バレーナ王女によるイオンハブス襲撃、その翌日――。(5)

 目覚めたカリアは、重い目蓋の下から薄汚れた天井をぼうっと眺めていた。

 城じゃない……いつ騎士団宿舎に戻ってきたのだろう……?

(カリア……カリア……)

 ああ……実家に帰ってきたんだっけ……? 母さんの声がする………

「カリア。いつまで寝ているのです」

 母さん、こんな上品な喋り方したっけ? まるで姫様のような……――――

「――うああぁっ!?」

 一気に目が覚めた! 宿舎じゃない、実家じゃない! 宿屋だ! 姫様と一緒に泊まった宿屋……!

「おはようございます姉さま。うなされていたのかしら、うわ言を言っていたようだけれど」

「大丈夫っ…です! おはようございます!」

 朝から嫌な汗を掻く…。

 対して姫様のほうは、ネグリジェのままとはいえ、寝起きという気配はない。目はパッチリ開いているし、髪も綺麗に整っている。

「少しお寝坊ね」

「あ……今、何時でしょうか?」

「五時過ぎです」

「………」

 道理でまだ暗い。窓の外側の雨戸を閉じているのも原因だが、そもそも太陽がまだ顔を出していない。部屋のキャンドルに一つだけ火が点されている。

「騎士団時代でも六時起床でしたが……」

「私の近衛兵になってからは?」

「七時過ぎに……」

 アルタナディアの美しい眉間に皺が寄る…。

「あ、あの、城のベッドはとても寝心地が良くて……!」

「そう。ベッドが原因なら、騎士団宿舎と同じものを用意しなさい。許可します」

「冗談……でしょうか?」

「何のことです?」

「いえ…! 臣下たる者、主君より早く起床し、常に万全の態勢であることに努めます!」

「お願いします」

 姫様はあくまで事務的な応答だ。

 しかし……五時起きはツラい。ただでさえ朝は弱いのに、シャレにならない。

「心配しなくても大丈夫です」

「は…?」

 唐突で、なんのことかわからない。独り言かと勘違いしかけた。

「私も普段は七時前に起床します。ですが今は非常時です。早朝に発たねばならない。わかりますね?」

「はっ…!」

 そうだ、今は逃亡中の身だ! のんびり惰眠を貪っている場合ではない。幸いまだ見つかっていないようだが、追いつかれないうちに距離を稼ぐに限る。でも昨日二十四時間丸々動きっぱなしだったことを考えると、睡眠時間五時間じゃ完全回復しない。姫様はそこまでタフなのだろうか? 自分は疲労が抜けきらず、緊張感のない寝覚めの悪さ……猛省する。

 そんなことを考えながら着替えようとして。ふと、気付いた。姫様の御前で着替えなんかしていいのだろうか? いやそれより、姫様の着替えを見るほうがマズい……。姫様も気まずさを感じて手を止めているようだ。

「あの……私は外に出ていますので、その間にお着替えください……」

「いえ、それはいけません。姉妹の間柄でそんなことをすれば怪しまれます」

 そういえばそんな設定だった。私が姉で、姫様が妹。兄妹でもなければ着替えに気を遣うのはおかしいか。

「向こうを向いて着替えてください……そうしましょう」

 お互いに背向けという妥協点を見つけ、ボタンに手をかけるも…

(緊張する…!)

 ドギマギしながら、何か別のことを考えて気を紛らわせようと、カリアは昔のことを思い出す。

 騎士団時代は酷かった。訓練生のなかで女は自分一人だけで、一応住み分けはされたものの、うっかり見られる、ちゃっかり覗かれるなんてのは日常茶飯事だった。入隊して半年間は本気で泣いた。なんといっても十四歳だった……。

 しかしそんなことも、十六歳のある時点からなくなった。着替え中に「お前も身体が出来上がってきたな」と言って確信犯で部屋に入ってきたどこぞの中隊長を、中隊長と知らずにマジで返り討ちにしたからだ。骨折五箇所、歯を三本。素手で。「身体が出来上がってる」のだから当然力もついている。馬鹿なオヤジだったが、さすがにやり過ぎたと今は反省している…。

 ……まあそんなエピソードはともかくとして。問題は、男の側で着替えるのも任務の上でなら我慢できなくもない自分が、姫様を前にして(後ろだけど)パニックになりかけているということだった。着替えをお手伝いするのはメイドの役割であって、その他の者が姫様の肌を見ることなどあってはならず、たとえ事故であっても懲罰ものだ。いや、今は非常時だし、姫様も自分と同じ女だ。それはわかっている。わかっているのだが………。

