてから出会ったのは初めてだ。二つ上のバレーナは生まれてすぐに母を亡くしていて、いわばアルタナディアと同じ境遇だったが、そんなことは全く感じさせなかった。それどころか母を失ったばかりのアルタナディアを気遣ってくれる。年上の意地やプライドのようなものがあるからだと思っていた。でもバレーナはあまりに真っ直ぐで、大きい。アルタナディアのそのままを受け止めてくれるのはどこか母に似ていて、でも自分と同じ目線を持っている……。
姉と慕うのに何のわだかまりもなかった。
それから幾度となくバレーナに会い、その度に惹かれていった。そして「あの日」……父を亡くしたバレーナを慰めようとしたとき、弾けるように何かが目覚めた。不謹慎で、許されないことだった。しかし幼いころからアルタナディアを律し続けていた理性はあっけなく崩れ去り、誘惑すらしてみせる己に衝撃を受けていた。
「傾国の相」――――老婆の言葉が頭を過ぎる。だが一度触れてしまったら、バレーナの唇を吸うのを止めることはできなかった…。
そして二年の月日が流れる。
アルタナディア十七歳―――花開くまで、あと少しだった。
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