 チラリと後ろを振り返る。ちょうど姫様の白い背中が顕になっていて、息を詰まらせてしまった。

 一昨日の晩と同じ、あの背中だ。

 記憶は鮮明だった。姫様が陵辱された憎むべき夜だった……それは忘れていない。でも、あの一瞬だけは―――月光が満ちる中、白い背中が花開くように曝け出されたあの瞬間だけは、あまりの美しさに心を奪われた。時間が止まるように鼓動も鳴りを潜め、我を忘れてしまっていた。あんな経験は初めてだった。あれほど神秘的な美を初めて知った……。

 そして今。再び姿を現した背中は、生々しかった。キャンドルのほの暗い灯火が背中の影を肉感的に浮き出したからかもしれない。白い肌が灯りのせいで少し赤く見えて、脈々と血が通っているように……あの夜は神々しかった背中が人間らしく感じられて、自分に近しくなったように錯覚する。

 触れたい――。

 頭の中に響いた己の呟きに驚く。触れる? 姫様に? 血迷ったのか!?

 でも……。

 すっかり筋肉質になってしまった自分の体躯とは比べ物にならない、滑らかな肌。あんなに細身なのに、どこまでも沈みそうに柔らかく見える。

 決して自分と同じ女ではない。だからこそ触れたいと欲するのだろうか。あの背中に……あの髪に……全てに………。

 ―――と、姫様がピタリと動きを止めている。着替え終わったようだが、どうしたのだろうか………

「ぁ―――」

 私の姿が姫様の前の窓に映っている! そして窓越しに姫様と目が合った!

 姫様は、私が見ていたのを、ずっと知って――――!!

「あっ…たっ…き、着替え終わりました!」

 姫様が振り向く。心臓がはちきれんばかりに大きく鳴り、重い背徳感と罪悪感が私を襲う。私を覗いていた男たちはきっとこんな心境だったんだろう。

 しかし姫様は何も言わず、ただじっと私を見詰めるだけだった………。




「あの、姫様……」

「何か」

「いえ、あ……何でもありません」

 声は少し冷たい風に乗って、林の奥に消えていく……。

 凄まじく気まずい。結局、弁明の余地のないまま宿を出て、もう太陽が真上に昇る。朝食も簡単に済ませただけだったのに、昼時になっても食事の話題は出てこない。まさかとは思うが、ずっと食べずに進むつもりだろうか。でも姫様より先に音を上げるわけにはいかないし、それ以上に大事な事もあるのだが―――。

「あの、姫様…」

「…何か」

 明らかに苛立っているようだった。それはそうだろう、特に用もなく呼びかける事十数回。無礼というか、もう単純に嫌がらせだ。

「姫様、どちらへ向かわれるのです? 王都から遠ざかるのはわかりますが、内陸への道は全てエレステルに繋がります。船で海から回らねば、他国に援助を求める事もできません」

 イオンハブスの北・西はすべてエレステルに囲まれている。東と南は海だ。エレステルを通らないという選択肢は海路しかないのだが、王都を出たアルタナディアの進路はずっと西。今はまだいいが、このペースであと三日も進めば危険だ。バレーナの命令によってエレステル軍本隊が進攻してきている可能性も考えなければならない。

 しかし、カリアの質問に対するアルタナディアの答えは―――

「エレステルの首都、グロニアが目的地です」

 ある意味、当然と言えば当然だった。まさに行く道の行き着く先だ。納得できるわけではないが。

「畏れながら姫様…」

「カリア」

「は?」

「先ほどからずっと注意しようと思っていましたが、私を姫と呼ばないように申し伝えたはずです。きちんとナディアと呼び、姉として振舞いなさい」

 今、具申しようとするこのタイミングで!? 

「あ、あう…」

「どうしたのですか、姉さま。何か言いたそうでしたけれど」

 カリアは息を呑む。姫さ――ナディアはあえて下から見上げつつも、先程までの硬い空気を緩めない。むしろトゲトゲしい。何てお方だ……。でも、逆に日常会話できるいい機会じゃないのか? 現実逃避とわかっていながら前向きにそう考えてみる。

「ゴホン……ナ、ナディア、このまま西に向かうのは危険だから、別の道を考えたほうがいい……んじゃないでしょうか…?」

 ………無理だ。

「カリア。あなたは弟や妹に対して、そんな自信のない話し方をするの?」

「姫様……コロコロ変わるのはずるいです」

 何だ、さっきからのこの会話。姫様らしくもない……

 ……姫様らしくない?

 姫様を注視する……おかしい。少し歩みが鈍い。

「姫様、次のサーハンの町で休みましょう。お顔の色が優れません」

「何を言っているのです。私は大丈夫です」

「いけません。お身体を壊してしまうと身動きが取れなくなります」

「大丈夫だと言っています」

「ですが姫様…」

「不要です。何度言えば…」

「―――ナディア!」

 二人揃ってピタリと足を止めた。

「お……お姉ちゃんの言う事を、聞きなさい…」

「……………」

 しばし、重い空気が流れ――……

「………宿の手配を任せます」

 それきり、姫様はまた黙ってしまった。

 我ながら驚愕発言だった……姫様も驚いたようだったが、自分自身が何よりびっくりした……調子に乗りすぎただろうか?

 サーハンの町にたどり着くと、早速この町唯一の宿屋に向かう。空き部屋を貸し出す民宿だ。客は私たちの他に誰もいなかった。

「…ずいぶん寂しい町」

 ベッドの上の姫様が呟く。少し熱があったので横になることを薦めたら、すんなり聞き入れて下さったのだ。

「王都とグロニアを繋ぐ中央街道が通る街は流通が盛んなため賑わっていますが、道を逸れればこんなものです。このサーハンの町の周辺は地形の関係で冷害を受けやすく、農作物が育ちにくい環境です。だからといって国で一番貧しい地域というわけでもなく、多少の難題があるのはどこでも同じ――……ん?」

 姫様がぽかんと口を空けている。畏れながら、大変可愛らしい…。

「な、何でしょう…?」

「意外でしたから。カリアは剣を振るだけが得手だと思っていました」

「はは…」

 苦笑いが精一杯。事実、私に学は無い。

「父の受け売りです。それもずいぶん昔でしたけど……。最下層とはいえ、私の家も一応貴族でしたから。父は地域の産業開発に余念がありませんでした」

「実家はこの辺りなのですか?」

「ここから二つ隣の村です」

 二つ隣といっても、三十キロ以上先だが。

「貴族とは名ばかりで、貧しい暮らしでした。ご近所に助けてもらう事もよくあって、父は受けたご恩を返すために奔走しました。でも………本当は自分が情けないのが堪らなかったんだと思います。貴族としてのプライドが現状を許せなかったんです。その上、結果を出せずに命尽きてしまったのですから………さぞかし、無念だったことでしょう」

「…それで貴女は騎士団に入隊したのですか。功績を挙げて家の名を上げるために」

「そんな大層なものじゃありません。父を失った十四歳の私が持っていたのがわずかばかりの剣の才能だっただけで、誇りを賭けるよりも生きる手段として選択しました。情けない話ですが」

「そう…。苦労したのね」

「別に不幸だったとは感じていません。私はこうして姫様に召抱えていただき、母や兄弟を養えるようになったのですから、感謝の念に耐えません……あ、長々と話して申し訳ありません。私は部屋の外で控えておりますので、ごゆっくりお休みください」

 一礼して部屋を出ようとすると、待ちなさいと声がかかった。

「言ったはずです。『姉妹』がそんなことをしてはおかしいでしょう」

「ですが、私がいては落ち着いてお休みできないのでは。それに、別に姉妹でも―――」

「姉なら、甲斐甲斐しく妹の世話をしなさい」

 ………妹のセリフじゃありませんが?

「一人になると余計なことを考えてしまう……眠れなくなるのです。何もしなくていいですから、しばらく側に居てください…」

 一転して珍しく弱気な姫様を前に、ふと思い当たる。早くに目覚めたようで、実は昨夜は眠れていなかったんじゃないか、と。

「わかりました。ここに居ります」

「ありがとう、姉さま……」

 姫様は目蓋を閉じると、ものの数秒で静かな寝息を立て始めた。

 姉さま、か……。ひょっとして姫様、面白がって使っていないだろうか?

 しかし、安らかな寝顔だ。王女という仮面を脱ぎ捨て……それは違うな、この方は生まれながらの王族だ。夢の中でもずっと王女であらせられるに違いない。ただ……この寝顔は「アルタナディア」の素顔だ。純粋な、彼女自身の……。

 無意識に、手が伸びる―――。

 無駄の無い造形。あるいは一つ一つがとても煌びやかだが、絶妙な調和を保っているのだろうか。その美しい目元が厳しくなることはあっても、喜びにほころぶところは滅多に見たことが無かった。

 さざ波一つ無い水面のようなその顔に、触れたい―――。

「………は…」

 指先が寝息に触れて、ビクリと手を引っ込める。私はいつの間に息を止めていたのだろうか。心臓がバクバク鳴って止まらない……。

「何やってるんだ、私……」

 震える足を動かし、どうにか部屋の隅に腰を下ろした。

 熱があるのは、私じゃないのか?

 姫様が隙を見せると、私の胸が苦しくなる。本来私が目を配るのは姫様に対してじゃない、姫様の周りだ。私は、姫様の盾。それなのに……。

 顔を両手で覆う。今は駄目だ、姫様を見てはいけない。家臣は弱っている主君を見てはいけないのだ。

 それなのに………それがわかっているのに。指の隙間から横たわる「アルタナディア」を覗き見る、自分がいた………。



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